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第80章 イノージェンとの再会

 
 翌朝、起き出した妻の顔は実に晴れやかだった。昨夜宿に戻ってからは私の感じた胸騒ぎの話になってしまって、フロリア様との間にあった誤解が解けたことについてはほとんど何も話さずに寝てしまったのだが、こうして妻の顔を見れば、どれほどうれしいと思っているかがすぐに分かった。そしてそれは私の思いでもある。その一方で、20年前、フロリア様のすぐ近くにいたというのにその苦しみを何も気づけなかったことについては、どうしようもなく悔いが残る。せめてこれからは少しでもフロリア様の話し相手になろうと、2人で話し合って宿を出た。
 
 
 王宮のロビーでは受付嬢が見学客を受け入れる準備を始めている。日勤の王国剣士達がぞろぞろと外に出て行く流れの反対側、剣士団の宿舎への階段へと私達は向かった。
 
 と、突然後ろから来た誰かが私達の横をすり抜け、剣士団宿舎への階段を駆け上がっていった。
 
「あら?今のシェリンじゃなかったかしら。」
 
 私は後姿しか見なかったが、女性であることには間違いなさそうだった。階段を上がりきって、採用カウンターが見えるところまで来た時・・・
 
「そうですか・・・。それじゃ団長室に行ってみます。」
 
 ランドさんと話していたのは間違いなくシェリンだ。確か休暇は今日までだったはずだが、制服を着て鎧も身に着けている。シェリンは私達に気づかないまま、ランドさんに一礼して団長室のある方向へと駆け出した。
 
「お、おまえ達か。おはよう。ずいぶん早いな。」
 
 私達はランドさんと挨拶を交わし、今いたのはシェリンではないかと聞いてみた。
 
「ああ、休暇を繰り上げて今日から仕事に戻りたいと言ってたんだが、今回の休暇についてだけは俺の一存では決められないからな。それと、スサーナが先に来ていないかと聞かれたんだが、俺も今来たばかりなんだよ。なんでも今日は一緒に来る約束で、スサーナの家に寄ったそうなんだが、もう出掛けたと言われたらしい。」
 
「私達もオシニスさんに用事があってきたんですよ。」
 
 私は、今日オシニスさんと一緒に医師会に行くことを約束していたので、早めに出てきたのだと言った。
 
「なるほど、クリフの件か・・・あいつの寿命が少しでも伸びるなら、何とか助けてやってくれ。」
 
「引き受けたからには全力を尽くしますよ。そのために今日打ち合わせをして、後はクリフの家に行くことになっているんです。」
 
「ああ、それは聞いている。よろしく頼むよ。」
 
 私達は採用カウンターを離れ、団長室の前まで来たのだが・・・。
 
「ちょっと待ってよスサーナ!今日はそんな話をしに来たんじゃないはずでしょう!?」
 
「いいえ!まずはそのことよ!」
 
 聞こえてきたのはシェリンとスサーナの声だ。どうやらスサーナはまたオシニスさんに詰め寄っているらしい。
 
(まさか・・・昨日あの二人を見かけたのか?)
 
 だとすると厄介だ。とにかくここで立ち聞きしているわけには行かない。医師会の打ち合わせに間に合うようにと言うことで早めに来たのだから、ここはいったん2人に引いてもらおう。私は少し強めに扉を叩いた。
 
「オシニスさん、いらっしゃいますか?」
 
 一瞬中の声がぴたりとやみ、ややあって扉を開けてくれたのはシェリンだった。
 
「おはようございます・・・。」
 
 シェリンは少しだけばつの悪そうな顔で私を見上げた。私は素知らぬふりでオシニスさんが在室かを尋ね、中に入った。こちらが気にしているそぶりを見せたのでは、シェリンも居心地が悪いだろう。そして中に入って見たのは、いつかと同じ、泣き顔のスサーナと渋い顔で腕を組んでいるオシニスさんだった。スサーナを取り巻く『気』がなんとなくどんよりとしている。でも別に操られているわけではないのは確かだ。
 
「おはよう。これからすぐ行けるか?」
 
「おはようございます。それは構いませんが、お取り込み中ならロビーで待ってますよ。」
 
「いや、俺のほうも大丈夫だ。医師会の連中を待たせるわけに行かないからな。」
 
「団長、行かれる前にわたくしの質問に答えてください。」
 
 スサーナは睨むようにオシニスさんを見据えている。
 
「スサーナ、だからその話はやめましょうよ。ほら、クロービス先生達が困ってるわ。あとにしましょう。」
 
「シェリン、あなたは悔しくないの!?わたくしは悔しいわ。ずっと好きだったのに、昨日や今日現れた元恋人なんかに団長を取られるなんて!」
 
(・・・え?)
 
