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第七章 回想 〜新たなる出会い 前編〜

 
(この人がライザーさん・・・イノージェンが待ち続けている・・・。)
 
 ランドさんが着ているのと同じ制服・・・。空色の上着に茶色のズボン。その上からやはりランドさんと同じ、青みがかった光沢のある鎧を身につけている。整った顔立ち・・・。優しい穏やかな瞳・・・。でも何となく、その表情に影があるように見えたのは、私の思い過ごしだろうか・・・。
 
「クロービス・・・?」
 
 ライザーさんは少し首を傾げて考え込んでいる。私とて、ライザーさんに会ったのはこれが初めてと言ってもいいくらいだ。実際こうして顔を合わせてみても、この人のことを思い出すことは出来なかった。だがここまで来たらもう後戻りは出来ない。
 
「あの・・こんにちは・・・。」
 
 この人が私を憶えていたとしても、5歳の時の顔だけだ。同郷だと言ったのに初めましてと言うわけにもいかず、自分が憶えていないのに私を憶えていませんかとも言えず、口から出た言葉は挨拶だけだった。父の名前を言えばきっとすぐにわかるのだろうが、ここでそれを言うわけにはいかない。だがライザーさんは、私の名前を聞いて少し考えていたが、やがてはっとしたように改めて私を見つめると、
 
「クロービスって・・・島の・・・診療所の・・・?」
 
 思い出してくれたらしい。
 
「そうです。」
 
「サミル先生の息子さんの・・・?」
 
 この瞬間、私は心臓が飛び出しそうなほどドキリとした。そしてランドさんの反応に注意をめぐらせた。王宮の中で父の名前が出てしまった。どうしよう。伏せておかなくてはならなかったのに。隣のロビーにいる人達は誰も聞いていなかっただろうか・・・。ライザーさんはそんな私の気持ちに気づくはずもなく、『違ったかな』というような戸惑った顔をしている。私は慌てて返事をした。
 
「あ、あの・・・そうです。」
 
 その途端ライザーさんの顔に、先ほどよりももっと優しい笑顔が広がった。
 
「やっぱりそうか!思い出したよ・・・。懐かしいなぁ・・。久しぶりだね。僕が島にいた時はまだ小さかったけど、すっかり立派な青年になったんだね。」
 
 そう言って握手してくれた。どうやらランドさんは私の父の名前に聞き覚えはないようだ。私は心の底からほっとした。・・・よかった・・・と思いかけて、突然悲しみがこみあげてきた。
 
(何がよかったと言うんだ・・・。)
 
 私にとっては最愛の父なのに、たった一人の肉親なのに、ここでの試験を突破したくて、いつの間にか私は、父の名前を隠そう隠そうとしている。私を心から慈しんでくれた、最期の時まで深く思いやってくれていた父のことを、そんな風に思うなんて・・・。私はなんて情けない息子なんだろう・・・。そう思った瞬間、涙が流れてしまった。慌てて顔を擦ったが、一度流れ始めた涙はなかなか止まってくれない。
 
「お、おい・・・。ライザーと会ったのがそんなに嬉しかったのかな・・・?」
 
 ランドさんは泣き出してしまった私を見て、どうしたものかと頭をかいている。
 
「す、すみません・・・。そうじゃないんですけど・・・。あ、あの、ライザーさんに会ったのが嬉しくないわけじゃなくて、でもその・・・違うんです・・・。」
 
 しどろもどろになって必死で言い訳をしながら、私はゴシゴシと顔を擦った。少ししてやっと涙が止まってくれた。
 
「どうやら落ち着いたみたいだな・・・。ライザー、クロービスの身元引受人になってくれそうな人を知らないか。こちらで斡旋するってわけには行かないが、お前が同郷のよしみで紹介する分には問題ないだろうと思うんだが。」
 
 ランドさんは私の顔を見ながら、ほっとしたようにライザーさんに問いかける。ライザーさんはしばらく考えていたが、
 
「・・・それじゃ、僕が育った孤児院の神父様に頼んでみるよ。あの人なら事情を話せばわかってくれると思う。」
 
(孤児院・・・?)
 
