やっと・・・話すことが出来た。ずっとずっと長い間妻と私を苦しめてきた恐怖と後悔の記憶を・・・私は今、初めて口に出すことが出来たのだ。妻がいなければここまで私一人で話すことは出来なかったかもしれない。何度も声がつまり、何度も涙が流れた。それでもやはり、ここで話すことが出来てよかった、心からそう思う。妻はハンカチを目にあてているが、もう泣いてはいなかった。
「・・・・・・・・・・・。」
オシニスさんは両手で顔を覆っている。その手が小刻みに震えていた。カインの死の瞬間、オシニスさんの心の中に渦巻く声が痛いほどに感じ取れた。
≪なぜ!?≫
≪どうして!?≫
≪何かもっとほかの方法が!?≫
そしてその言葉を、必死に口から出ないように耐えていた。そう言われることが、私達をどれほど傷つけるか、そう思いやってのことだろう。だが・・・今、ここまで話し終えた私の心には、オシニスさんの心の声は何も聞こえない。何と言えばいいのか、例えて言うなら真っ白な空間とでもいうのだろうか。オシニスさんの心の中が、何もかも消えてしまったようにしか、感じ取れなかった。
「・・・今日はこの辺にしておきます。もうだいぶ遅い時間ですね。」
「・・・ああ・・・。遅くまで・・・すまなかったな・・・。」
オシニスさんは手で顔を覆ったまま答えた。この先の話は日を改めたほうがよさそうだが、私はまだオシニスさんに伝えなければならないことがある。
「オシニスさん、帰る前に、もう一つだけ話しておかなければならないことがあります。」
「・・・そうか・・・。なんだ?」
返事はしてくれるが、もう帰ってほしいと思ってるような気がした。今の話を、一人で考えたいんだろうと思う。もちろん私達だって今日はもう帰りたい。だがこの話をしないで帰るわけにはいかないのだ。
「フロリア様のことです。」
「・・・・・・・・・・・。」
オシニスさんは黙っている。
「今回、カインのことをオシニスさんに話すということは、フロリア様もご存知です。先日のお茶会でその話はしてありますから。その時に、フロリア様からオシニスさんに、言伝を預かっているんです。」
「・・・言伝・・・?」
オシニスさんが顔を上げ、手が少し下にずれて眼だけが見えた。目は真っ赤で、涙で目の周囲も赤く腫れている。
「はい。あの時のお茶会で、フロリア様がこう仰せられたのです・・・。」
『そして、その時の話を全てオシニスに話したら、彼にわたくしの元を訪ねてくれるように伝えてくれますか?』
『話を・・・してからですか?』
『そうです。オシニスはあの時わたくしが何をしたか知りません。彼とは1度きちんと話し合わなければならないと思っていますが、それにはその頃のこともきちんと知っておいてもらわなければ、公正な話し合いは出来ないと思うのです。』
『わかりました。必ず伝えます。いつ、と言うことは言わなくていいのでしょうか。』
『いつでも構わないと伝えてください。朝でも夜でも、夜中だって必ず時間を作ります。ただし、話の内容が内容ですから、その時はリーザにも退出してもらうことになります。わたくしの護衛のために、必ず武装してくるようにと。』
「・・・武装って・・・妙な言い方だな・・・。」
オシニスさんの手が顔から離れ、ポケットからハンカチを出して顔をごしごしと拭いた。
「私もそう思いましたが、その理由についてこんなこともおっしゃってましたよ。」
『実はその時に少し相談したいと思っていることがあります。それによってはわたくしの身辺もいっそう物騒になるかも知れませんから。ふふ、このくらい脅かしておいてくださいね。』
「・・・つまり肝心なことは説明なしか。」
「そう言うことになりますね。」
フロリア様がその真意について、私に知られたくないと思っていることがありそうだとあの時は考えたが、そのことは黙っていた。はっきりと聞いたわけじゃない。不確かな情報はかえってオシニスさんに先入観を持たせてしまう危険性がある。
「・・・わかった。考えてみるよ。」
「・・・お願いします。では私達はこれで失礼します。」
「ああ・・・気を付けてな・・・。」
剣士団長室を出て、宿舎のロビーに出た。この時間だともう誰もいず、明かりもかなり絞られている。
黙ったまま、私達は外に出た。門番の剣士は、こんな遅くに王宮から出てきた私達を見て驚いている。不審に思われないために、オシニスさんと話が弾んで今になってしまったよと言っておいた。門番の剣士は納得してくれたらしい。王宮の敷地を一歩出れば、そこにはもう祭りの喧騒が渦巻いている。人ごみをかき分け、宿に着いた。宿のフロアも大盛況だ。いつもならこの喧噪も悪くないと思うのだが、今日だけは静かに過ごしたい。私達は部屋に戻った。部屋の扉を閉めると喧騒は遠ざかり、やっと二人で一息つくことが出来た。
「ウィロー、君がいてくれてよかったよ。ありがとう。」
「・・・少しは・・・役に立てたのかな・・・。あの時私は・・・何も出来なかったから・・・。」
妻の瞳から涙が一筋流れた。蘇生どころか、首から吹き出す血を止めることさえ、私達には出来なかった。私達の呪文は・・・カインには何一つ効かなかったのだ・・・。
「少しどころじゃないよ。君がいてくれなかったら、最後まできちんと話せたかどうかわからないよ。これで・・・やっと一区切りつけられたような気がする。」
ずっとずっと胸につかえていたカインのことをはっきりと口に出せて、辛かったけれどよかったとも思う。むろんそれは私にとってだけだが・・・。
「あの続きはどうするの?」