 危うく声を上げそうになるのをやっとのことでこらえた。
 
「何だその話は?」
 
 オシニスさんもぽかんとしている。
 
「とぼけるおつもりですか!」
 
 スサーナはますます怒り、顔を真っ赤にしている。
 
「とぼけるつもりなんぞないが、その元恋人がどうのって話はまったくわからんぞ。いったいどこからそんな話が出たんだ?」
 
 オシニスさんは特に怒っている風もなく、いつもどおりに答えている。だが頭に血が上りきっているらしいスサーナから見れば、確かにとぼけているように見えるのかもしれない。
 
「わかった。わかったからスサーナ、私がちゃんと説明するわ。あなたは黙ってて。」
 
 シェリンがスサーナをなだめすかして説明してくれたところによると、昨日オシニスさんが一緒に祭り見物をしていた女性が、『オシニスさんの元恋人だ』と噂になっていると言うのだ。おととい突然元恋人が王宮に現れ、翌日いきなり剣士団長が休暇をとって祭り見物に出かけた。しかも『すごい美人』を連れて。これはもう、昔の恋人が現れてすぐにでもよりを戻し、二人は結婚するのではないか、そんな噂までがすでに王宮中に知れ渡っていると言う。
 
「何だよその話・・・。」
 
 オシニスさんはすっかり呆れて、椅子の背もたれに寄りかかった。その『元恋人』の噂というのは、おそらくクリフの母親と東翼の喫茶室で話していた時のことを誰かが見て、あるいは聞いていたのだろう。
 
「これでもとぼけ通すおつもりですの?」
 
 スサーナが言った。オシニスさんはやれやれと言ったようにため息をつきながら頭を掻いた。
 
「とぼける気もなければその噂もずいぶんといい加減なものだが、俺が何を言っても今のお前は信じないだろう。それでスサーナ、お前はいったいどうしたいんだ?」
 
 あくまでも冷静に、オシニスさんはスサーナに尋ねた。スサーナはぐっと言葉につまり、少しの間黙っていたが・・・。
 
「それなら、わたくしにも考えがあります。わたくし、本日付で剣士団を辞めさせていただきます。」
 
「ちょ・・・ちょっとスサーナ!なに言ってるの!?昨日の話とぜんぜん違うじゃない!?」
 
「だって団長はわたくしに本当のことを話してくださらないのよ!もうここではやっていけないわ!」
 
「バカ言わないで!あなたがいなくなったら私はどうすればいいのよ!」
 
「それは・・・!」
 
 黙って二人のやりとりを聞いていたオシニスさんが、大きくため息をついてゆっくりと立ち上がった。
 
「そうか・・・。それじゃ仕方ないな。俺はさっきから、一つも嘘を言っていない。もちろんとぼけてもいないぞ。その元恋人とか言う話は初耳だが、一昨日俺を訪ねてきた女といえば、クリフの母親くらいだ。ま、クリフの両親と俺は昔なじみだから、他の王国剣士の家族と話すよりは砕けて話していたとは思うがな。そのあたりを誰かが聞いて勘違いしたのかもしれない。昨日俺が祭り見物に案内した知り合いは、当然クリフの母親とは別人だ。いきなり祭り見物に案内しろと言われても、俺も10年も現場に出ていないからな。それで、何度か祭りに出掛けたことがあって、俺が急に頼んでも動いてくれそうなクロービスとウィローを誘って、祭り見物に出かけたんだ。だが途中ではぐれて、こいつらと合流出来るまでの間は2人だけで行動していたから、それを見た連中が勘違いしたのかもしれないな。どうだ?さっき俺が言ったことと何も違わないだろう?俺は昨日起きた出来事を話しているだけだ。一つも嘘を言ってないから、何度でも同じ話が出来るのさ。でも、それをお前が信じられないと言うのであれば、俺にはこれ以上何も言ってやれることはない。手続きはランドのところでしてくれ。シェリン、お前がこれからも王国剣士としてやっていくなら、また誰か別な相方を探すか・・・まあ他にも仕事はあるからな。どうしたいのかは考えておいてくれ。」
 
「そんな・・・引き止めないんですか!?」
 
 シェリンがすがるように目でオシニスさんを見た。だが、一番呆然としているのはスサーナだ。おそらくスサーナにとって、辞めるというのは切り札になると思っていたのだろう。オシニスさんが慌てて『本当のことを話す』と・・・。だがさっきからオシニスさんは確かに『嘘』は言ってない。一昨日訪ねてきたのはクリフの母親だし、彼女とオシニスさんは『昔なじみ』だから、砕けた口調で話していたことも事実だ。そして昨日の祭り見物は、オシニスさんにとっては確かに『突然』だった。私達が同行したのも事実だ。強いて『事実と違う』と言うなら、古い知り合いは『訪ねてきた』のではなく、『ずっと身近にいた』ことくらいだろうか。だが何を言ってもスサーナは納得しないだろう。スサーナにとって、『本当のこと』とは即ち、『自分にとって都合のいい真実』でしかないからだ。スサーナはこれまでも、こうやって自分のわがままを通してきたのだろう。でもそんなのオシニスさんに通用するはずがない。だからこそこの娘はオシニスさんに惹かれたのではないかと思うのだが、本人はそのことに気づいてないのかもしれない。
 