 島を出る前にグレイから聞いた話では、ライザーさんの両親が亡くなった後、叔父さん夫婦が迎えに来て島を出たと言っていた。孤児院とはどういうことなのだろう。もしかして、その叔父さん夫婦も亡くなったのだろうか。だとしたら、この人は島を出てからもずっと苦労しながら生きてきたのだろうか。さっき影があるように感じられたのは、そのせいだったのかも知れない。
 
「そうか、それじゃ後で案内してやってくれるか?」
 
「そうだね。研修のあとの方がいいだろうな。」
 
「そうだな。よろしく頼むよ。」
 
「それじゃ、僕がクロービスを部屋まで連れて行くよ。きっと疲れているんだろう。僕達の部屋で少し話でもして、落ち着いてからのほうがいいだろうから。かまわないか?」
 
「次の勤務は・・・夜か?」
 
「ああ。時間はたっぷりあるから、一通りのことは説明しておくよ。」
 
「そうか、それじゃ頼むよ。」
 
「クロービスの部屋は・・・3階のあの部屋でいいのか?」
 
「ああ、そうだ。やっと何とかおさまりそうだよ。クロービスなら・・・きっとうまくいくさ。」
 
 ランドさんが笑う。
 
「君の見立てなら間違いないな。」
 
 ライザーさんも私の部屋をすでに知っているようだ・・・なぜ?『おさまる』というのは・・・一体どういうことなんだろう・・・。
 
「ではクロービス、あとはライザーからいろいろと聞いてください。」
 
「はい。ありがとうございました。」
 
 ライザーさんに促されロビーを横切ろうとした時、一人の剣士が私達のほうに近づいてきた。
 
「おお、ライザー一人か?オシニスはどうした?」
 
「オシニスなら、出掛けましたよ。」
 
「出掛けた?一人でか?」
 
「ええ。いつものところですよ。」
 
(なんのことだろう・・・。いつものところ?どこなのかな。)
 
 私は思わず聞き入っていた。
 
「ああ、なるほどな・・・そうか。だがコンビのお前も大変だな。ガウディさんがあんなことにならなけりゃ・・・。」
 
「セスタンさん、その話は・・・。」
 
 ライザーさんが眉をひそめ、表情が厳しくなる。ガウディさんという人の話は、ここでしてはいけないことなのだろうか・・・。
 
「お、そうだったな・・・。」
 
 セスタンさんと呼ばれたその剣士は慌てて声を落とした。
 
「慣れればなんと言うことはありませんよ。これも仕事のうちですから。」
 
 ライザーさんはまた元の穏やかな表情に戻ってにっこりと笑った。
 
「ははは、それは確かにそうだな。そいつが新人かい?」
 
 剣士が私の顔を覗き込む。
 
「クロービスと言います。僕の同郷でしてね。」
 
「お前の・・?ほぉ、クロービス、俺はセスタンだ。入団して8年かな。よろしくな。」
 
「クロービスです。よろしくお願いします。」
 
「セスタンさん、これからどちらですか?」
 
「これから南さ。さてと、そろそろ行かないと、あいつにどやされるからな。えーと、クロービスか。研修頑張れよ。それじゃまたな。」
 
 言うだけ言うとセスタンさんは私達から離れていった。ライザーさんのあとをついていく途中、階段がある。ライザーさんは素通りしてしまったが、ここはどこへ通じる階段なのだろう。私は思わずその階段の下で立ち止まり、上を覗き込んだ。
 
「クロービス!そこは女性剣士用宿舎への階段だよ!上がっちゃダメだ!」
 
 ライザーさんは慌てて私のところに戻ってくると、腕を引っ張るようにしてその階段から遠ざけた。ロビーにいた剣士達が一斉に振り向き、くすくすと笑っている。
 
「す、すみません。どこに通じてるのかなあ、と思って。」
 
 私は真っ赤になってしまった。昇ってみなくてよかった。
 
「いや、僕もうっかりしてた。いつも素通りするからその調子で・・・。ごめん、ちゃんと言わなくちゃわからないよね・・・。でも・・・君は変わらないね。その好奇心の強いところは小さな時そのままだ。」
 
 ライザーさんも言いながらくすくすと笑っている。小さなころ、私はそんなに好奇心が強かったのだろうか。
 
「そ、そうだったんですか?・・・すみません・・・。小さなころのことは憶えてなくて・・・。」
 
「憶えてない?ははは。君は小さいころ、箱があれば必ずふたを開けるし、人形の首は必ず一度は取ろうとしたし・・・。どんなものでも中を見ないと気が済まないみたいだったよ。」
 
「そ、そうなんですか・・・。」
 
 私はまた赤くなった。そう言えば、よくイノージェンが私に言っていた。
 
『あなたに首を取られた人形は一つや二つじゃなかったわ・・・。』
 
 自分が憶えていないことを、今日初めて会ったようにしか思えない人が知っているというのも奇妙なものだ。そんな話をしているうちに私達は3階へ上がり、ライザーさんは一番奥の部屋の前で立ち止まった。
 
「さあどうぞ。ここが僕と、さっき話の出ていた相方のオシニスの部屋だよ。男所帯だからきれいとは言いかねるけどね。」
 
 ライザーさんはそう言ったが、中はきちんと整頓されている。だがよく見ると、部屋の半分が妙に雑然としているのは、そちらがオシニスさんという剣士の領域なのだろうか。部屋の真ん中には、小さなテーブルが一つと、椅子が二脚置かれていた。
 