「オシニスさんが聞きたいと言ったら話すよ。」
「言ってくれるといいわね・・・。」
「そうだね・・・。でも今日の様子では、何とも言えないかもしれないな・・・。」
フロリア様と私達との因縁は、カインが亡くなったことで終わったわけではない。フロリア様は、いや、シオンはカインの死も知っていた。王宮にいながら。自分の企みがうまく行ったことに、ほくそ笑んでいたことだろう。そして生き残った私達を捕らえて殺すために、城下町に王国軍を配置していたのだ。この地に聖戦竜を呼び込み、全てを無に帰すために・・・。
「だけど、今日はもう寝よう。明日は明日で仕事があるからね。あとはオシニスさんが何か言ってくるのを待つよ。何も言ってこなければ、そこまでってことになるかも知れないな。」
「あとはオシニスさん次第ね・・・。」
「そうだね。」
妻は小さくため息をついて、顔をあげた。
「それじゃ、お風呂に入ってさっぱりしてから寝ましょう。明日の朝までに気持ちを切り替えなきゃね。」
「そうだね。クリフのことを一番に考えないとね。」
この日の夜、何か夢を見るのかと、少しだけ不安だったが、まったく何事もなくゆっくりと眠れた。翌朝の目覚めも爽快だった。こんなにすっきり目覚めたのは久しぶりだ。つまりこれは、仕事に集中出来るようにと言う天の采配なんだろうか。
「まあ気分良く目覚められたのは、いいことだよな。」
いいほうに考えよう。そのあと起き出してきた妻と1階で朝食をとり、この日はいつもの時間に宿を出た。祭りの時の朝の光景は、もう見慣れたものだ。歩いている誰もがあくびをしたり、目を擦っている。祭りの期間は一ヶ月のはずなので、あとそれほどないはずなのに、人混みは相変わらずだ。
私達はまず研究棟の部屋に行った。途中でオーリスとライロフと一緒になったので、部屋に入って少し話を聞いてみた。
「どうだい、まとまったかい?」
「はい、今の時点ならこれというものを選んだので、あとは皆さんのご意見をお聞きしたいです。ちゃんと清書もしてきました。」
2人が差し出した一覧表は、きれいな紙にきちんと書かれている。ざっと目を通してみたが、前日の内容とそれほど大きくは変わっていない。薬の責任者はハインツ先生だ。打ち合わせの前に確認してもらおう。
「それじゃまずは病室に行こう。ハインツ先生達もいるだろうから、一緒に会議室に行けばいいよ。」
部屋を出て、2人と一緒にクリフの病室に入った。
「おはようございます。」
病室では夜勤の医師と看護婦達が引継をしているところだった。クリフはもう起きて、ベッドの上に設えられた背もたれに寄りかかっている。特に疲れた様子は見えない。昨夜のクリフの様子はいつもと変わりなく、睡眠時間が少しだけ長くなったらしい。
「おはようございます。今朝の打ち合わせなんですが、会長がちょっと遅れるとのことですので、少し待ってもらえないかと言うことでしたよ。今日は最初の打ち合わせなので、会長も出来れば最初から参加したいと言うことです。すみませんが待っていただけますか。」
ハインツ先生が言った。
「構いませんよ。それじゃオーリス、薬の一覧だけハインツ先生に見てもらったらいいんじゃないかい。」
「はい、ぜひお願いします。」
「そうですね。会長の用事が済むまでの間何もしないでいるのもなんですから、どれ、見せてくれないか。」
ハインツ先生はオーリス達と薬の一覧を見て話を始めた。妻はゴード先生とマッサージの打ち合わせを始めている。
「失礼します。」
扉がノックされて、入ってきたのはなんとオシニスさんだった。表面的にはいつもと変わりない。いや・・・何となく、昨日より穏やかなような・・・。
「おはようございます。昨日は遅くまで失礼しました。」
「おはよう。いや、俺もつい話し込んじまったしな。人混みに巻き込まれて変なところに連れて行かれなかったか?」
「ははは、あんな人混みでも何度も歩いていれば、結構うまく自分の行きたいところに行けるものですよ。」
「そりゃよかった。」
オシニスさんが笑った。笑顔にも特に無理している様子もない。
「クリフに話があってきたんだが、今はどうだ?」
「長くならなければ大丈夫ですよ。」
オシニスさんはうなずき、クリフのベッドの横に置かれて椅子に座った。
「おはよう、どうだ気分は。」
「おはようございます。毎日朝起きるたびに調子が良くなっていくような気分です。」
クリフは笑顔だ。以前のように常に痛みに悩まされることは今ではもうない。気になるのはたまに出る痛みのほうだが、それについては今日の打ち合わせで改めて聞いてみる予定でいる。
「そうか・・・。実は今日はお前に話があってきたんだ。ラエルのことなんだが、昨日判決が出たそうだ。今朝知らせが来たよ。」
「・・・・・・・・・。」
クリフの顔がこわばり、彼を包む『気』がピンと張りつめた。
「懲役5年、執行猶予3年だ。」
クリフがホッと一息つき、張り詰めた『気』が緩んだ。
「そのくらいですんで良かったですね。」
私もホッとした。ラエルの罪は『殺人未遂』だ。しかもその動機はまったく一方的なもので、情状酌量の余地などないくらいのものだった。
「正直俺も、この程度ですむとは思っていなかったからホッとしてるよ。裁判官の中には、もっと重い罪にするべきだって意見もあったらしいが、本人が猛省してることと、被害者のお前が減刑嘆願してくれたことが大きかったみたいだな。」
「まあ私はピンピンしてますしね。」