「そりゃ俺だって辞めてほしくはないさ。休暇が明ければお前達の手を当てに出来ると期待していたしな。だが、スサーナは本当のことを言えと言う。そして俺は本当のことを言っているが、スサーナは信じない。これ以上、俺にはどうしようもない。さあ、もういいか。俺はこれからクロービスと医師会の打ち合わせに出ることになっている。クリフの命がかかっているんだ。これ以上お前達の相手はしていられないぞ。」
 
「そ、それじゃ・・・もう少し、もう少し休暇を延ばしてもいいですか?スサーナは私が説得します。だから・・・」
 
 シェリンが涙をこぼした。
 
「それは構わん。残っている休暇をどのくらい使うかはお前達の自由だ。ランドのところで申請して来い。」
 
「ありがとうございます!ほらスサーナ、行くわよ!」
 
 シェリンは呆然としたままのスサーナを追い立てるようにして、剣士団長室を出て行った。
 
 
「見られていたとはなあ・・・。」
 
 2人の足音が遠ざかったころ、オシニスさんがポツリとつぶやいた。
 
「あれだけ人がいれば、誰がいてもおかしくありませんからね。」
 
「まあな・・・。それは仕方ないが、しかしその、元恋人がどうのって話には参ったな・・・。まったく、誰だよそんな無責任な噂を流したのは。」
 
「噂ってのは無責任だからこそどんどん話が大きくなるんですよ。そろそろ行きましょう。」
 
「そうだな・・・。」
 
 何も用事がない時ならもう少しオシニスさんの話を聞いてもよかったのだが、今回だけはのんびりしていられない。私達は団長室を出て、採用カウンターの前まで来た。スサーナとシェリンはまだそこにいて、シェリンが何か書いている。スサーナはうつむいたままだ。
 
「おいランド、俺はこれからクロービス達と医師会の打ち合わせだ。その後はまっすぐクリフの家に行くから、いつ戻るかわからんぞ。」
 
 オシニスさんは2人に声をかけず、ランドさんにだけそう言った。
 
「ああ、わかった。パレードに巻き込まれるなよ。」
 
「ははは、気をつけるよ。」
 
 
 階段を下りてロビーを抜ける。もう見物客が大量に押し寄せていて、受付の娘達が今日は3人で対応している。
 
「引き止めなくていいんですか?」
 
 医師会の廊下を歩きながら、聞いた。
 
「おそらくあいつは俺が引き止めてくれるのを待っているんだ。だが、俺にその意思はない。だいたい考えてもみろ。いきなり今日付けで辞めると言うことは、自分の仕事を放り出すってことだ。しかも相方のシェリンのことも何も考えていない。俺は剣士団長として、そんなことを軽々しく口にする奴を信用することは出来ん。」
 
「本気でなくてもですか?」
 
「本気じゃないならなおさらだ。あいつが男だったらぶん殴っていたかも知れん。」
 
 どうやらスサーナは、一番言ってはいけないことを言ってしまったらしい。
 
「それじゃやっぱり辞めないと言ったら?」
 
「そうだな。しばらく全てのローテーションからはずして、新人と同じように訓練場で修行させるさ。それがいやなら仕方ない。スサーナはそれだけのことを言ったんだ。自分の言ったことには責任をもたなきゃならない。後はあいつ次第だ。」
 
「なるほど・・・。」
 
「しかしまあ、お前の身辺も騒がしくなるかも知れないな。」
 
「どうしてですか?」
 
「事の真相を知りたいと考えているのは、別にスサーナだけじゃないだろうからな。昨日のことで、俺に直接は聞きにくくともお前から話が聞けるかも知れないと考える連中はいそうだなってことさ。ま、聞かれたら昨日と同じように話してくれればいいよ。あと、もしもスサーナとシェリンから何か聞かれたら、俺がさっき言っていたことは話してかまわんぞ。」
 
「私が言っていいんですか?」
 
「聞かれたらな。別にお前を代理人に仕立てようていうんじゃない。俺に直接話を聞きに来てくれれば、俺はちゃんと説明するよ。」
 
「わかりました。協力しますよ。今回私の提案に乗ってくださったお返しです。」
 
「ははは、昨日は俺も楽しかったから、お返ししてもらうようなことは何もないよ。うるさくて面倒になるようなら、直接俺のところに来いと言ってくれてもいい。」
 
 話をしているうちに、打ち合わせの場所となっている会議室の前に着いた。扉をノックして中に入ったが、ドゥルーガー会長はまだ来ていないらしい。マレック先生はもう来ていたので、先に挨拶を済ませておくことにした。
 
「今回はクロービス先生が執刀されると聞きました。私も全力を尽くしますので、なんとしても手術を成功させましょう。」
 
「よろしくお願いします。」
 
 ふと、ローハン薬局でのことを聞こうかと思ったが、やめておいた。ここで話すべきことかどうかの判断がつかない。あの薬局の陰にいる何者かが、ここにいる誰かでないとは言い切れないのだ。その後妻も挨拶をし、クリフに食べさせる予定の食事のプログラムについて、かなり熱心に話をしはじめた。
 
