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第83章 サクリフィア神殿へ

 
 穏やかな海を、船は滑るように進み、船着場はあっという間に見えなくなった。村長達はさようならとは言わなかった。私達も言わなかった。また会おう。必ず戻ってこよう。これから向かう場所がどれほど恐ろしい場所だとしても、私達は必ずあの村へ戻る。『サクリフィアの錫杖』を携えて・・・。
 
「いよいよだな。」
 
「そうだね。」
 
「のんびり行きましょうよ。今から緊張してたら持たないわよ。」
 
 ウィローの言葉にみんな笑い出した。
 
「そうだな。上陸する前にいろいろと確認しておきたいし、村長の言うとおり、今日の夜は運河の中で寝ようぜ。警戒するのが盗賊だけなら、不寝番も楽だろうしな。」
 
「出来れば盗賊も出て来てほしくないけどね。」
 
「ははは、そりゃそうだ。」
 
 モンスターが出ないとわかっていても、気を緩めることは出来ない。ここは私達の住むエルバール大陸ではないのだ。焦らず、船をゆっくりと進めながら、あたりに気を配り続けた。
 
 
「お、見えてきたぞ。」
 
 来る時に確認しておいた、サクリフィア大陸北側への分岐点にたどり着いた時には、あたりは夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
 
「ここで間違いなさそうだね。」
 
 カインは荷物の中から、ここを最初に通った時に描いた絵を取り出し、何度も実際の景色と見比べながら確認した。
 
「ああ、間違いないと思う。今夜はここで休もうぜ。」
 
 今のカインはとても落ち着いている。だが、上陸してからはどうなるかわからない。私が気を引き締めておかなければならない。運河の隅に碇を降ろし、私達はそこで夜を明かした。結界の力でモンスターは寄ってこない。一応盗賊を警戒して不寝番は決めたが、次の日の朝まで何事もなく過ぎた。
 
「ふぅ・・・夕べ体力を使わないですんだから、今日はかなり進めそうだな。」
 
「そうだね。今日中に神殿までたどり着けるかどうかはなんとも言えないから、慎重にいこう。」
 
「そうだな。」
 
 私達は船を進め、運河の分岐点を北側に折れた。結界の影響力がかなり強いらしく、上陸出来る場所まではモンスターは近づいてこないのだが、前方には早くも気配が感じられる。
 
「うはぁ、これはすごいな。」
 
 上陸出来る場所には、どうやら100年前までは使われていたらしい桟橋が設えられていたので船を下りるのは楽だったのだが、なんとその桟橋のすぐ近くまで鬱蒼とした森が迫っているのだ。
 
「元々こうだったのかなあ。」
 
 ここから見た分には、この森はとても昨日や今日出来上がったとは思えない。100年前までは人が頻繁に出入りしていたはずだから、ここまでではなかったのだろうが、森自体は100年どころの古さではなさそうだった。
 
「どうかなあ。でもこの桟橋までは結界の影響が及んでいるみたいだね。」
 
「なるほどな。巫女姫が船から降りた途端にモンスターに襲われたりしたらシャレにならないだろうから、このあたりまでは結界を張り巡らせておいたってことか。」
 
「でもそれなら神殿まで結界が繋がっていてもいいはずよね。」
 
「それもそうか・・・。クロービス、どうだ?結界があるかどうか、わかるか?」
 
「うーん・・・。」
 
 確かに、思っていたより結界の範囲は広そうだ。この桟橋のまわりはしっかりと結界で固められている。だが、それにもかかわらずかなり近くにモンスターの気配を感じ取れると言うことは、結界の及ぶ範囲はこの先かなり狭まっていると考えたほうがいいかもしれない。
 
「そうか・・・。100年前までは巫女姫がガーディアンを制御出来ていたわけだからな。別にそんなに広い結界は必要なかったのかも知れないな。」
 
「そうね・・・。巫女姫が神殿に入るにはそれなりの人数がぞろぞろとついてきたんでしょうから、その人達を守るための結界かも知れないわね。極端な話、巫女姫1人なら、そのほうが身を守りやすいかも知れないわ。」
 
「確かにね。まったく戦えない人を何人も守らなければならないのは、大変だからなあ。」
 
「仕方ない。この先は、結界を見極めながら進もう。もしも道をそれても、あんまり動き回らないように、とにかく固まって進もうぜ。」
 
「そうしよう。」
 
 上陸し、私達は鬱蒼とした森の中に向かって足を踏み入れた。
 
「うーん、何となくだけど、ハース渓谷の中みたいな感じだな、ここは。」
 
 カインの言うとおり、この鬱蒼とした濃密な緑の世界は、ハース渓谷を思わせる。森の中には道が1本延びており、けもの道と言うほどには荒れていず、比較的きれいに整備されている。元々この道が、巫女姫の通り道だったのだろう。道の先を見通せるほどこの森は狭くないようだが、道から外れさえしなければ神殿にかなり近づけるはずだ。結界はその道に沿って真っ直ぐに伸びている。だが、モンスターの気配が強くなる場所がところどころにあり、結界がかなり弱まっていることを感じさせる。
 