「この場合被害者が助かったかどうかってのは問題じゃない。奴の罪状は殺人未遂だ。お前に対して明確に殺意を持っていた。しかも動機は独りよがりで同情の余地なんぞない。本当なら10年や15年の実刑を食らってもおかしくないほどの罪なんだ。だが、お前は取り調べに協力してくれて、しかも減刑嘆願までしてくれた。お前には感謝してるよ。」
「先生・・・ラエルのことでそこまでしてくださっていたんですか・・・。ありがとうございます!」
クリフが頭を下げた。
「礼を言われるようなことじゃないよ。誰かに唆されていたみたいだし、何よりまだまだ若いんだから、道を見つけられればまた新たな人生を歩んでいけるんじゃないかと思ったからね。」
ラエルは心から悪に染まりきっていたわけじゃない。心の弱みにつけ込まれ、利用されただけだ。『あの男』クイント書記官に・・・。
「なあクリフ、ラエルの今後については奴次第だ。だから、次はお前の番だぞ。」
「はい!」
オシニスさんの言葉に、クリフが元気に返事をした。やはりラエルのことがずっと気になっていたのだろう、今朝最初に話した時より、声に張りが出てきたような気がする。
「いいか、俺はお前の両親をよく知っているが、どっちも殺しても死なないような奴らだ。その息子なんだから、自分を信じろよ。」
「はい!」
クリフはもう一度大きな声で返事をした。
「今朝は打ち合わせがあるって話じゃなかったのか?」
オシニスさんが振り向いた。
「その予定なんですが、ドゥルーガー会長が遅れるそうなんですよ。それで私達はここで待機です。もっとも何もしないわけに行かないので、打ち合わせの前の打ち合わせ状態ですけどね。」
「そうか・・・。」
オシニスさんは少し思案していたが・・・。
「なあ、少しだけ時間がとれないか?」
「うーん・・・会長がいついらっしゃるか・・・。」
「クロービス先生、大丈夫だと思いますよ。何でも急な来客があったそうなんで、応対にしばらくかかるような話でしたから。」
「そうですか。それじゃ少しなら・・・。」
「そう言えばこの医師会の上に屋上があったなあ。ハインツ先生、そこでこいつと少し話をしてきます。戻る前に会長が来たら、すみませんが呼びに来てください。」
「わかりました。」
私達は医師会の研究棟の屋上に来ていた。こんな場所があったのも初めて知った。そんなに高い場所ではないから見晴らしがいいと言うところまでは行かないが、気持ちのいい風が吹きすぎ、研究で疲れた頭をほぐすのにはちょうどいいかもしれない。
「気持ちのいいところだなあ。俺も書類仕事がいやになったらここに来ようかな。」
オシニスさんは手すりによりかかり、景色を眺めている。
「ははは、私も初めて来ましたが、いいところですね。・・・ラエルの判決、思ったほど重くなくてよかったです。私もホッとしましたよ。」
「そうだな・・・。あのコレル裁判官は俺が裏で手を回したんじゃないかとだいぶ食い下がったらしいが、逆に『重い罪の受刑者をいたずらに増やすことはない』と裁判長にたしなめられたとか言う話だったよ。」
「あの裁判官の素性はレイナック殿が調べられてるんですよね。」
「ああ、しかしなかなか追跡が難しいという話だ。つまり、誰かが意図的に隠しているんだろうな。」
その『誰か』はおそらくクイント書記官だろう。彼が一体どこまで手を伸ばしているのか、どうにも薄気味悪い話だ。
オシニスさんは少しの間黙っていたが・・・
「昨夜はつらい話をさせてしまって悪かったな・・・。」
ぽつりと言った。
「話すって約束したんですから、いいんですよ。」
オシニスさんは私を見て微笑み、また視線を遠くの景色に移した。
「お前の手が空いた時でいいから、あの話の続きを聞かせてくれないか。」
「・・・フロリア様と話す前でいいんですか?」
「ああ・・・。まずはお前の話を聞きたい。全部聞いて、その上でフロリア様と話すよ。俺はフロリア様のことをもっとよく知らなきゃならない。そばにいると言ったのに逃げるようなことばかりしていた、これから少しでもその時間を取り戻したいと思ってる。そのためには、まずお前からちゃんと話を聞いて、それからフロリア様からも聞かなくちゃな。」
「そう言うことなら、今日の夜でも伺いますよ。あの続きは・・・そんなに長くかかるような話ではないんですが、さすがに一晩で話すのは難しいかもしれませんね。」
「その中に、セーラズカフェの夫婦も登場するわけか。」
「そうですね。」
「わかった。今日の夜、部屋で待ってるよ。昨日より少し早めでもいいぞ。大事な話があると言うことにして、書類仕事をさぼる口実が出来るからな。」
「そんな事に私達を使わないでくださいよ。」
オシニスさんが笑い出した。
「オシニスさん、余計なことだと承知の上で伺います。フロリア様とのことにある程度の決着が付いたら、レイナック殿の、いや、ロランス卿とセルーネさんの提案も考えてくれるんですか?」
「・・・ああ、きちんと答えを出そうと思ってる。」
思いの外すんなりと返事が返ってきて、少し驚いた。
「どういう答えになるかは俺もまだわからん。だから期待はするなよ。でも、今までずっと逃げるだけだったからな。もうここらで答えを出さないと、俺だけでなく、フロリア様もセルーネさん達も、そしておそらくはじいさんも、誰も彼もが前に進めないんだと、俺も身に染みたよ。」
「わかりました。それじゃ今日の夜伺います。」
その後病室に戻ると、程なくしてドゥルーガー会長がやってきた。マレック先生も一緒だ。途中で会ったらしい。
「遅くなってすまんな。打ち合わせを始めよう。会議室をとってあるから、そちらに移動しようではないか。」