「クロービス先生はこちらへ。クリフの治療の記録が出来ましたのでお渡しします。」
 
 ハインツ先生から分厚い紙の束を受け取り、一番上から見ていった。最初の日付は入院した日だと言う。クリフの病気が発病からどのくらい過ぎているのか、この間頭の中で少し計算してみたことを思い切ってハインツ先生に聞いてみたが、概ね合っていたようだ。
 
「ただ気になるのは、一番最初の兆候なんですよ。ほんの少し痛いと思った、程度なのか、実はすごい痛みを感じたけど我慢したのか、そのあたりをクリフがどうしてもはっきり言わなかったので、病気の進行状況について我々が掴んでいる情報がどの程度正確なのか、いささか不安ですね。」
 
「わかりました。拝見します。」
 
 はっきり言わなかったと言うことは、かなり痛んだと言うことかもしれない。クリフは何より王国剣士としてこれからだったのだ。病気であることが知れれば、今までどおりに仕事をしていくことは出来なくなるかもしれない、そう考えて黙っていたと言うことも考えられる。そして最初に嘘をついてしまったために、悪くなってからも本当のことを言いにくくなったのではないか。クリフは真面目な性格らしいから、後になって実は嘘だったと言えなかったのかも知れない。紙の束をめくりながら、そんな話をオシニスさんにしてみた。思ったとおり『あいつならそういうこともあるかもしれないな』と、悔しげにつぶやいた。
 
「おや、会長が到着したようですよ。」
 
 ハインツ先生の声で、部屋の中にいた全員が、話をやめてそれぞれの席についた。ハインツ先生、ゴード先生、マレック先生、そのほかに二人ほど男性がいる。見覚えがあるような気がしていたのだが、この2人は以前クリフのマッサージ見学に来ていた医師の見習いと駆け出しの医師だ。そして私達3人。そこにドゥルーガー会長が加わって、かなりの人数になった。これがクリフの治療チームと言うことになるらしい。
 
「皆集まっておるな。」
 
 ドゥルーガー会長は会議室の中を見渡し、『では進行はハインツに任せよう。』そう言って椅子に腰を下ろした。
 
「では始めさせていただきます。」
 
 ハインツ先生は、まず最初にクリフについての病状の経過を説明し、マッサージで思いがけず光明が差し込み、その後クリフの両親から再手術について打診されたこと、そしてその執刀を私に直接依頼されたことまで説明した。
 
「・・・そういうわけですので、こちらとしても全力で治療にあたりたいと考えています。アスランの件で思いがけずクリフの両親に不信感を持たせることになってしまいました。それを払拭する為にも、皆で一丸となって全力を尽くさねばなりません。」
 
 その後、それぞれ担当医師の仕事の割り当てが決められた。マッサージはプログラムを見直して改めて続けること、その間食事もマレック先生が計画的に組み立てた献立で出されることになった。駆け出しの医師と見習い医師は、それぞれ順番に全ての担当の助手として仕事をし、全体的な流れを勉強することになるらしい。2人はやる気満々だ。先日のマッサージの見学も、この2人が一番積極的だったと、ハインツ先生が言った。若く向学心に燃える医師がいるとはなんとも心強い。彼らはきっと今後の医師会を担う強力な戦力となることだろう。
 
「では、この日程で進めたいと思います。まずは今週一週間で、クリフの回復状況を見極めること、それを元に手術の日程を決めたいと思いますので、皆さんご協力よろしくお願いします。」
 
 ハインツ先生が頭を下げた。最後にドゥルーガー会長が立ち上がった。
 
「今回の治療には、医師会の威信がかかっておる。医師会の医師は命に優先順位をつけるなどと言う誤解が広まってはならぬのだ。どの患者も平等に扱うこと。もちろん、この病棟に入院している他の患者も、外来にやってくる患者もだ。皆それを忘れぬようにな。」
 
 今回の私の仕事は、まずクリフが入院してから今までの経過を全て頭の中に叩き込むことだ。ハインツ先生から渡された分厚い紙の束には、びっしりとクリフの経過が書き込まれている。これを全て頭の中に入れ、手術の手順を組み立てる。そして執刀して成功させること。当然ながら、それが一番大事で、一番難しい。だが何が何でもやらなければならない。
 
 会議は終わったが、妻がマレック先生ともう少し話したいと言い出して、医師会に残ることになった。クリフのマッサージのこともあるし、そちらを妻に任せて、ハインツ先生とオシニスさん、そして私の3人でクリフの家へと向かうために外に出た。
 