「ということは、結界もあんまりあてに出来ないってことか。」
 
「いつでも戦えるようにしておいたほうがいいよ。」
 
 私達は慎重に歩き続けた。しばらく歩くと、どこからか歌声が聞こえてきた。しかも美しい女性の声で。
 
「・・・冒険者でもいるのかな?」
 
 そう言ったカインは、自分の口から出た言葉をまるっきり信じていないようだった。
 
「女性の冒険者がたまたま歌を歌ってるとか?そのほうが怪しすぎるよ。」
 
「それもそうだ。」
 
 カインが剣の柄に手をかけながら、先に立って声の主を見極めよう立ち止まり、結界の外側に広がる森を睨みすえた。
 
「待って!なんだか様子がおかしい。用心しないと!」
 
 歌声は確かに耳から聞こえてくるのだが、それだけではない、頭の中に直接語りかけてくるようだった。まるで、『彷徨の迷い炉』で聞いた声のように・・・。ねっとりとまとわりつくような、まるで美しい女性が絡みついてきたような、そんな淫らな魅力に溢れた歌声ではあったが、私の中に張り巡らされた『防壁』には通用しない。声は『防壁』のまわりをゆらゆらと漂い、その中に邪悪な意図が見え隠れしている。すると、なんとカインが森の中に分け入っていく。
 
「カイン!待って!危ないよ!」
 
 カインは私の声が聞こえているのかいないのか、声のするほうにどんどん歩いて行く。慌てて後を追いかけたが、異常なまでに歩く速度が速い。まずい、これでは道を外れてしまう。森の中の、少しだけ広めの場所に出たところで私はやっとカインに追いつき、後ろから羽交い締めにした。
 
「カイン!!」
 
 耳元で思いきり大きな声で叫んだ。振り向いたカインの瞳は虚ろで、何も見えていないようだったが、突然びくっと体を震わせると、思いきり頭を左右に振った。
 
「カイン!!気がついたんだね!?」
 
「ふぅ・・・。危なかった・・・。」
 
 カインは額の汗をぬぐって大きな溜息をついた。
 
「・・・この歌は人の心を惑わす歌だ。クロービス、助かったよ。お前と・・・セディンさんがくれた腕輪のおかげだな。これがなかったら、今頃俺は森の中に迷い込んで死んでたかもな。」
 
「あの腕輪か・・・。」
 
「うん。いきなり腕がぎゅっと締めつけられるような気がしたんだ。でも腕輪が縮んだりしたわけじゃないから、これがセディンさんの言っていた腕輪の効果なんだろうな。」
 
「そうだね。よかった・・・。」
 
 私達がそんな話をしている間にも、歌声は少しずつ近づいてきて、やがて私達の前に広がる森の中から、肌もあらわな衣装を身にまとった美しい女が二人出てきた。二人はにこやかに私達に微笑みかけながら、なおも歌を歌い続けている。その時私の肩越しに何かが飛んだ。ウィローの放った矢だった。矢は女の一人に命中し、その瞬間歌声はとぎれ、美しい顔はみるみる怒りに歪み、まるで蛇のように牙をむいて私達に躍りかかってきた。だが声さえ聞かなければそれほど強い相手ではない。私達は難なく攻撃をかわすと、思いきり剣で斬りつけた。だが・・・私達が驚いたのはその後だった。その女達は恐ろしい悲鳴を上げると、何と霧のように姿がかき消え、森の奥に吸い込まれてしまったのだ。後にはウィローの矢だけが落ちている。
 
「な・・・何だったんだ・・・今のは・・・。」
 
 カインが驚きと恐怖の入り交じった瞳で、森を見つめている。
 
「消えた・・・よね・・・。」
 
「ああ・・・。みんなして幻覚を見たのでなければな・・・。」
 
「でも、とりあえず助かったわけか・・・。」
 
「そう言うことだな。とにかく道に戻ろう。この森は・・・迂闊に入り込んだら大変なことになる。ウィロー、君のおかげだな。君がさっき矢を放ってくれたおかげで追い払うことが出来た。」
 
 カインがウィローに振り向き、ウィローはニッと笑って見せた。
 
「ふふふ・・・。あんなかっこしていくらきれいな声で歌っても、私には通用しないわよ。」
 
「なるほどな。確かにそうだよな。」
 
 笑ってはいたが、カインの顔は真っ青だ。かなり動揺している。確かに薄気味悪い歌声だったが、カインの動揺はおそらくそれだけではない。さっきの歌声は、耳から聞こえると同時に頭の中にも直接響いていた。男を惑わすような妖しくも邪悪な歌声だ。おそらくは、心の中に眠っている、或いは意志の力で抑え込んでいる欲望を、むりやり引きずり出されるような、そんな歌声だった・・・。
 