ドゥルーガー会長は何となく落ち着かない様子だ。
(何かあったのかな・・・。)
その『急な来客』は、あまり好ましい相手ではなかったらしい。会議室につくと、扉の前に誰か・・・。
「あれ、オシニスさん、戻ったんじゃないんですか?」
なんとそこにいたのは、さっき別れたばかりのオシニスさんだった。
「ああ、戻ろうとしたら会長に会ってな。同席してくれと言われたんで来てみたんだが・・・。」
クリフの医療チームの中にはオシニスさんも一員として名を連ねているので、全体的な打ち合わせということなら参加してもらうことになるのだが、今日の打ち合わせは手術の手順や使用する薬の話が中心になるので出席はしないという話だった。
「うむ、ちょいと急用が出来てな。こちらから出向こうかと思ったら廊下でばったり出会ったものでな。せっかくここにいるのにあとでまた来てもらうのもなんなので、同席してもらおうと考えたのだ。」
「俺としてはありがたいですよ。もっとも話の内容はちんぷんかんぷんだと思いますけどね。」
「ところで団長殿、クリフのご両親の反応はどうでしたか?」
ハインツ先生がオシニスさんに尋ねた。
「ああ、だいぶ穏やかでしたよ。完治出来なくても仕方ないが、せめて少しでも長生きさせてやりたいと言っていました。子供のいない俺でさえその気持ちはわかります。それに俺にとってクリフは今でも大事な部下ですから、少しでも長生きして、充実した人生を送れたと思えるようにしてやりたいですよ。でもそれは皆さんにお願いするしかありません。俺は俺で、出来る限りのことはさせていただきますから、よろしくお願いします。」
「うむ・・・。我らも全力を尽くそう。ではまず手術の打ち合わせをしようではないか。ハインツ、薬についての案はこの2人から話があるのかね。」
「ええ、先ほど私も確認しました。オーリス、ライロフ、説明をしてくれるか?」
「はい。」
2人は昨日より遥かに落ち着いている。まずは自分達が考えた薬の内容と、昨日私に指摘されたことから、今朝ハインツ先生に確認してもらったというところまで、なぜこの薬を選んだかの理由も合わせて堂々と説明していた。
「なるほど・・・。これなら問題はないと思いますよ。あとは準備の手順ですな。オーリス、ライロフ、ハインツ先生はクロービス先生と一緒に執刀することになっているが、私は君達の近くにいるようにしよう。どんなことでも不安があれば聞いてくれていいよ。大事なのは手術の成功だ。これに勝る大事な問題など無いんだからね。」
マレック先生は2人の説明に終始感心したようにうなずきながら、手元のノートに何か書いていた。
「ありがとうございます。」
2人とも笑顔だ。心なしかホッとしたように見えるのは、やはりこれだけの医師が揃っている場所での発表には緊張したのだろう。その後何点か打ち合わせをした。現在のクリフの状態を考えて、最善と思われる手術の手順などだ。これは昨日までに私が考えた手順書を元に行われた。
「うむ・・・みなこれで異論はないか?今日の打ち合わせは一回目だからこれが確定ということではないが、そうちょくちょく手順を変えるというわけにもいかぬ。問題なければこの手順書を元に準備を進めていきたいと思うが。」
ドゥルーガー会長が尋ねたが、医師達の反応はおおむね良好だった。ハインツ先生が過去の手術の経験をもとにいくつかの助言をしてくれたので、その部分を盛り込むことで手順書は完成した。これから手術当日までの間に何事も起きなければそのままの手順で進められるが、万一何かが起きた時にはまた集まって打ち合わせをすることになった。
「うーん、しかしあの痛みは気になりますねぇ。」
ハインツ先生が言った。打ち合わせの中で私が尋ねたクリフの『痛み』について、心当たりがある医師は誰もいなかったのだ。
「一過性のものなら気にすることはないと思うんですが・・・普段の痛みとはまた違う種類の痛みのように思えるので、そこが私も気になっているんですよ。」
それほど苦しがるわけじゃない。痛み止めを飲むか飲まないかのうちに回復してしまう。気にするほどのことでもないように思えたが、どうしても引っかかる。そしてこんな風に引っかかる時には大抵何かの前兆だったりすることが多いのも確かだ。
(やっぱり・・・マッサージによる副作用の一つなのか・・・。)
あまり考えたくはないことだ。それに、可能性としてゼロではないと言うだけで、根拠と言えるほどのものは何もない。もしかしたらそうかも知れない、程度の考えで口に出すべきかどうか迷っているところだ。
「クロービス先生、父のノートの中にもなにもありませんでしたか?」
マレック先生が尋ねた。
「そうですね。かなり隅々まで見たつもりですが、見つけられませんでした。」
「この病気の患者は、父はかなりの数診ているはずなんですよ。それじゃ私から、ちょっと手紙を送って聞いてみます。今日のうちに届くように配達人に頼んできましょう。」
「ありがとうございます。私ももう一度よく見てみます。」
「父のノートはお世辞にも読みやすいとは言えませんからね。直接聞いたほうが早いかもしれません。」
マレック先生が笑った。
「そうだな。デンゼル老は経験も豊富だし、いろいろといい助言をしてくれるだろう。医師会の中で解決出来んとは情けない限りだが、私からもぜひご助言をお願いしたいと言っていたと、添えてくれるかね。」
ドゥルーガー会長が言った。
「わかりました。それじゃ会長、次に父に会うことがあったら、愚痴を言われることは覚悟していただかないとなりませんが、よろしいですかな?」