「うは、そう言えば今日はパレードの日か。」
 
 王宮から南門に向かう道は一応真っ直ぐ見渡せる程度だが、それでも道をひっきりなしに人が行き交い、町中のあちこちから賑やかな楽器の音や歌声がここまで聞こえてくる。
 
「本当にパレードに巻き込まれそうな気がしてきたな・・・。仕方ない、裏の通りを行こう。」
 
 オシニスさんにとっては仲のいい友人の家だ。そこへたどり着くまでの道は幾通りも知っているらしい。
 
「しかし、このあたりもずいぶんと歩きやすくなったもんだ。俺が小さい頃は迷路みたいだったのにな。」
 
 歩きながらオシニスさんが誰に言うともなく呟いた。
 
「団長殿は城下町のご出身でしたね。私もですよ。このあたりが区画整理で工事されている頃は、工事を当て込んで近隣の町から労働者がずいぶんと城下町に入り込んでいましてね、あちこちで喧嘩が起きたり死人が出たり、今とは比べものにならないくらい治安が悪かったもんです。」
 
 ハインツ先生が言った。
 
「俺はその頃まだ小さかったから、そのあたりはよく覚えていないんですけどね、親父に聞いたことがありますよ。ずいぶんと騒ぎになっていたそうですね。」
 
「ええ、おかげでうちの診療所は大繁盛でしたがね。親父が忙しすぎると愚痴をこぼしてましたよ。」
 
「へぇ、区画整理の工事なんてあったんですね。」
 
「ああ、昔は住宅地区だの商業地区なんて区割りはなかったからな。みんなして好き勝手に家を建てたりするもんだから大変だったんだ。」
 
 カインも城下町の出身だった。彼も迷路のような当時の町並みを遊び場にして育ったのだろうか・・・。
 
 
 何本か裏通りを抜けて、少し広い通りに出た。大きな建物がいくつも軒を連ねている。
 
「そろそろなんだが・・・ん?」
 
 前方で、何か揉めているらしい集団がいる。よく見ると王国剣士がいて何か叫んでいた。何かあったのだろうか。
 
「なんだあいつら?・・・ハインツ先生、危ないですからここにいてください。クロービス、ちょっと俺と一緒に来てくれ!」
 
 オシニスさんは言うなり駆けだした。揉めている集団の中に、クリフの父親を見つけたからだ。
 
「くそ!おとなしくしろ!」
 
 クリフの父親を襲っていた男達の1人が、王国剣士に腕をねじ上げられた。オシニスさんから素早く『気』が放たれ、腕をねじ上げられた男と、そこから逃げようとした男の2人を絡めとった。
 
「どうした!?」
 
「あ、団長!こいつらがここの店主を襲っていたんです。助かりました。ありがとうございます。」
 
 剣士はオシニスさんに頭を下げた。剣士の後ろには顔を腫れあがらせたクリフの父親が、しりもちをついたような格好で地面に座っている。
 
「クロービス、レグスを見てやってくれ。おいお前ら、こいつらを牢獄に連れて行け。門番に、俺の気功で動けなくなっているがうっかり麻痺をとくと自害されるかも知れないからと言って、中から応援を呼んでもらうんだ。」
 
「分かりました。」
 
 応戦していた王国剣士は4人。このあたりは人通りはそんなに多くないが、様々な工房が軒を連ねる職人の町だ。大きな商品を扱う店が多いということはそれなりに動く金も大きいということなので、見回りする剣士の数は多いらしい。おかげでクリフの父親は助かったのだと思う。もしも王国剣士達がここにいなかったら、もっとひどい怪我を負っていたかも知れない。相手がクリフの父親を殺す気ではなかったにせよ、怪我が元で亡くなることだってないわけではないのだ。
 
 
「殴られたんですか?」
 
 オシニスさんが王国剣士達に指示を出している間、私はしゃがみ込んでクリフの父親に話しかけた。
 
「ああ・・・いきなり襲って来やがったんだ・・・いててて・・・。」
 
「とにかく中に入れてもらって手当をしませんか。」
 
 追いついてきたハインツ先生がそう言って、2人でクリフの父親に肩をかし、家の中へと入った。
 
「あ、あんた!ちょっとどうしたの!?」
 
 中にいたクリフの母親は驚いて夫に駆け寄った。私は事情を説明して、この家にある消毒薬などを借りることにした。
 
 
「ふう・・・これで何とかなるでしょう。」
 
 ハインツ先生がクリフの父親の腕に包帯を巻いて、端を縛った。ハインツ先生の治療はいつ見ても実に手際がいい。どの傷もそれほど深くはない。傷を洗って消毒し、薬を塗って治療は終わったが、顔の腫れだけは治療術で治した。まだ仕事中だ。客が来た時に青黒い腫れた顔で応対するわけには行かないだろう。
 