「ずいぶん道を外れちまったな・・・。はぁ・・・呪文に適性がないと、こう言うことになるのか・・・。」
 
 カインが溜息をついた。だいぶ落ち着いてきたらしいが、先ほどの失態をかなり悔やんでいる。
 
「仕方ないよ。私だってまさかあんなのが出てくるなんて思いもしなかったんだ。とにかくさっきの道に戻ろう。」
 
「そうよ。それにあんなふうに消えてしまうなんて・・・確かに強いと言うより、薄気味悪いモンスターだったわ。あれがランスおじいさんが言っていた『木霊』なのかしら。」
 
『そもそも精霊というものは生身の肉体は持たぬ。ただ、自在に姿を変えられるので、必要に応じて生身の肉体があるように見せることも可能だと』
 
 ランスおじいさんの言葉を思い出した。清らかな精霊が森の毒気に当てられて、そのままでいられるかどうかと・・・。
 
「モンスターか・・・。そうなんだろうな・・・。」
 
 カインがぽつりと呟いた。カインはあの歌声の中に、あの美しい女の姿に、何を見たのだろう・・・。
 
 
                                           
 
 
「おかしいな・・・。」
 
「そんなに遠くまでは来ていないはずなんだけど・・・。」
 
「道から真っ直ぐだったはずよ。」
 
 船着場から伸びていたあの真っ直ぐな道に戻ろうと、私達は来た道を歩き始めた。そのはずだったのだが、あの真っ直ぐな道が、どこを見ても見当たらないのだ。私達は何度も『来た道』を往復したはずなのだが、目の前に広がっているのは鬱蒼とした濃密な森ばかりだ。
 
 
「ちょっと待って。」
 
 誰も『どうして』とも言わず、みんな立ち止まった。
 
「・・・どう言うことなんだ?」
 
 カインの顔はいっそう青ざめている。横道にそれただけのはずだったのに、どこまで行ってもさっきの道が見つからないのだ。自分が歌に惑わされたせいで道を外れてしまったと、カインがずっと悔やんでいるのがわかる。だがとにかく今は落ち着くことが先決だ。
 
「とにかく、闇雲に歩くのはやめよう。陽が高いってことは、まだ昼間だってことだよ。さっきここに着いたのは朝早い時間だったんだ。これ以上時間を無駄にしないように、まずは状況を整理しよう。」
 
 森は鬱蒼としていたが、その中に敵意はそれほど感じられない。さっきのようなモンスターがうじゃうじゃいるというわけでもなさそうだ。私達は少しだけ木々の間が広くなっている場所に座って、休むことにした。
 
「さっき、私達は確かに真っ直ぐ北側に延びた道を見た。これは確かよね?」
 
 ウィローが不安げに言った。それについてはカインにも私にも異存はない。船着場から伸びる真っ直ぐな道。結界が張ってあることはわかった。そしてその結界の向こう側にモンスターの気配がしたことも・・・。
 
「でもあの気配はさっきのモンスターとは違ってたと思う。すごく近かったんだ。あの距離だったなら、私達が道を外れた時点で出くわしてもよさそうなくらい近い場所に感じたんだよ。」
 
「いや、もしかしたら同じかも知れない。歌で誘導して道から引き離すのが目的だったのかもな。」
 
「と言うことは、あれもまたガーディアンなの?」
 
 ウィローの問いに、カインが自信なさげに首をかしげた。
 
「そこまではわからないけど・・・。」
 
「でも宿酒場の冒険者達が言っていた『薄気味悪い』って言う形容にはぴったりだね。」
 
「・・・まあな・・・。」
 
 カインが大きく溜息をついた。
 
「カイン、君のせいじゃないって、言うまでもないけどそんなこと考えないでよね。」
 
「でも俺が道さえ外れなけりゃ・・・。」
 
「今誰かのせいだなんて言ってみても始まらないよ。そんなことを気にするくらいなら、神殿に着いた時一体でもたくさんガーディアンを無力化する方法でも考えようよ。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 カインは黙ったままだ。カインがショックを受けている原因は、多分『自分が歌に惑わされた』と言うことだけじゃない。あの歌声の中にカインが見たもの・・・それが今こんなにカインを打ちのめしているのだ・・・。
 
「でもいつまでもここにいられないわ。サクリフィアの村長が言っていたように、夜までこの森にいたら何が出てくるかわかったものじゃないわよ。」
 
「出ていきたいところだけど、道が・・・・」
 
 言いかけて、ふと気づいた。さっきの道は真っ直ぐに延びていた。道に沿って結界を張ることは、特に難しいことじゃない。いくら100年経っているとは言え、あちこちに弱くなっている場所があったのはなぜだ?当時のサクリフィアの魔法使い達は、力を均一に張り巡らすことが出来なかったのか?私だってその程度のことならば造作もなく出来るというのに。それに結界を張る作業が、たった1人によって行われていたとは考えにくい。巫女姫が通る道だ。おそらくはたくさんの従者を連れて。当然ながら結界を張る作業は念入りに行われたことだろう。ではなぜ・・・。
 