マレック先生がいたずらっぽく笑いながら言った。
「仕方あるまい。デンゼル老にとっては私など子供のようなものだろう。愚痴も文句も甘んじて受けようではないか。」
ドゥルーガー会長が肩をすくめた。
「はっはっは、では会長のお覚悟のほども一筆添えておくことにいたしましょうか。」
マレック先生の言葉に、みんな笑い出した。デンゼル先生のノートを、私ももう一度よく見てみよう。何度も見たとは言え、見落としがないとは言い切れない。
「マレック先生、ちょっとお願いがあるんですけど。」
言ったのは妻だった。
「はい、なんでしょう。」
「デンゼル先生にお手紙を出してくださるとき、マッサージの副作用という可能性はあるかどうか、それも聞いていただけませんか?」
「え!?」
驚いたのはゴード先生だ。
「そう考えられる根拠があるってこと?」
妻に尋ねた。まさか妻も同じことを考えていたとは思わなかった。だがそのマッサージのおかげでクリフは劇的に回復している。にも関わらず妻がこんなことを言うと言うことは、やはり可能性の問題だろう。ゼロでないなら考えてみるべきだと。
(やっぱり思ったことは口に出してみないとだめだな・・・。)
知らず知らずのうちに、一生懸命マッサージをしている妻や、これを機会に自分の研究テーマが陽の目を見るかも知れないと意気込むゴード先生に遠慮してしまっていたのかも知れない。
「根拠があるというより、可能性の問題よ。ゼロでないなら考えてみるべきだと思うわ。」
「でもウィローさん、マッサージで患者の痛みはだいぶ和らいでいますよね?」
ハインツ先生が尋ねた。
「ええ、それは確かなことの一つです。でも今まで私達は、患者の痛みを軽減するために痛いという部分をマッサージしてきました。それが患部に何一つ影響を及ぼさないというのは、ちょっと都合のいい考えではないかと思うんです。しかもこの病気自体はそれほど珍しい病気ではありません。ここにいらっしゃる皆さんも何人もの患者を診ていらっしゃるということですし、私達の住む小さな島でさえ患者の数は少なくないんです。でもどなたも、そして私達も、これという理由が思い当たらない、これはつまり、皆さんがこの病気の患者の治療をしていたときにやってなかった事、今回のマッサージという試みに原因があるかもしれないと、考えるのが自然です。」
「し、しかし・・・痛みを軽減する一方で別の痛みを誘発するなどそんなことが・・・。」
ゴード先生があきらめきれないように言った。
「ゴード先生、落ち着いてください。それはあくまでも私の考えです。その考えが間違っているのか正しいのか、それを見極めるためにも、デンゼル先生のお知恵を拝借したいと思ってるんです。私は医師ではありませんが、クリフのマッサージの担当者の一人として、出来るなら手術前にその痛みの正体を突き止めたいと考えています。」
「なるほど。それでは今までの経緯なども含めて聞いてみましょうか。今回の手術には父もだいぶ興味を持っているようですので、いろいろと答えてくれると思いますよ。」
「よろしくお願いします。」
「ま、そんなこともわからんのかと、私はどやされそうですがね。」
マレック先生がそう言って笑ったが・・・一人真顔なのがゴード先生だ。
「ウィローさん、本当にその可能性があるとなった場合、今後のマッサージはどうするおつもりですか?」
ゴード先生はまだ納得していないらしい。
「それはデンゼル先生からお返事を頂けたときに改めて考えましょう。今は手術に向けて体力をつけることが先決ですから、今まで通りの日程で進めていくつもりでいます。ゴード先生のお考えはいかがですか?」
妻は冷静だ。もしかしたら、あの痛みが出るたびに妻はその可能性を疑っていたのかもしれない。
「そ・・・それはもちろん、今まで通りで行きたいと思ってますが・・・。」
「ゴード、まずは落ち着こうじゃないか。我々がどう思いたいかと真実がどこにあるのかは、切り離して考えなければならないからな。」
ハインツ先生が言った。ハインツ先生も冷静だ。
「いや、それはそうですが・・・。」
「それに、たとえばその可能性が高まったとしても、マッサージでクリフの痛みが和らぎ、ここまで回復したのは確かなんだ。そこは自信を持ってもいいと思う。マッサージや整体の技術がすべて否定されるわけじゃないさ。」
「・・・・・・。」
ゴード先生は悔しげに唇をかみしめ、黙り込んだ。
「ゴード先生、ハインツ先生のおっしゃる通りだと思いますよ。あの痛みがたとえ本当に副作用だとしても、これまでの成果はあるのですから、きちんと見極めたうえで次の策を考えましょう。」
「そうだな・・・。医療の進歩は多くの医師の試行錯誤の繰り返しで培われてきた。ゴードよ、そなたの気持ちがわからぬわけではないが、まずは落ち着きなさい。焦りで目が曇れば、見えるものも見えなくなるかもしれぬぞ。」
「・・・そう・・・ですね・・・。」
ドゥルーガー会長にそう言われ、不承不承という感じではあったが、ゴード先生がうなずいた。無理もない。ここまで順調に来たのに、実はそれが痛みを誘発していたのだとしたら・・・
「ところでクロービス先生?」
突然妻が私を呼んだ。こんな呼ばれ方をする時、大抵は妻が私に何か怒っていたり、言いたいことがある時だ。周りの先生方が少し驚いたように私達を見ている。
「・・・君にそんな呼ばれ方をすると怖いな。何?」
「あなたの考えはどうなの?クリフの痛みが出るたびに何か考えているような気がしたけど、あなたも何かしらこの痛みについて思うところがあるんじゃないの?」