「・・・助かったよ。まったく・・・いきなり襲われるとはな・・・。」
 
 クリフの父親は、本当はあんまり礼を言いたくないといった感じに見えたが、それでも私達に向かって頭を下げた。
 
「別に無理して礼なんぞ言わなくていいさ。それより、あいつらはもしかして例の薬屋の絡みで襲ってきたのか?」
 
「だろうな・・・。うちはそれなりに儲かってはいるが、どの取引も真っ当なもんだ。商売に絡んで恨まれる覚えは何もないからな。」
 
 前回会った時のとげとげしい雰囲気は、今はクリフの父親からは感じ取れない。今日は穏やかに話し合うことが出来るかも知れない。
 
「今日は息子さんの手術のことで伺ったんですが、まずは剣士団長殿が今の騒動の顛末をお聞きになったほうがいいのではありませんか?」
 
 ハインツ先生がそう言ってくれたので、まずはオシニスさんがクリフの父親に今の騒動と例の薬屋について色々と尋ねた。それをまとめるとこういうことになるらしい。
 
 今日の朝はいつも通りに店を開けた。開店して少し過ぎた頃、昨日修理が終わった馬車を引き取りに来た客が現れて、馬車の引き渡しをした。それが、私達がここに来る少し前のことらしい。クリフの父親は外に出てお客を見送り、家に入ろうとしたところで声をかけられた。
 
「あんたに恨みはないんだが、頼まれているものでね。」
 
 数人の男達が突然クリフの父親を取り囲み、殴りかかられたそうだ。クリフの父親だってやられっぱなしではいない。昔はオシニスさんと一緒に暴れ回った仲だ。それなりに腕っ節には自信があった。やがて王国剣士達が現れて、加勢してくれた。形勢が不利になったことで何人かの男達が逃げだした頃には、クリフの父親の片腕は上がらなくなるほど痛んでいて、目の上が腫れて片目が見えなくなっていた。その時残っていた男のうちの1人がクリフの父親に蹴りを入れ、それを避けきれず、思わずしりもちをついたということらしい。ただ、あの男達が本当に薬屋の手先なのか、それはクリフの父親にも確信が持てないようだった。
 
「なるほど。さっき俺が麻痺させた奴らは牢獄に連れて行かれたから、身元は割れるだろう。必ずとっ捕まえてやるよ。」
 
「ああ、頼むよ。まったく腹の立つ話だ。」
 
 クリフの父親は忌々しそうにそう言った。それにしてもおかしな話だ。クリフの父親があの薬屋に出向かなかったことで、その身に危険が迫るかも知れないとは考えていたが、さっきの連中はどう見ても町のならず者のようだった。そんな連中に痛めつけさせたところで、かえって相手の都合が悪くなるだけのような気がする。
 
(あれだけ派手に立ち回りをすれば、すぐに王国剣士が飛んでくることくらい誰だって分かりそうなものだよな・・・。1人でも捕まればそこから足がつく可能性は高そうだし・・・。)
 
 それともアスランとイルサを襲った連中のように、捕まった途端に毒をあおって死ぬつもりだったのだろうか。となるとオシニスさんの麻痺の気功は敵にとって全く予想外だったことになるが・・・それにしても、あまりに場当たり的すぎる・・・。
 
「しかし妙な話だな・・・あの薬屋がそんな悪どい奴だなんて思わなかったぞ・・・。」
 
 クリフの父親が独り言のように言った。
 
「だがおかしな奴らが店の周りを嗅ぎ回っていたとか言ったじゃないか。胡散臭い奴らだと言うことは知っていたんじゃなかったのか?」
 
「それは確かにそうなんだがな・・・あの薬屋を見る限りでは、まったくそんな奴に見えなかったんだ。親身になっていろいろ聞いてくれた。あれが全部芝居だったのかと思うと、まったく・・・世の中ってはのわからないもんだな・・・。」
 
「まあ、その薬屋についてももう少し調べてみるよ。そもそもお前に持ちかけていた薬の話だって、合法か違法か以前にそんなすごい薬が本当にあったのかどうかだって疑わしいからな。」
 
「見ていないんだから確かにそうだが・・・どうなんだろうな・・・。」
 
 クリフの父親は、あの薬屋のことはまだ信じたいようだった。確かに話していても不快に感じるようなことは何もなかったし、邪悪な意図も感じられなかった。となると、あの薬屋の身も、危険にさらされる可能性がないわけではないのかも知れない・・・。
 