「そうか!」
 
 思わず大きな声が出て、ウィローとカインが驚いて顔を上げた。
 
「お、おい、どうしたんだ?」
 
「この森だよ。船着場から森を抜けて神殿に向かうのに、元々道なんてなかったんだ。」
 
「まさか!だってさっきは確かにあったじゃないの?!」
 
「あったように見せていたんだよ。もちろん見せかけだけじゃないと思う。あの道は実際に巫女姫が通った道だろうけど、この鬱蒼とした森の中で、結界を張った場所にだけ道が現れるんだ。だからその結界の中から出てしまうと、もう道を見つけられない。今の私達はまさにそう言う状態にあるんだよ!」
 
「結界を張った場所にだけ?そんなことが出来るの?元々そこにある木々を通り抜けて道を作る呪文なんて、聞いたことが・・・」
 
 言いかけてウィローは口をつぐんだ。ここで使われている呪文は風水術じゃない、『魔法』なのだ。
 
「まいったな・・・。魔法ってのは何でもありなのか・・・。」
 
 カインは青ざめた顔のまま呆然としている。
 
「それじゃ私達はどうなるの?そんな呪文が必要だなんて、ここまで来たのにもう一度戻って村長に聞くしかないの?」
 
「・・・ウィロー、カインにも聞くけど、サクリフィアの人達が、ここがこう言う状態だったってこと、本当に知らなかったと思う?」
 
「・・・それは俺もさっき思ったよ。俺達は村の船着場から出てここの船着場に上陸するまで、ずっと結界の中にいたんだ。結界がある限りモンスターの心配はいらない。俺達がここまで来れたのなら、サクリフィアの人達がここまで来ることは造作もないことだとな・・・。」
 
「それじゃ・・・私達は騙されたってこと?」
 
 ウィローの顔が悔しげに歪んだ。
 
「・・・騙すって言う意図はなかったと思うけど、本当のことを言わなかったんじゃないかって気はするね。」
 
「そう言うのが騙すってことなんじゃないの!」
 
 ウィローは相当怒っているようだ。無理もない。あれほどまでに私達を心配してくれたのも、すべて演技だったのかも知れないと思えば、誰だって腹が立つ。でも本当にそうなんだろうか。
 
「ウィロー、落ち着けよ。・・・なるほどな、俺にも何となくわかってきたよ。まあ騙すつもりはなかっただろうな。でなきゃ、村長があそこまでしつこく、夜はここに近づくなとは言わなかっただろうと思うよ。」
 
「どういうこと?」
 
「さっき見た道が森を抜ける道だったとして、それを村長達が知っていたなら、そこを通れば間違いなく神殿に行き着けるわけだから何も心配はいらないはずだ。でももしも俺達がこの森の中にいるうちに夜になったら、道を外れて野営しようとするじゃないか。」
 
「あ・・・そうよね・・・。道を外れたらもう戻れないから・・・。」
 
「そういうことさ。さっきの変な女達みたいなモンスターが現れることまでは、予測がつかなかったんだろうな。」
 
「でも私達は結局道を外れてしまったわ。そして未だに見つけることが出来ないでいる。その結界の呪文がわからない限り、私達はここから動けないってことなの?そんな・・・。」
 
 ウィローの目から涙が落ちた。
 
「ご、ごめんなさい・・・。泣いてる場合じゃない・・・のに・・・。」
 
 ウィローの不安な気持が伝わってきて、私はウィローの肩に手を回した。このままでは身動きが取れない。食糧も水も尽きればここで死ぬことになる。そんなわけには行かない。だがどうすればいい?
 
 ウィローの不安な心があたりに広がっていく。カインも私も同じ気持だ。今ここで野垂れ死にしてしまったら、たくさんの人達を裏切ることになってしまう。その時
 
−−グルル・・・・−−
 
 かすかな鳴き声が聞こえた。カインと目を見合わせ、ほとんど同時に立ち上がって剣を構えた。
 
「ウィロー、泣くのは後回しだよ。何かがここに来る!」
 
 そう叫んだ時、森の中から黒い影が飛び出して、私達の目の前に降り立った。
 
「・・・なんだ、これは・・・?」
 
 カインが顔をこわばらせる。顔と体はどう見てもライオンだ。だが・・・全身がオレンジ色の毛で覆われ、大きな翼が背中についている。
 
「こいつは、奇形なのかガーディアンなのかどっちだよ?!」
 
「ここじゃ私達の常識は通用しないみたいだよ!とにかく撃退しよう!」
 
−−ガァァァァ!!−−
 
 そのモンスターは信じられないほどの勢いで地面を蹴り、飛びかかってきた。カインが剣で斬りつける。だが剣の切っ先はわずかにモンスターに届かず、空を切った。
 
「くそ!デカい図体のくせにすばしっこいなこいつ!」
 
 カインの言うとおり、モンスターはその大きな体に似合わぬ俊敏さで私達を翻弄し、攻撃がなかなか当たらない。わずかにダメージを与えられたものと言えば、ウィローの弓だけだ。だがそれもそれほど効いてはいないらしい。背中に何本もの矢が突き刺さったままだというのに、ちっとも疲弊する様子が見えない。これではこちらのほうが疲れてしまう。突然モンスターはその大きな翼で舞い上がり、カインに向かって急降下した。カインはうまい具合に敵の進行方向に飛び込む形で危うく体当たりを避けることが出来た。が・・・モンスターは相手が交わしたと見るやすぐさま地面を蹴って再び舞い上がり、今度は私に向かって急降下してきた。そして、モンスターはさっきと同じ間違いを犯さなかった。相手に逃げられないよう、垂直にではなく、前方への逃げ道を塞ぐ形で飛びかかってきたのだ!
 