「・・・まあね・・・。」
こう正面切って聞かれてしまうと、正直に話すしかない。私は自分の考えを全部話した。ただし、ゴード先生達に遠慮して、などと言うわけにはいかない。そんなのはただの言い訳だと、自分自身がよく知っている。
「・・・というわけで、全く雲をつかむような話と言いますか、自分の説に確信が持てなかったのです。でもそんな言い訳が通用するとは思っていません。どんな些細なことでもきちんと皆さんと情報を共有すべきでした。申し訳ありませんでした。」
私はこの場にいる全員に向かって頭を下げた。
「マレック先生、私もデンゼル先生のお知恵には期待しています。それと、お預かりしているノートをもう一度よく見てみますので、ぜひよろしくお伝えください。」
「わかりました。なに、気になさることはありませんよ。誰でも自分で確信の持てない説には慎重になりますからね。」
確かに、確信が持てない、はっきりとした根拠を提示できないような説でも、医師が口にすれば患者にとってはそれが重くのしかかることもある。そう考えれば、思ったことを何でも口に出すべきではないとは思う。思うが・・・。
「ではこの件はデンゼル先生からのご助言と、クロービス先生がデンゼル先生から預かっておられるというノートの中の情報が得られてからの話ということにしましょう。それでは皆さん、何か質問はありますか?」
ハインツ先生が言ったので、私は昨日頼まれたライラの依頼について提案してみた。
「・・・というわけなんです。今回の手術に直接関係のある話ではないので恐縮なんですが、医療技術の未来のためにも、皆さんのお知恵を拝借できないかと思いまして。」
「ほぉ、ライラ博士がそんな事を。しかしありがたいことですな。ナイト輝石の最初の平和利用が医療器具となれば、文句を言う人はいないと思いますがね。それで、何か具体的な案があるんですか?それともそれをこれから我々が、あくまでも個人的な提案として出すとか?」
ハインツ先生は乗り気だ。他の先生達もかなり興味を持って聞いている。
「ふむ・・・クロービス殿、残念ながら医師会としての提案は出来ぬが、それでも構わんかね。」
ドゥルーガー会長が言った。
「もちろんです。試験採掘が始まってある程度の採掘量が見込めるようになってからならともかく、今の時点では医師会に限らず、どこの組織も表だって動くことは出来ないと思いますから、それは実際にライラに頼まれた私個人としての提案と言うことで出すつもりです。ただ今回ライラが私の部屋に来た時、ちょうどオーリスとライロフが部屋にいまして、彼らからも提案があったのです。せっかくですから2人にそれについてここで話をしてもらおうと思いまして。」
「ほぉ、お前達からかね。それはぜひ聞かせてくれ。」
ドゥルーガー会長が、身を乗り出した。この2人から積極的な提案が出たことが、うれしかったのかも知れない。
「は・・・はい。実は・・・。」
私の前で話した時よりは緊張していたと思うが、オーリスとライロフは自分達の提案について堂々と話した。
「なるほど・・・車椅子か・・・。それはいい着眼点だな。」
2人の話を聞いて、かなり興味を示したのがゴード先生だ。
「この診療所でリハビリを受ける患者が、全員入院しているわけではありませんからね。家からリハビリにだけ通う患者もいますが、車椅子を押してここまで来る家族には相当な負担なんですよ。しかし今のところそれしか方法がないので、車椅子がもっと軽く扱いやすくなるのは大歓迎です。」
さっきの件ではむすっとしたまま黙り込んでいたゴード先生だが、今は実に生き生きとしている。
「クロービス先生、それならライラ博士が言っていたという移動用ベッドについても、合わせて発案として出していただくことは出来ますか?」
ハインツ先生が言った。
「ライラはたぶんそのつもりだとは思いますが、改めて私からも提案として出しておきますよ。」
「クロービス先生、車椅子やベッドほどの緊急性はないですが、私としてはぜひ食事を運ぶワゴンも軽量化してほしいですね。」
マレック先生が言った。
「あれ自体は昔よりずいぶんと軽くなっています。しかし、食事を乗せればどうしたって重くなるんですよ。看護婦が一人で押すのはかなりの重労働です。しかし一つのワゴンを二人で動かせるほどの人手がなかなか確保出来ないと来ている。食事は患者の楽しみであり、病気を治す手助けをする重要なものです。どうでしょう?先生個人のお考えということで提案されるのであれば、そちらもお願いしたいと思うんですがねぇ。いやもちろん、優先順位としては低くなるのは仕方ありませんが、そう言ったものも重要なものなのだということを、フロリア様始め大臣の方々に理解していただくにはいい機会だと思うんですよ。」
「なるほど、やはり単独で使うものより、人や物を乗せることを前提にしたものは、今のままでいいということはなさそうですね。わかりました。今日の午後、ライラが私の部屋に来ることになっていますので、その時に話をしてみましょう。」
「クロービス殿、もしも試作ということになれば、試作元についてはレイナック殿がご存じであろう。メスや鉗子のような細かいもの同様、手配はしてくれるはずだ。大きなものは作るのにも時間がかかるし、すべての部品をナイト輝石でというわけにもいくまい。設計なども必要だろうから、事前にある程度あたりをつけておいたほうがいいかもしれぬな。」
「わかりました。ありがとうございます。」