「では、私のほうの用件に入らせていただいて構いませんか?」
 
 ハインツ先生の声で我に返った。この話は取りあえず忘れよう。あとでオシニスさんと話してみればいいことだ。
 
「ああ。で、そっちの先生は息子を助けてくれる気になったってことか?」
 
 ムスッとした顔のまま、クリフの父親は私を見た。母親の視線も注がれている。
 
「はい。私が息子さんの手術の執刀をします。」
 
 出来るだけきっぱりと言い切った。私は医者だ。自分が動くことで目の前の命を救うことが出来るのなら、何だってやる。
 
「それじゃ俺の息子は助かるのか?」
 
「助かると言い切ることが出来るなら、私としてもこれほどうれしいことはありません。ですが、そのためには条件がいくつかあります。」
 
「金なら何としても払う。それ以外に何かあるのか?」
 
「レグス、金は入院費と同じく剣士団持ちだ。早とちりして借金にかけずり回ったりするなよ。」
 
「それじゃ条件てのはなんだよ。一番の問題になりそうなのが金じゃないか。」
 
「だから人の話を聞けよ。これからハインツ先生とクロービスが説明するから。」
 
「・・・わかったよ・・・。」
 
 説明はまずハインツ先生からしてもらった。今までの経緯、今のクリフの容態、そして今後一週間である程度状況を見極め、手術の日程を決めていくことなどだ。そして私は、実際に手術をした時のことを想定して、可能な限り病巣の除去をするが、今の技術では限界がある。完璧に全てを取り去ることは出来ないかも知れないと正直に言った。ただし病巣が今よりずっと小さくなれば、進行を抑えるための薬はいいものがたくさんある。何とか薬で治療出来るところまで持って行きたいと。
 
「つまり、息子が良くなるためには、病巣があんまり広がってなくて、ある程度きれいに取りきれる場所にあって、なおかつ他に転移してないと言う条件が必要だと、こういうことなのか?」
 
「そういうことです。私としても、手術するまで病巣の状態はわかりませんから、今の時点で申し上げられることはそれだけです。もちろん実際に手術が始まれば、その条件を満たせるように全力を尽くします。」
 
「・・・俺はあいつが長生き出来るならいい・・・。俺は自分の子供の死に目になんぞ・・・遭いたくないんだ・・・。」
 
 話しているうちに、クリフの父親の目からは涙が流れていた。その気持ちは痛いほどにわかる。
 
「面会には行けるのか?」
 
「いつでも来ていただいて構いませんよ。ご家族の顔を見れば、息子さんも喜ぶでしょう。」
 
 ハインツ先生が笑顔で言った。今日は多少なりともクリフの父親と揉めるかも知れないと、ハインツ先生も私も覚悟してきた。それはオシニスさんにしても同じことだ。だが先ほどの家の前での騒動のおかげで、クリフの父親が私達に怒鳴ったり怒ったりする機会がなかったのが、いいほうに働いたと思う。だからといってあの暴漢達の襲撃を容認する気はないが。
 