 前に逃げるか後ろに逃げるか、一瞬の迷いは私の動きを鈍らせ、敵に充分な猶予を与えることになった。次の瞬間私はまともに体当たりを食らって飛ばされ、背後の太い木に背中を打ちつけた。
 
「ぐふぅっ・・・!!」
 
 息が出来ずに声にならない呻きが漏れる。慌てて空気を吸おうとして私はひどく咳き込んだ。モンスターは私が動けないのを見て取ると、今度はまたカインに向かって飛びかかっていく。
 
「なんて速さだよまったくもう・・・!」
 
 そこに飛び出したのはウィローだ。矢ではそれほどのダメージが入らない。ウィローは鉄扇を構え、モンスターのお尻を思い切り叩いた。
 
「ウィロー、気をつけろ!」
 
 カインが言い終わるか終わらないかのうちに、モンスターは『新たな脅威』に向かって突進した。やっと息が出来るようになって立ち上がった私の目に飛び込んできたのは、モンスターに体当たりをまともに食らって吹っ飛ばされ、背後の木に激突して倒れたウィローの姿だった。当たった木の幹にはべったりと血が付いている。頭を打ち付けたらしい。モンスターにとっては『会心の一撃』だったのか、一瞬カインと私への注意がそれたその時、二人同時に飛び出し、挟み撃ちにする形で両側から思い切り斬りつけた。
 
−−グォォァァァ!!−−
 
 背筋が凍りそうな凄まじい叫び声を上げ、モンスターは飛び上がった。が・・・
 
「くそ!こいつもおばけかよ!」
 
 さっきの女達と同様、空中で霧のようにかき消えてしまったのだ。ウィローの射た矢が一瞬宙に浮いて、ばらばらと地面に落ちた。
 
「ウィロー!」
 
 私は慌ててウィローに駆け寄った。仰向けに倒れたままのウィローはぴくりとも動かない。だが胸が小さく上下しているところを見ると生きてはいるらしい。念のために胸に耳を当てる。・・・聞こえる。心臓の音もちゃんと聞こえている。だが頭の下からはじわじわと血が流れ、肩にも血が滲んでいる。
 
「クロービス、まずいぞ。ウィローを包む気の流れが弱くなってる。」
 
 今ウィローが瀕死の状態であることは私にもわかった。落ち着かなければならない。何があってもウィローを死なせたりするものか。
 
「くそ!クロービス、俺がウィローの気の流れをつかまえておく。取りあえずこの空間に結界を張れないか?」
 
「わかった。やってみる。」
 
 ここに腰を下ろして休もうとした時、なぜそこまで思い至らなかったのかと、私はもう自分自身を呪いたい気分だった。この森が見た目どおりでないことは、さっきからさんざん歩き回っていやと言うほど身に染みているというのに。心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。ウィローを失うかも知れないと言う恐怖に支配されそうになる。
 
(だめだ、こんなんじゃ精神統一出来ない・・・!)
 
 私は深呼吸した。今はカインがウィローについていてくれる。今の私の仕事は結界を張ることだ。
 
(・・・よし・・・!)
 
 森の中でもここは木があまりない。私達のいる場所を囲むように、ぐるっと結界の呪文を唱えた。
 
(・・・あれ?)
 
 3ヶ所で唱えて、最後に結界を閉じるための呪文を唱えた時、前方の景色がゆらりと揺らめいたような気がした。だが今はそんなことに構っていられない。私はウィローの元に戻った。
 
「どう?」
 
「今のところ安定している。表面の治せる程度の傷は治しておいた。頭の傷と肩の傷は血だけ止めたぞ。それ以上は傷の具合を診ながらお前が治してくれ。」
 
「わかった。」
 
 ウィローの顔色は青ざめているが、さっきより呼吸が安定してきているように見えた。今カインがやってくれている『気の流れをつかまえる』というのは、ウィローの体から流れ出ようとする『気』の流れをつなぎ止めると言うことだ。『気』がすべて流れ出てしまったら、死んでしまう。呪文でも出来るが、気功のほうが術者の消耗も少なく、長時間つなぎ止めておくことが出来る。今のウィローは相当危険な状態なのだ。私は慎重に傷の具合を調べた。背中は鎧のおかげで傷はない。だが心配なのは頭だ。後頭部には、ぶつかった木の幹と同じようにべったりと血が付いている。傷が頭蓋骨まで達している可能性がありそうだ。手をあてて精神を集中し、傷の奥までも意識を飛ばした。
 