「その辺に座っていてくれ。お茶くらいは出せるからね。少し話をしようか。」
 
 私が椅子に腰掛けると、ライザーさんはお茶を運んできてくれた。
 
「それにしても、よく僕のことを憶えていたね。僕が島を出る時はまだ君は小さかったから、もう忘れられているかと思っていたよ。」
 
「・・・すみません。実を言うと、ライザーさんのことは憶えていなかったんです。」
 
 私は正直に言って頭を下げた。
 
「そうか・・・。別に謝るような事じゃないよ。それじゃ僕のことや、僕がここにいることは・・・サミル先生から聞いたんだね?」
 
「父から?」
 
 ライザーさんの思いがけない言葉に私は驚いて聞き返した。
 
「違うのかい?それじゃ誰に・・・。」
 
 言いかけてライザーさんはハッとした。あの島で、自分が王国剣士であると言うことを知っている人物・・・。それはイノージェンをおいて他にないことに気づいたのだろう。だが私はそのことよりも、ライザーさんがどうして自分のことを父から聞いたかと言ったのか、それが知りたかった。
 
「あの・・・どうして父は、ライザーさんがここにいることを知っていたんですか?」
 
「サミル先生から何も聞いていないのかい?」
 
「父は・・・亡くなりました。それで私は王国に出てきたんです。」
 
「サミル先生が・・・亡くなった・・・?」
 
 ライザーさんの顔から笑みが消えた。そして持っていたカップをテーブルに音をたてて置くと、私に向かって身を乗り出した。
 
「それは・・・いつ?」
 
「もう・・・10日近く前です。病気で・・・。父が亡くなってから埋葬をすませてすぐ、私は父の助手をしていたブロムさんに連れられて島を出たんです。」
 
「そんな・・・。」
 
 ライザーさんは呆然としている。
 
「そんな・・・サミル先生が・・・なぜ・・・こんなに早く・・・。」
 
 その瞳から涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちる。ライザーさんは慌てて顔を片手で覆うと、私に背中を向けた。肩が震えている。ついさっきまで、私はこのエルバールの地で天涯孤独だと思っていた。でもこの人は父をよく知っていて、その父の死を悲しんで涙を流してくれている・・・。自分が一人ではないのかも知れない。悲しんでいる人を前にして不謹慎な気がしたが、私の胸には安堵感が広がっていた。やがてライザーさんはゆっくりと私のほうに向き直った。その瞳は赤く腫れている。
 
「すまなかったね・・・君のほうがつらいのにね・・・。」
 
「いえ・・・。あの、でもどうして父はライザーさんがここにいることを・・・。」
 
 私はもう一度同じ質問を繰り返した。
 
「・・・会ったことがあるんだ。僕が王国剣士になってから・・・一度だけ・・・。」
 
「え・・・?」
 
 この言葉は私を驚愕させた。そして無意識のうちに身を乗り出していた。
 
「あ、あの・・・どこで・・・。」
 
「1年ほど前・・・僕が相方のオシニスと共に、城下町の警備をしていた時のことだ。オシニスが裏通りの奥で怪しげな商売をしている商人に尋問をしていた時、通りの入口を誰かが素早く通過していったことに気づいた僕は、その場をオシニスにまかせて通り過ぎた人影を追いかけたんだ。盗賊などが僕たちの姿を見て逃げていったのかもしれないと思ってね。」
 
 ライザーさんはそこまで話すと一息ついてお茶を飲み、言葉を続けた。
 
「人影は奥へ奥へと逃げていく。とうとう行止りの路地奥で僕は人影を追いつめた。向かってくる様子はなかったので、用心して近づき顔を見ると、それがサミル先生だったんだ。」
 
 なぜ父は逃げ出したりしたのだろう・・・ライザーさんの言うように王国剣士を見て逃げたとしたら・・・父の日記の中にあった昔犯した大きな罪と言うことに関係があるのか・・・。
 さらに続けられたライザーさんの話はこうだった。









 追いつめられた人影は、顔を隠すように下を向き息を弾ませている。見れば身なりも悪くない。髪が白くなってはいるが、先ほどからの逃げっぷりからしてそれほどの老人とも思えなかった。
 