「こんにちはぁ。レグスさん!いらっしゃいますか!?」
 
 店のほうで声がした。
 
「ん?お客さんだな?」
 
 クリフの父親が立ち上がりかけたが、『いててて・・・』と言ってまた座ってしまった。うっかり怪我したほうの手で椅子を後ろに引いてしまったらしい。
 
「ちょっとあんた、今日は休んでよ。あたしが出るから。」
 
「そうはいかねぇ。あの声はトラスさんだ。今日修理に入る予定だったんだよ。あそこは大口の客なんだぞ。俺が奥に引っ込んでてどうすんだよ。」
 
「トラスさん?もしかしてファロシアの?」
 
「あんた知ってんのか?」
 
 クリフの父親が、驚いて振り向いた。
 
「ええ、以前お会いしたことがあります。ギードさんの店の馬車ですね?」
 
「なんだ知り合いなのか。世間は狭いもんだな。」
 
 オシニスさんはのんきそうに言ったが、私がなぜその御者と知り合いなのかは気づいているだろう。クリフの父親がなんとか立ち上がって店に出ようとした時、扉が開いた。
 
「父さん、お客・・・うわ!なんだよそのかっこ!」
 
 入ってきた若者はまだ若い。クリフの弟だろうか。頭と腕に包帯を巻いた父親の姿を見て驚いている。
 
「ああ、エリク帰ってたの?あとで詳しく話すから、トラスさんから馬車の修理箇所を聞いてきてちょうだい。」
 
「あ、ああ、わかったよ・・・。あれ?おじさん、来てたんだ。あ、他にもお客さんがいたんだね・・・。こんにちは。」
 
「おお、エリク久しぶりだな。なんだ親父の仕事を手伝ってるのか?」
 
「そうだよ。兄貴は王国剣士になっちゃったし、俺が手伝わなきゃね。」
 
「ふん、ひよっこが何を偉そうに。ほら、さっさと店に出て話を聞いてきてくれ。来客中だからって言っとけよ。」
 
「わかったよ。」
 
 エリクは私達にぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。
 
「レグスさん、挨拶に出ていっても構いませんか?」
 
「そりゃ構わんさ。あんたの知り合いに俺が挨拶するななんて言う権利はないからな。」
 
 私は店に出て、トラスと再会した。彼は私との再会をとても喜んでくれて、帰りにはぜひファロシアに寄ってくれと言ってくれた。
 
「お客さんはオシニスおじさんの知り合いみたいだけど、馬車を買いに来たんじゃないみたいですね。」
 
 エリクは不思議そうに私を見つめている。
 
「私は医者なんだよ。トラスとはファロシアで怪我をした王国剣士を助けた時に知り合ったんだ。」
 
「医者・・・?それじゃ兄貴のことで・・・。」
 
 エリクの顔が暗くなる。
 
「君はクリフの弟さんだね?私はね、君のお父さんから、お兄さんの手術を頼まれたんだよ。」
 
「手術・・・?だって兄貴はもう助からないんじゃないんですか?」
 
「確実に助かるとはまだ言えないが、治療の余地は残されている。そのことで今日はオシニスさんとハインツ先生と一緒に来たんだ。」
 
「それじゃ兄貴は助かるかも知れないんですか?」
 
「可能性は残されているよ。そして私は、その可能性をもっと広げるために手術をするんだ。」
 
「兄貴が・・・助かる・・・?」
 
 エリクの目から涙が溢れた。
 
「助かる可能性があるなら、助けてください。俺・・・まだ兄貴と話したいことがたくさんあるんです・・・。お願いします・・・。」
 
「全力を尽くすよ。だから、君も見舞いに来てくれるかい?最近は食事の量も増えて、ずいぶんと快復してきているよ。」
 
「はい。今度行きます。」
 
 エリクが涙を服の袖でごしごしと擦った。
 
 
 
 私がエリクと話を終えて外に出た頃には、オシニスさんとハインツ先生も外で待っていてくれた。
 
「エリクはいい子ですね。クリフのことをずいぶん心配しているようですよ。」
 
「ああ、クリフもエリクもいい奴だよ。レグスとサラの子供とは思えないくらいだ。」
 
「ははは、お2人ともいい方じゃないですか。エリクからクリフを助けてくれと頼まれました。まだお兄さんと話したいことがたくさんあると・・・。」
 
「仲のいい兄弟だからな・・・。さっきレグスに聞いたら、エリクは朝早く修理の部品を受け取りに運送屋の荷物置き場に行っていたらしい。さっきあのならず者共に襲われた時にいなくて良かったと言ってたよ。あいつはクリフより熱血漢だからな。父親に加勢してあのチンピラ共に殴りかかっていったかも知れん。」
 
「ということは、下のお子さんのほうがお父さんの気質を受け継いでいるようですね。」
 
「そうかもなあ・・・。親父の仕事にも興味があるみたいだし、あのまま仕事を続けていけるようなら、跡継ぎとしてはいいんじゃないか。」
 
「親孝行な息子さんじゃありませんか。あれだけの工房を構えていれば、やはり我が子に後を継いでほしいというのは親の願いでしょうからね。」
 
「そうですね・・・。」
 
 ハインツ先生の言葉に、オシニスさんの顔がふと陰った。あとは・・・クリフがもう少し長生き出来れば・・・あの家族はもっと幸せになれる。
 
 
「俺はちょっと牢獄に寄っていくよ。さっきの奴らが気になるからな。」
 
「分かりました。」
 
 牢獄へと続く道でオシニスさんと別れて、ハインツ先生と私は医師会の病棟に戻った。クリフの部屋ではゴード先生が若い駆け出しの医師達に指示をしながら、何か資料を作っている。
 
「ゴード、クリフの容態はどうだ?」
 
「はい。今のところは順調です。話し合いはうまくいきましたか?」
 
「なんとかな。この間からある程度時間が過ぎていたせいか、ずいぶんと冷静に話が出来たよ。」
 
「そりゃよかった。あ、クロービス先生、奥さんは今マレック先生のところですよ。クリフの食事のプログラムを作るのに、ぜひ参加したいと言うことでした。」
 
「そうですか。マッサージのほうはどうです?」
 
「今朝改めて組み直した手順で、1度マッサージしてもらったところです。はぁ・・・私も早くあの技術を身につけたいものです。なかなかうまくいきません・・・。」
 
 ハインツ先生は『医師会ではゴード先生が整体技術の第一人者』と言ったが、それはあくまでも研究者としてのことだ。実際の技術となると、確かに他の医師達よりは遥かに熟練してはいるが、まだいささか心許ないらしい。
 
(あれ・・・?)
 
 ふとクリフの枕元にあるテーブルを見ると、立派な時計が置かれている。こんなものは前はなかったはずだ。不思議に思って尋ねたところ、どうやらこれは医師会でわざわざ購入した時計らしい。
 
「どうして時計など・・・」
 
「クリフの睡眠時間を計るためですよ。」
 
「なるほど、データとして記録するためですか・・・。」
 
 確かに、今まではクリフの睡眠時間について、部屋の壁に掛けられている時計を見ながら感覚的に計っていただけだった。だが手術を成功させるために、どんなマッサージをしたか、どんな食事をしたか、どんな薬を飲んだか、そしてそれによってどの程度症状が改善されたかを、今までよりいっそう細かく記録していくとのことだった。
 
「そういうわけですから、今日からの記録についてはお任せください。先生はまず、今朝の会議でお渡しした記録を、全て把握してください。」
 
「分かりました。」
 
 あの膨大な記録をまず頭に入れないことには、クリフの治療に参加することは出来ない。私はその記録に目を通すため、さっきの会議室に戻ってきた。ここは今日は空いているらしい。先ほど座っていた椅子に座り、紙の束を上から見ていった。

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