(骨は・・・・ひびが入っている程度か・・・。よかった。これなら脳への影響はなさそうだ・・・。)
 
 簡単な治療術から唱え始めて、少しずつ中の傷を治した。あとは骨の修復だが、ひび程度なら、『光の癒し手』でなんとかなるだろう。難しい呪文は回復力も大きいが、かけられる側の負担も大きい。小さく、ゆっくりと唱えてみた。骨が修復されていくのが手のひらから伝わってくる。
 
 
「ふぅ・・・これでなんとか・・・。」
 
「治ったか?」
 
「・・・ここはもう大丈夫。あとは傷の表面を洗わないと、完全には無理だと思うよ。髪が邪魔してきれいにならないんだ。」
 
「そこだけ剃ってくれって言ったら嫌がりそうだな。」
 
「ははは、それはそうだね。」
 
 荷物の中から乾いた布を取り出し、傷に巻いた。格好はよくないが仕方ない。少しだけ安心したせいか、溜息がもれた。額に汗が流れていることに、この時初めて気づいた。
 
「俺はまだ大丈夫だけど、お前のほうはどうだ?さっきから呪文ばっかり唱えていて、疲れてるんじゃないか?」
 
「・・・そうだけど、もう少しがんばれるよ。休んでいる時間はなさそうだし・・・。」
 
 ふと、南大陸へと向かうことになった時、セディンさんからもらったペンダントを思い出した。荷物の中からそれを引っ張り出し、ふたを開けるとすーっとさわやかな風が吹きすぎたかのように、頭の中の霧が晴れていくような気がした。
 
「それ、もしかしてセディンさんからもらった奴か?」
 
「そう、君の腕輪と一緒にね。」
 
 このペンダントは、以前一度ハース鉱山の地下で使ったことがある。ナイト輝石の毒にやられてふらふらになっていた時のことだ。毒の中和はしたけれどすぐに動くことが出来ず、このペンダントの香りでウィローと2人、なんとか気力を取り戻すことが出来たのだ。不思議なことに、あの時よりも香りが強くなったような気がする。これで大丈夫だ。私はペンダントのふたをパチンと閉めて荷物にしまった。
 
「うん、もう大丈夫。」
 
「よし、それじゃ頼むよ。頭のほうはもういいとして、その肩だな。まともに体当たりを食らった場所だから、骨が折れているかも知れないぞ。」
 
 服の上からでは傷の具合がわからない。鎧の胸当てをはずし、肩の部分だけ服をずらしてみた。
 
「うわ、これは・・・。」
 
 肩の骨が折れているのがすぐにわかった。皮膚も裂けて、血がべっとりとついているが、カインのおかげで血は止まっている。そしてさっき頭の傷を治すために『光の癒し手』を使ったので、この傷も大分きれいにはなっていた。私は頭の傷と同じように、手をあてて集中した。幸いだったのは、肩の骨は確かに折れているのだが、砕けていると言うほどひどくはなかったことだ。だが、今のウィローの状態で強い治療術は使えない。頭の傷も、負担の少ない呪文の積み重ねでようやっと治ったのだ。もう少し体を包む『気』の流れが大きくならないと・・・。
 
「・・・さっきよりは安定してきてるよ。頭の傷が治ったから、もう少しすればもっと強くなってくるんじゃないかな。」
 
 私の不安を見透かしたかのように、カインがいたわるような口調で言った。
 
「そうか・・・。頭のほうはひびが入っていた程度だったから何とかなったけど、肩のほうは骨が完全に折れてるんだ。『虹の癒し手』が必要だな。」
 
「そうか・・・。となると、もう少しかかるな・・・。」
 
 カインは慎重に『気』を操りながら、私の顔を覗き込んだ。
 
「顔色が悪いぞ。ウィローが起き上がった途端にお前がばったりでは今度はウィローが青くなるぞ。少し休んで、それからにしたほうがいいんじゃないか?頭の傷がよくなっただけでもずいぶん回復してきているよ。」
 
「でも君が休む暇がないよ。それにさっきのペンダントでずいぶんすっきりしたんだ。大丈夫、無理はしないから。」
 
「俺のほうも大丈夫さ。別に大きな『気』を操るわけじゃないしな。」
 
 確かに、ウィローを包む『気』の流れはどんどん大きくなってきている。カインの負担を軽くするためにも、とにかく傷を治すことだけ考えよう。いきなり骨接ぎは難しいので、まずはもう少し傷を治すべく、私は『大地の恩恵』から始めた。何度か唱えているうちに、少しずつ傷が浅くなっていった。
 