午後からライラが来た時に、改めて私から話をしておきますということになった。その後ライロフとオーリスは部屋に戻って薬についてもう少し調べてみるというので、一足先に会議室を出た。
「・・・さてと、剣士団長殿、待たせてしまったな。わざわざ来てもらった本題に入ろうか。」
「いや、内容がわからないとはいえ、いろいろと話が聞けて俺としてはありがたかったですよ。それじゃ会長の話を聞かせてください。」
「・・・会長、私もいていいんですか?」
遠慮がちに聞いたのはゴード先生だ。
「無論だ。いささか厄介なことが起きたのだが、それはここにいる全員が知っておいてもらわなければならぬことなのだ。」
そう言ってドゥルーガー会長が話してくれた内容に驚いた。先ほどの『急な来客』はなんとクイント書記官だったというのだ。本来ならば書記官が予約もなしに医師会長の元を訪れるなど無礼甚だしく、しかも会長の予定まで変更させるなど、あってはならないことだと言う。しかし、書記官本人が用事というのではなく『エリスティ公殿下の名代として』と言われてしまうと、無下に断れなかったということらしい。だが私達が驚いたのは、その用向きだ。なんとクイント書記官は『エリスティ公は、今回のクリフの手術が成功することを心より祈っている。そこで少しでも助けになればと、医師会に薬草を寄贈したいと申し出ている』と言い出したのだそうだ。しかもその薬草のリストを見てもっと驚いた。今では街中で2倍以上にまで値上がりしている薬草がかなりの数含まれている。
「これがその薬草のリストだ。きちんとまとめられている。」
「ほお・・・これはまた・・・。」
ドゥルーガー会長が机の上に置いた1枚の紙を、ハインツ先生が興味深げに覗き込んだ。私も見てみたが、なるほど確かにきれいにまとめられている。『書記官』らしく、文字も美しい。
「うーむ・・・普通に考えれば公の度量が思ったより広かった、ということになるのでしょうが・・・『あのお方』ですからなあ・・・。額面通りに受け取るのは危険というものでしょうな。」
マレック先生がため息とともに言った。
「薬草の寄贈そのものはありがたいんですがねぇ。」
ハインツ先生は困ったような顔をしている。
今回の打ち合わせで、使う薬草の種類はある程度決まった。クリフの容体がよほど劇的に悪くならない限り、多少の状態の変化には対応できる内容だ。だが、それなりに使う量は多く、これから薬草庫の在庫を調査しなければならないと、さっきハインツ先生が言っていたのだ。薬草庫への出入りは、オーリス達だけでは出来ない。在庫の中には劇薬も麻薬も含まれる。必ず監督責任を負う医師、つまりハインツ先生が立ち会わなければならないので、今日の午後にでも予定しておいてくれと、さっきオーリス達に指示を出していた。
「ちゃんと確認しないうちに言うのもなんですが、私の記憶がそう間違っていなければ、このリストの中にある薬草は医師会の在庫がいささか心許ないものばかりですよ。」
ハインツ先生が難しい顔で言った。
「そんなわけはないと思いたいですが、誰かに調べさせたということは・・・。」
私はドゥルーガー会長に尋ねた。
「公からそのような依頼があったとしたら、まずは私に話を通すのが筋というもの。それが何もないのだから、本当に誰かに調べさせたのだとすれば、これは由々しき事態だが・・・。」
会長も考え込んでいる。確かに外部の者が医師会内部のことを会長の許可も得ずに調べているとしたら、それは大変なことだ。今回は薬草の話だが、こんなことを許してしまったら、最悪患者個人のカルテの内容が流出する危険性まで考えなければならなくなるかもしれない。
「会長、もしも差支えなければですが、こちらで調べてみましょうか?」
そう言ったのはオシニスさんだ。
「うむ、それをお願いしようかと思ったのだが、それにしても雲をつかむような話だ。それでも大丈夫かね。」
「このリストの中身が、値上がりしている薬草ばかりってのが気になります。だいぶ以前から値上がりしているものもあるし、最近になって報告が届いたものもあるんですよ。薬草の値上がりについてはこっちでも調べてますし、じいさんのほうでもおそらくいろいろと掴んでいると思います。今回の寄贈の話は妙にタイミングが良すぎる。そのあたりは慎重に調査する必要がありそうですが、まずはこのリストを写させてほしいんですが、いいですか?」
「うむ、問題なかろう。公とて堂々と寄贈を申し出ているのだ。リストが剣士団に出回ることなど、想定のうちだろう。」
(クイント書記官にとっては想定のことだろうな・・・。)
どんな意図があってのことかはともかく、わざわざ医師会にこんな話を持ち込んだのだから、それが今回の執刀医である私の耳に入らないはずがないことくらいわかっているだろう。そして会長がそうしなかったとしても、私がオシニスさんに調査を依頼する可能性についても、予測はついているんじゃないかと思う。
「・・・よし、これでいい。会長、この話はフロリア様とじいさんにはまだですよね?」
オシニスさんがリストを写したノートを閉じた。
「うむ、これから報告に出向くところだ。もしかしたら、クイント書記官のほうでは既に報告済みかもしれんがな。」
「それじゃこれから行きますか?」