「どうされました?」
 
 ライザーさんは慎重に声をかけた。相手は答えない。ゼェゼェと息をして苦しそうだ。
 
「・・・傷つけるつもりはありません。なぜ私達を見て逃げたのか、教えてください。」
 
「私は・・・何もして・・いない・・・。」
 
 苦しい息の下から、人影はやっと声を出した。
 
「ではなぜ逃げたのです?」
 
 ライザーさんがさらに問いつめる。
 
「・・・・・。」
 
 相手は答えない。いつまでもここでにらめっこをしているわけにも行かないので、ライザーさんは、念のため腰の剣に手をかけながらゆっくりと近づくと、相手の肩に手をかけてぐいっと自分のほうに向けた。
 
「サミル先生!」
 
 ライザーさんは驚愕した。遠い昔、体の弱かった自分に健康を取り戻してくれた、恩人とも言える診療所の先生が今、目の前にいる。こんなところで再会しようとは・・・。
 
「・・・君は?」
 
「憶えてらっしゃいませんか?と言っても僕はまだ小さかったけど・・・。ライザーです。小さな頃、あなたに病気を治していただいた・・・。」
 
「・・・ライザー・・・。ライザー・・・?昔島に住んでいたライザーか!?」
 
「そうです。思い出してくれましたか。ご無沙汰しています。こんなところでどうされたのですか?」
 
 父はその時、ほっとしたようにその場に座り込み、大きくため息をついた。
 
「いや・・・道に迷ってね・・・久しぶりにここに出てきたので・・・。」
 
 何となく要領を得ない返事だった。
 
「・・・失礼は承知の上ですが・・・一つだけ質問させてください。王国剣士を見て逃げたわけではないのですね?」
 
 父は青い顔をしていたが、ライザーさんの眼を見てゆっくりと口を開いた。
 
「いや・・・。道が判らなくなって焦って走り回っていたら・・・誰かが追いかけてきたので賊と間違えてね・・・。逃げてしまったんだ・・・。仕事の邪魔をして、申し訳ないことをしたな・・・。」
 
 辺りを見回したが、他に父を追いかけているような人影も見あたらない。ライザーさんはその話を信じることにしたそうだ。
 
「そうですか・・・判りました。僕の方こそ驚かせてしまって申し訳ありませんでした。これからどちらへ行かれるのですか?」
 
「私は・・・島に戻らなければ・・・。」
 
 ライザーさんの問いに一応返事はするものの、その瞳は宙を泳ぐように彷徨っている。
 
「・・・では・・・街の出口までお送りします。さあ・・・。」
 
 立ち上がった父の足下に何かが落ちている。拾い上げると楽譜だった。
 
「これは・・・先生のものですか?」
 
 ライザーさんから差し出された楽譜を見て、父は真っ青になってひったくるようにそれを受け取った。
 
「あ、ああ、すまない。ありがとう・・・。」
 
 慌てて取り繕ったそうだが、どうして医者である父が楽譜などでそんなに顔色を変えるのか、不思議に思ったそうだ。商業地区を出て住宅地区の大通りを歩き、やがて街の西門についた。
 
「ライザー、ありがとう。ここでお別れだ。」
 
「お一人で大丈夫なんですか?」
 
「心配には及ばんよ。ここから島までのモンスターなら戦い慣れているからな。」
 
「そうですね・・・。先生がこの辺りのモンスターに後れを取るはずがありませんよね。失礼しました。・・・こちらにはよく来られるのですか?」
 
「あ、いや、まあ・・・たまにな・・・。いろいろと薬草などの買い付けもあるし・・・。」
 
 父の顔が急に曇った。
 
「そうですか。今もお忙しいんですね。」
 
「そうだな・・・。なんだかんだとな・・・。」
 
「島のみなさんは・・・お元気なんですか?」
 
「ああ、みんな元気だ。・・・君は、まだあの島に戻るつもりでいるのか?」
 
「はい。いつか・・・必ず・・・。」
 
「そうか・・・。君は王国剣士だ。本当に立派になったよ。私は君の今の姿を見てとても嬉しい。だがあの島の人達に君を受け入れてもらうのは・・・大変かも知れないぞ・・・。」
 
「それは・・・もとより覚悟の上です。いつか、必ず僕はあの島に帰ります。たとえ・・・僕が忘れられてしまっていたとしても・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
「サミル先生、今の僕があるのはあなたのおかげです。あの時あなたがあの島にいらして、僕の病気を治そうと言ってくださらなかったら、今の僕はなかったと思います。そして治療術も剣術も、教えていただいた全てのことが、今の僕に役立ってくれています。島を出る時、僕はまだ子供で、ろくなお礼も言うことができませんでした。ですから、あらためて言わせてください。ありがとうございました。」
 
 ライザーさんは深く頭を下げた。父はそんなライザーさんを見て、涙を滲ませていた。
 
「・・私は何もしとらんよ・・・。病気が治ったのだって、君の生命力がそれだけ強かったと言うことだ。治療術も剣術も、君が頑張ったから憶えられたんだ。私に恩義など感じる必要はない。これからも・・・この王国を・・・守ってくれ・・・。」
 