「お、ずいぶんと回復してきたぞ。その骨がくっついたら、もう大丈夫だろう。それから俺はこの『気』を離すよ。」
 
「わかった。もう少しだから。」
 
 周りの傷はすべてきれいになって、あとはこの肩だ。骨をくっつけて元の状態に戻さないと、肩の傷をきれいにすることが出来ない。私は『虹の癒し手』を注意深く唱えた。正確に、確実に唱えることを優先する。骨折が治ればいいだけなのだから、むやみに大きな『気』を注ぎ込むことはない。骨はゆっくりと修復され、元に戻った。あとは表面の傷を治すだけだ。
 
 
「・・・うん、もう大丈夫。そっちはどう?」
 
「よし、こっちももう大丈夫だ。あとは目が覚めるまであったかくしておいてやろう。」
 
 カインがウィローを包む『気の流れ』を離した。そのころにはもうウィローの『気』は活発になっていた。これなら、頭の傷もそんなにかからず治るだろう。ウィローの寝袋を出して寝かせ、毛布をかけてやって、やっと私達は安心して座り込んでしまった。
 
 
「しかし・・・ナイト輝石の鎧の上からあそこまでひどい傷を負わせるなんて・・・あのモンスターは何者なんだ・・・。」
 
 カインがつぶやくように言った。眠ったままのウィローの体を冷やさないよう、私達はとりあえずこの場所で火を熾し、手持ちの水を使ってお湯を沸かした。幸い薪はそこかしこに落ちている。探せば泉のひとつくらいはありそうな気もしたが、うかつにここを離れてみんなとはぐれてしまったりしたら大変なことになる。それに、見た目通りでないこの森の中にあるものを、たとえ水や草の実でも、簡単に口に入れるべきではないと、私達は判断した。
 
「凄まじい学習能力だね・・・。君に交わされたら次は交わされないように攻撃態勢を瞬時に変えるし、私がぶつかっても怪我したように見えなかったからウィローにはもっと強く体当たりをかけて・・・。」
 
「ガーディアンとしてはこの上なく優秀ってわけか・・・。」
 
 カインが忌々しそうに言った。まったくだ。味方としてはこれほど頼りになる存在はないが、敵に回すととんでもなく厄介で恐ろしい相手だ。
 
「とにかく、さっさとこの森を抜け出す算段をしないとな。さっきみたいなのがうじゃうじゃ現れりしたら、対処のしようもないからな・・・。」
 
 とは言っても、どうすれば抜け出せるのか・・・。
 
 
「なあクロービス、風水術の結界だとどうなんだろうな。」
 
 さっきここに結界を張った時、空間が揺らめいたような気がした。だがそれ以上のことは起こらず、そのことをカインに伝えると、『なるほどな』と言ってため息をついた。
 
「風水術ではだめか・・・。村長達は、今頃俺達が神殿にたどり着いていると思ってるのかな・・・。」
 
「どうかなあ・・・。まあ確かに、道を外れるとは思ってないだろうし・・・。」
 
 またカインが溜息をついた。気にするなと言われても、自分のせいだという思いを消せずにいるのはわかる。カインの溜息が聞こえなくなるとしたら、それはこの森を抜ける方法が見つかった時だろう。だが魔法の結界の呪文など・・・?
 
 
『村長、あの魔法の本だけど、クロービスさんに渡したわ。別にいいわよね?』
 
『おお、あれか。うむ、構わんだろう。』
 
 
 突然、村長とリーネの会話が頭に浮かんだ。私は急いで荷物にしまっておいたあの呪文書を取り出した。
 
「・・・カイン、村長とメイアラさんは、私達が道を外れる可能性をちゃんと考えていたみたいだよ。」
 
「どういうことだ?」
 
 今度はカインが首をかしげた。
 
「この呪文書だよ。私がこの本を持ち出した時、リーネはこともなげに持って行ってくれと言っていたんだ。そのあと村長にこの本を私が持っていることを伝えて、村長はうなずいた。だから私はこの本がそれほど重要なものじゃないと思ってたし、私がこの本を持っていることは、おそらくグィドーさん達は知らないと思う。」
 
「でもあの時リーネは村長に確認してたじゃないか。魔法の本をお前に持たせたって。そこにはあのじいさん達もいたし、話だって聞いていたと思うぞ。とても耳が遠いとは思えないしな。」
 
「魔法の本とは言っていたけど、あの家から持ってきたものだなんてリーネは一言も言ってない。それに、村長だってまるでそのあたりの雑誌でも持たせるみたいにさらっと返事していたじゃないか。そのやりとりが聞こえたとしても、まさか神話の作者の家にある魔法の呪文書を私に渡したなんて、グィドーさん達は考えてもいないと思うよ。そして、多分これが、村長達が私達に出来る精一杯の支援だったんだ。」
 