「そうだな。では本日の打ち合わせはこれで終わりにしよう。次回は明日、全体での打ち合わせを予定している。明日は手術の前日だ。万に一つもほかの用事で欠席などということがないように、日程を調整してくれ。何か問題があれば明日にこだわらず、いつでも開催するので、その辺りの判断は各自に任せる。私もその日までは出来る限り予定を入れないでおくから、いつでも声をかけてくれて構わぬぞ。くれぐれも、問題を抱え込まず、皆で共有して解決に当たるようにしなければならぬ。それと、今回の薬草寄贈についてはまだ他言無用だ。相手の意図が読めぬうちはこの話はないものと思って考えておいてくれ。進展があれば必ず知らせよう。以上だ。」
「では本日はこれにて解散といたします。何としても手術を成功させるために、気を引き締めて頑張りましょう。」
ハインツ先生のあいさつで打ち合わせは終わり、今日もそれぞれが持ち場について自分の仕事をすることになった。
「クロービス先生、ハインツ先生、クリフの食事についての献立が出来ましたので、一度見ていただけますか?」
マレック先生が言った。
「では病室で伺いますか。食べ物のことなら、クリフにも聞いてもらったほうがいいでしょう。」
「そうですね。」
オシニスさんとドゥルーガー会長がフロリア様に今回の件を報告に行くことになり、残った全員で病室に戻ってきた。
「・・・とまあ、こんな流れで考えています。手術当日には胃の中が空になってないと困りますからな。クリフ、申し訳ないが、我慢してくれないか。」
「わかりました。我慢なんて飛んでもないです。」
マレック先生の説明は、クリフのベッド脇で行われた。なんと言っても食事は患者の一番の楽しみだ。それを少しずつ減らして、しかもどろどろがとろとろに、前日はほとんどパンがゆの上澄みのようなものしか口に出来ないのだから、きちんと理解してもらわなければならない。
「では私はこれから食事の手配をしてきます。ローランにも手紙を出しておきますので、返事が届き次第お知らせしますよ。」
「よろしくお願いします。」
マレック先生が病室を出ていった。
「クリフ、手術前だというのにあんまり楽しい話が出来なくて悪いんだけど、もう少し詳しく、あの痛みについて教えてくれる?」
妻が笑顔でクリフに話しかけた。
「とんでもない。僕は皆さんのおかげでこうして話が出来るまでに回復出来たんです。どんなことでもお話します。」
クリフは笑顔だ。そしてその痛みについてかなり詳しく話してくれた。
「・・・なるほど、ということは、この痛みに限っていうなら、最初に痛みを感じた時と特に変わっていないということなんだね。」
「そうですね・・・。以前の眠れないほどの痛みはマッサージと薬のおかげでだいぶ和らぎました。でもこの痛みはそもそもそんなにものすごく痛いということはなくて・・・。」
私は頭の中で、最初にこの痛みが出た時にクリフから聞いた話と今聞いた話を考え合わせてみた。
『そんなに痛いわけではないんですけど・・・。』
『どちらかというと違和感みたいなのから始まって・・・。』
以前聞いた話と変わらない。クリフと同じ病気の患者は、私も何度か診たことがあるし、他の先生方もドゥルーガー会長も幾つもの症例を知っているが、こんな妙な痛みが出た患者は思いつく限りいなかったというのだ。
「・・・痛みが出たのは・・・あの時が最初ってことか・・・。」
病室で私がいる時に聞いた、あの時が最初だったと思うと本人が言っていた。もっとも、もしもそれより前に痛みが出ていたとしても気づかなかっただろう。元々の痛みはそれほどひどいものだったはずだ。痛みの違いなんて判るはずがない。患者にとっては『とにかく痛い』以外に表現のしようがないからだ。だが・・・
(マッサージのせいで痛みが出たと仮定した場合、症状が出るのはそのくらいの時期からかも知れないな・・・。)
とにかくデンゼル先生のノートをもう一度見てみよう。痛みを逃すためのマッサージなんてやったことはないかもしれないが、何かしらのヒントがあるかもしれない。
「それじゃさっそくノートを見てきます。出来ることはやっておきたいですからね。」
「クロービス先生、よろしければそのノートを私達にも見せていただけますか?かなりの量があるようですし、先生お一人で探されるより、みんなで手分けしたほうがいいかなと思うんですが。」
ハインツ先生が言った。
「しかし皆さんお忙しいのにいいんですか?」
私にとってはありがたい話なのだが、頼ってしまっていいものか不安になる。私はクリフの手術以外に何の仕事もないが、ハインツ先生達はそれぞれ自分の患者を抱えている。外来の当番はクリフの手術が終わるまで外れているらしいが、それにしたって私よりはるかに忙しいはずだ。
「もちろん。マレック先生の話ではだいぶ読みにくいらしいですが、デンゼル先生の研究ノートというのは興味がありますからね。そこにどんなことが書かれているか、ぜひ読ませていただきたいんですよ。」
「それじゃあとで研究室のほうにお持ちしましょうか?」
「いや、よろしければですが、これから先生の部屋に伺いますよ。」
「それじゃ行きますか。ゴード先生はどうされます?」
「私も一度そのノートを見せていただきたいですが、ご一緒していいんですか?」
「もちろんです。それじゃ、ウィロー、先生達とノートを見てくるから、クリフのことは頼んでいいかな?」
「いいわよ。あのノートは解読するのに時間がかかりそうですものね。」
言いながら妻が笑った。確かにきれいとは言い難い文字で、しかも書きなぐるように書かれたものがほとんどだ。ノートを預かってから私は時間を見つけては読んでいたが、妻が隣で『どこか他の国の言葉みたいね』と言って笑っていたものだ。
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