「はい・・・。必ず・・・。」
 
「では元気で・・・。」
 
「はい。先生もお体に気をつけて・・・。」
 
 父がくるりと背を向け歩き出しかけた時・・・、
 
「ロストメモリーか・・・何と皮肉な・・・恐ろしいことだ・・・・。」
 
ちいさな声でつぶやいた。
 
「え?」
 
 ライザーさんが聞き返そうと声をかけようとしたが、父はもう何も耳に入らないかのように歩き去ってしまった。まるで夢遊病者のような足取りで・・・。










「楽譜を・・・持っていたんですか・・・・。」
 
 ではあの楽譜はその時に手に入れたものなのだろうか・・・。
 
「そう。ただ、僕は音符をちらりと見ただけで、何の楽譜だったかまではわからなかったけどね。そして一緒に歩いている間中、ずっとサミル先生はぼんやりとしていた。何か心配事があったのかもしれない。そして、西門から外に出ていく時に小さな声でつぶやいた言葉がどうも引っかかって・・・。」
 
 『ロストメモリー』というのは、すなわち私の元に遺された楽譜『Lost Memory』のことだろう。しかし、『何と皮肉な・・・恐ろしいことだ・・・』と言う言葉の意味はいったい・・・。私は思い立って荷物袋から楽譜を取りだし、テーブルの上に置いた。
 
「これは・・・。」
 
 ライザーさんは不思議そうに見つめていたが、はっとしたように手にとって顔を近づけた。
 
「これは・・・あのときの楽譜・・・そうなんだね?」
 
 私は黙って頷いた。
 
「この楽譜を僕から受け取った後、サミル先生はとても大事そうに荷物の中にしまったんだ。でもその手が少しだけ震えていた・・・。タイトルは『Lost Memory』か・・・。それじゃ別れ際に先生がつぶやいた言葉は、この楽譜のことだったと言うことなのか・・・。」
 
「多分・・・そうなんだと思います・・・。この楽譜以外でその言葉に思い当たるものは何もないんです・・・。」
 
「この楽譜を君が預かったのはいつなんだい?」
 
「預かったわけではないんです・・・。父が亡くなった後、家にあったピアノの譜面台にこの楽譜が置いてあって・・・。でも私は、父が亡くなるまでそんなものを家で見た覚えがないんです。何か父の死に関係しているのかと思って持って出てきたんですが・・・。」
 
「サミル先生はご病気で亡くなったんじゃなかったのか・・・?」
 
 私は思い切って、父の死にまつわる出来事をすべてライザーさんに話して聞かせた。5ヶ月もの間家を空けていたこと。帰ってきた日の夜に私が見た奇妙な夢。まるで規則正しく悪くなっていったような父の病気。そして最後の日、私がブロムおじさんの家に荷物を取りに行った、ほんの少しの間に冷たくなっていたこと・・・。話すうちにまた涙が滲んできた。まだほんの何日か前のことなのだ・・・。
 
「・・・そうか・・・そんなことが・・・。」
 
 ライザーさんは黙って私の話を聞いていたが、厳しい表情で小さくつぶやいた。自分にとって初対面としか思えない人に、どうしてこれほど立ち入った話をする気になったのか、自分でもよくわからない。だが天涯孤独だと思っていたこの地で、思いがけず父を知る人物に出会えたことで、私はこの人に頼りたくなっていたのかも知れない。そしてこの人は、イノージェンがもうずっと長い間待ち続けている人だ。悪い人のはずがない。単なる思いこみのような気もしたが、結果的に私のこの勘は当たったことになる。
 私は荷物の中から父の日記を取りだし、最後のページを開くとライザーさんの前に置いた。
 
「・・・父の日記なんですけど・・・多分遺書のようなものだと思います・・・。」
 
 ライザーさんは黙ったまま眼を走らせていたが、その瞳からはまた涙が流れてきた。
 
「サミル先生が君をとても大事に育てていたことは・・・あの頃まだ子供だった僕の目から見てもよくわかったよ・・・。でも甘やかすと言うことは一切なかった・・・。僕は君がうらやましかったんだ。あんなに素晴らしい人が自分の父親だったら、どんなにかよかったのにと・・・いつも思っていた・・・。」
 
「息子の私が言うのは変かも知れないけど・・・本当に優しい、素晴らしい父だったんです・・・。なのに・・・さっきランドさんに父のことを聞かれて・・・名前を言わずに通してしまいました。ライザーさんと会った時も、父の名前が出ないようになんて事ばかり考えていて、だからさっきライザーさんが父の名前を言った時はどきっとして、誰かに聞かれてるんじゃないかとか、そんなことばかり心配して・・・。私にとっては最愛の父だったのに・・・。尊敬していたはずなのに・・・その父の名前をいつの間にか隠そう隠そうとしている・・・そんな自分が情けなくて、悔しくて・・・そう思ったら涙が出てきちゃって・・・。」
 