「・・・つまり、ここの状態がどうなっているのかを知らせなかったことの埋め合わせってわけか。」
 
「結果としてはそう言うことになるのかな。村長もメイアラさんも、おそらく運営会議ですんなりと私達を神殿に行かせることになるとは思っていなかったんじゃないかな。でも村長としては、村の宝を取り戻せる可能性があるならそれに賭けたかったと思う。それに、やってきたのがただのトレジャーハンターや冒険者じゃなくて、どうやら村とは深い因縁のある剣の持ち主だったわけだからね。でもグィドーさん達がそう簡単に首を縦に振るとは思えなかったし、絶対に難易度の高い条件を出してくるとわかってたから、事前にリーネにも話してあったんじゃないかな。あの家の案内をリーネに頼む話も、全部打ち合わせ済だったんだと思うよ。」
 
「・・・もしかして、俺達の話をはぐらかして先延ばしにしていたあの時か・・・?」
 
「おそらくはね。」
 
「ということは、その本の中に、この森を抜ける結界の呪文があるってことか。でもどうなんだ?魔法なんて使えるのか?」
 
 カインはまだ不安げだ。
 
「この本を見た時にリーネが言っていたじゃないか。この本の前半部分は、ほとんど私達が使う風水術と同じような効果があるものばかりだから、わざわざ憶える必要はないって。その部分に、ここを抜ける結界の呪文が入っているんだよ、きっと。」
 
 本当にそうなのかはわからない。半分はカインを安心させるため、あとの半分は自分が信じたいから。ウィローはまだ目覚めない。あれほどの大怪我を負ったのだから、目が覚めてからもしばらく無理はさせたくない。できれば水が近くにある場所で、こんな得体の知れない森ではなく普通の場所で、今日はもうキャンプを張ってゆっくりと過ごしたい。私は最初のページをめくった。魔法の呪文なんて初めて見るが、よくよく見ると使われている文字は私がいつも持っている風水術の呪文書と同じだった。これなら、もしかしたら何とかなるかも知れない。魔法の呪文書には、呪文のページごとに簡単な解説が付いていたりする。それで気がついた。呪文自体は魔法のほうがずっと短い。ただ記述の仕方が違う。その法則を見つけ出して読み解くことが出来れば、唱え方は風水術と大差ないのだ。最初のほうから数ページにある、ごく簡単らしい呪文を見ているうちに、何となくだが唱えられそうな気がした。
 
「・・・つまり、風水術とそんなに違いはないってわけか?」
 
「そう言うことになるね。もっとも、リーネが言っていたみたいにすごい魔法を使おうと思えば、そんなに簡単じゃないんだろうけどね。」
 
「でも結界の呪文て、そんなに難しいのか?。まあ使えない奴に簡単だとか言われたくないだろうけどな。」
 
「そうだなあ・・・。巫女姫の進む道を作る呪文なら、ある程度上位の呪文と思って間違いないだろうけど、でも難しすぎてめったに唱えられないとかじゃ、安定した道を確保することが出来ないと思うんだ。だから・・・多分、少しだけ難しくて、でも訓練すればすぐに使えるようになる呪文・・・かなあ。」
 
 確信があるわけではないが、どんな呪文だって簡単なものから難しいのまで何種類かはあるのが普通だ。そして一番簡単な呪文は比較的覚えやすくすぐに唱えられるが、たいした効果があるものはない。呪文の難しさと効果の大きさは比例するものだ。魔法にだってその法則は当てはまるんじゃないだろうか。
 
「とにかく探してみるよ。」
 
 本を開いて結界の呪文を探した。あった。やはりいくつかある。
 
「・・・これかな・・・。」
 
「あったか?」
 
 カインが覗き込んだ。
 
「うん。この中で、ちょっと難しくて練習が必要そうな・・・このあたりだと思う。とにかく少し練習してから唱えてみるよ。呪文自体はとても短いんだ。だから発動までは時間がかからないと思う。」
 
 口の中で唱えてみる。初めて見る呪文だが、短いので憶えやすい。正確に発音出来るまで、何度も唱える。しかし妙な話だ。今自分が唱えているのが『魔法』だなんて・・・。
 
「大丈夫か?」
 
 カインが心配そうに私の顔を覗き込んだ。やはり初めて唱える呪文は、魔法だろうが風水術だろうが疲れるのは同じだ。
 
「いったん休憩して、メシにしようぜ。あのじいさんがくれた干し肉があるし、せっかくお湯も沸かしたんだからお茶くらいは飲めるだろう。」
 
「そうだね、ありがとう。」
 
 一息ついて空を見上げた。太陽は真上から西に傾きかけている。
 
「無理はしないでくれよ。お前にまで倒れられたら大変なんだからな。それに、万一ここで夜になっても、風水術の結界があればモンスターは防げるだろうし、一晩くらいなら何とかなるさ。」
 
 カインが明るく言った。自分のせいだという自責の念を押し隠しているのが何となくわかる。ここで私が無理すればカインが責任を感じるだろうし、怪我が治ったばかりのウィローにまで負担をかけることになると言うのは理解しているつもりだ。私はグィドー老人からもらった干し肉をかじりながら、船着場に上陸した時のことを思い出した。太陽が昇った方向、さっき見た太陽の位置、今の位置、そして船着場から見えた1本の道が通っていた方向は・・・。
 

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