「そうか・・・。君もつらかったんだね。」
 
 私は黙って頷き、また涙がこぼれた。ライザーさんは父の日記を手に取り、もう一度読み返した後、静かに閉じて私に返した。
 
「やっぱり・・・僕は信じられない・・・。サミル先生は島の人々すべてに分け隔てなく接していられたし、ブロムさんも愛想はなかったかもしれないけど、その治療はサミル先生同様的確で丁寧だったよ・・・。僕は小さな頃からずっと病気だったけれど、サミル先生のおかげで健康な体を取り戻すことが出来たんだ。それだけではなく、忙しい長老の代わりに島の子供達に読み書きや計算を教えてくれたり・・・。あんなすばらしい人物が何か大きな罪を犯しているなど・・・そんなことが・・・!」
 
 ライザーさんはため息をつくと頭を抱え込んだ。こうして父を信じてくれる人がいることが、私にはとても嬉しかったし心強くもあった。
 
「父が本当に病気で亡くなったのかどうか・・・私にはわかりません。私にとってはたった一人の肉親でしたから、真相を知りたいとは思っています。でも、それを私が知ることが父の遺志に背くことになるのなら、このままにしておくべきなのか、迷っているんです・・・。」
 
「・・・そうか。確かに難しいところだね・・・。この楽譜にしたって、君にその意味を知ってほしいのなら、元気なうちに君に渡して、きちんと説明をしておけばすむことだし。サミル先生が島に戻られてから亡くなるまでの間に、話す機会はいくらでもあったはずだしね・・・。」
 
「はい・・・。だからどうしたらいいのか・・・。」
 
「何か手がかりになるようなことはないのかい?」
 
 私はここに来る前の、住宅地区の教会での神父様とのやりとりを話した。
 
「あの教会に行ったのか・・・。あそこは僕を育ててくれた神父様の教会なんだよ。あとで君を紹介しようと思っていたんだ。それじゃ・・・君が王国剣士になろうと思ったのはその楽譜のことを探るために・・・?」
 
「いえ・・。その・・・商業地区の入口にある雑貨屋の人に教えてもらって・・・実を言うと半分決心がつかないままここまで来たんです。」
 
「ところが試験に合格してしまった・・・そういうわけなんだね?」
 
「はい・・・。」
 
 私は消え入りそうな声で答えた。ライザーさんはしばらく黙って私の顔を見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
 
「・・・とにかく君は王国剣士になったんだ。この仕事は楽な仕事ではないよ。最近になってモンスターの動きが活発化していて、以前よりも襲われる人が増えている。城下町では伝説のサクリフィア聖戦のような恐ろしい災厄が、また起こるのではないかと騒がれてもいる。我々剣士団はエルバール王国の人々の盾なんだ。進んで危険に身をさらさなければならない時もある・・・。君の入団の動機が何であれ、そんなことは重要ではない。でも、命がけで人々を守るだけの覚悟がないのなら、今のうちにここを出た方がいい。」
 
 穏やかな表情は変わらなかったが、その声には厳しさがこもっていた。
 盾となって人々を守るだけの覚悟・・・。実際のところ私は、そんな大層なことは考えていなかったが、先ほどの母子や宿屋のラド、それに自由に見えて好きな時に外へ出ることも出来ない城下町の人々を思い、この状況を少しでもなんとかできればと思った、その気持ちには嘘はない。
 
「ライザーさんは・・・父を信じてくれるんですね。」
 
「僕にとっては、いくら恩返ししてもし足りないくらいの人だ。あんな立派な人が犯罪など犯すはずがないよ。」
 
 思えば、この一言で私の心は決まったのかもしれない。
 
「ありがとうございます。・・・私はここにいます。もうあの島には戻れない、私には前に進む道しか残されていないんです・・・。そして王国に着いてからも、ずっと父のことを隠さなければならないと言う思いが私の心に重くのしかかっていたけど・・・。あなたのように父を信じてくれる人がいるなら、私はここで生きていきたい。それに・・・ここに来るまでの間、城下町を見てきて、この町の人達がモンスターの脅威に怯えて暮らしていることを実感しました・・・。この仕事を選ぶことで危険に身をさらすことになっても、こんな世界を少しでも変えていけるなら・・・あの、偉そうなこと言ってすみません。でも、それでも・・・後悔はしないと・・・思います。」
 
 ライザーさんは黙って聞いていた。やがて微笑んで
 
「そう言ってくれて嬉しいよ。君がここで生きていくというのなら、僕は出来る限りの手助けはしよう。サミル先生のことや楽譜のことは・・・君が知る運命にあるのなら、いずれわかるだろう。・・・クロービス、明日からは君の研修が始まる。必ず合格してくれ。そして・・・共にエルバールを守っていこう。」
 
 そう言って差し出してくれた手を、私はしっかりと握り返した。
 
「それじゃ、そろそろ君の部屋に案内しよう。」
 
 ライザーさんが立ち上がろうとした。
 
「あ、あの・・・待ってください。」
 
 自分でもなにを言おうとしているのかわからない。でも今言わなくては・・・。私は必死の思いで、不思議そうに振り返るライザーさんの顔を正面から見つめた。
 
「まだ何か聞きたいことがある?」
 
「あの・・・さっきのことですけど・・・。」
 
「さっきの?」
 
「はい。あの・・・ライザーさんがここにいることを誰に聞いたのかって・・・。」
 
 その言葉にライザーさんは椅子に座り直して、優しい瞳で私を見た。
 
「・・・イノージェンに聞いたのか・・・。」
 
「はい・・・。」
 
「彼女は・・・元気なんだね・・・。」
 
「はい・・・。彼女は今でもずっと・・・ライザーさんを待っているんです・・・。」
 
「え・・・?」
 
 ライザーさんの顔に驚きが走る。この人は・・・イノージェンとの約束を憶えていないのだろうか・・・。
 
「昔・・・約束したって言ってました。ライザーさんが島を出る時に、必ず戻ってくるって言っていた言葉を忘れないって。」
 
「待っていて・・・くれるというのか・・・。イノージェンが僕を・・・。」
 
「そうです。私はライザーさんのことを憶えていなかったけど、いつも彼女から話を聞かされていました。だからここに来た時に身元引受人のことを聞いて・・・。」
 
「僕の名前を思い出したというわけか・・・。」
 
「・・・はい。」
 
「憶えていてくれたのか・・・。もう僕のことなど、あんな昔の、子供の頃の約束など、忘れてしまったと思っていたよ・・・。」
 
 そう言ったライザーさんの瞳に、涙が滲んでいた。そうか・・・。この人が忘れていたわけじゃなくて、イノージェンのほうが忘れてしまっていると思い込んでいたのか・・・。
 
「そんなことないです・・・。イノージェンがライザーさんのことを忘れるなんて・・・絶対に・・・。」
 
「そうか・・・。彼女ももう23になるはずだし、きっときれいになっているんだろうな・・・。」
 
「はい・・・。とても・・・。」
 
 イノージェンの笑顔が浮かんだ。
 
「それじゃ・・・もう誰かいい人がいるんじゃないのかい?」
 
「・・・グレイを憶えていますか?」
 
「憶えているよ。僕が島を出る時に、泣きながら見送ってくれたっけ。それじゃ彼が・・・。」
 
「いえ・・・。グレイはイノージェンのことを好きだけど・・・でも、イノージェンはライザーさんのことをずっと待っているんです。必ず戻ってくるって言う言葉を忘れないって・・・。それで・・・グレイは、ライザーさんが相手じゃ勝ち目はないって・・・。」
 
 黙って聞いていたライザーさんが、ふと遠い目をして話し始めた。
 
「・・・僕は彼女と離れたくはなかった・・・。島を出たくなかった。このままこの島で、ずっと彼女と一緒にいたい・・・。そう思っていたんだ・・・。」
 
「・・・ライザーさんが島を出た時のことは・・・グレイに少しだけ聞きました・・・。叔父さん夫婦が迎えに来られたんですよね・・・?」
 
「そう・・・。僕の両親が亡くなった時、本当はイノージェンの母さんが僕を引き取ると言ってくれていたんだよ。ところが長老やダンさん達が僕の家の荷物を整理していた時、父宛に来ていた手紙の束を見つけたんだ。」
 
「それが・・・叔父さん夫婦からの手紙だったんですか・・・。」
 
「うん・・・。長老達は、身内がいるのなら、両親の死を伝えなくちゃならないだろうっていうことで、叔父夫婦に手紙を出したんだ。そうしたら・・・叔父夫婦は僕の存在を知って、ぜひ引き取りたいと言ってきた・・・。それで結局・・・僕は叔父夫婦に引き取られることになって・・・島を出なくてはならなくなったんだ・・・。」
 
「ライザーさんの希望は・・・聞いてはもらえなかったんですか・・・?」
 
 ライザーさんは私の質問にふっと微笑んだ。
 
「そうだね・・・。もしかしたら・・・聞いてもらえたのかも知れない・・・。やって来た叔父夫婦はとても優しい人達だった。叔父は父の弟にあたる人で、兄の忘れ形見である僕を、何としても自分の手で立派に育てたいって・・・。そんな叔父夫婦の顔を見ていたら・・・どうしても島に残るとは・・・僕は言えなかった・・・。」
 
 わずか10歳の子供が、大人の気持ちを思いやって自分の気持ちを押し殺すとは・・・何とも切ない話だった。
 
「僕が島を出る時のことは・・・よく憶えているよ・・・。グレイが目を真っ赤にして、僕を見つめていた。ラスティと君はきょとんとして見ていたっけ・・・。二人とも、どうして僕が船に乗るのか、今ひとつよく判っていないみたいだったね・・・。そして・・・イノージェンは最初、泣きながら僕にしがみついて離れなかった。それをイノージェンの母さんが引き離すと、今度は僕の上着の裾を、爪が白くなるほどしっかりと掴んだまま、泣き続けていたんだ・・・。僕にはその手を振りほどくことは出来なかった。でもそのままでは船に乗ることが出来ない・・・。だから・・・『必ず君のところに戻ってくるよ』って言い聞かせて、それがいつになるかはわからなくとも、必ずこの島に、イノージェンの元に戻ってくるって・・・約束したんだ・・・。それでやっとイノージェンは手を離してくれた・・・。船が桟橋から離れていって、船着き場が遠ざかるのを見ながら、大人になったら、自分の力でこの島まで帰ってこれるようになったら、必ず戻ってこようと決めたんだ・・・。」
 
「・・・その叔父さん夫婦は今は・・・亡くなったんですか?」
 
「いや・・・元気だよ。住宅地区の裏通りに住んでいるよ・・・。どうして・・・?」
 
「いえ・・・ライザーさんがさっき、孤児院にいたって聞いたので・・・。」
 
「ああ・・・そうだね・・・。僕の父は・・・かなり大きな商家の二代目だったんだけど・・・ある時信用していた使用人にお金を持ち逃げされたそうだよ。それで支払いが滞って、信用を無くしてしまったんだ。そのあとはもう悪くなる一方だったみたいだ・・・。一代で身を起こした祖父と違って、父はあまり商売上手とは言えなかったらしい。叔父夫婦も父の元で仕事をしていたから、父の商売がだめになった時点で財産を失っていたんだ・・・。だからすごく貧しかったんだよ・・・。それでも僕を学校に行かせてくれた。そして学校の友達にばかにされないようにと、いい洋服も着せてくれて、つぎをあてたものなんて絶対に着せたりしなかったんだ。食事だって、自分達が一食抜いても僕にはしっかりと食べさせてくれていた。でもそんな叔父夫婦を見ているのがとてもつらくなって・・・。そんな時、大通りに面した教会に孤児院があることを聞いたんだ。そこでは神父様が子供達に無料で勉強を教えてくれるって聞いて・・・。それで僕は、ある時思いあまって教会に駆け込んだんだ。自分をここに置いてくれって、神父様に頼み込んだんだ・・・。」
 
「それで孤児院に・・・。」
 
「神父様は・・・僕の家まで来てくれて、叔父夫婦といろいろ話をしてくれた。叔父夫婦が、今は仕事らしい仕事も見つけられずに、日雇いの仕事で食いつないでいたことも、僕はその時初めて聞いたんだ。そんな苦しい生活の中で、叔父夫婦が僕をどれほど大事に育てようとしていてくれたか、その気持ちが伝わってきて・・・涙が出たよ・・・。神父様は僕を孤児院に引き取ってくれて、叔父夫婦に仕事を世話してくれた。でもいきなり暮らし向きが楽になるわけではないからね。僕が剣士団に入ってからは、叔父夫婦の生活の援助も少しは出来るようになったから、今は何とかなっているけど。だからそれ以来僕はずっと孤児院にいたんだよ。」
 
「そうだったんですか・・・。」
 
 やはりこの人は島を出てからもずっと苦労してきたのだ・・・。
 
「孤児院では友達も出来たし、神父様も、世話をしてくれるおばさん達も皆親切で、ここでの暮らしにつらいことなど何もなかった。でも・・・ふとどうしようもなく寂しくなる時があるんだ・・・。そんな時いつも思い出すのは、イノージェンの姿ばかりだ・・・。笑った顔、怒った顔、そして・・・『必ず帰ってきて』って、泣きながら僕にしがみついた小さな手が、ずっと忘れられないんだ・・・。」
 
 少しずつ声が震えてくるのが判った。そしてそこまで話して、ライザーさんは涙を止めようとするかのように強く眼をつぶったまましばらく黙っていたが、やがて眼を開けるとまた、ぽつりぽつりと話し始めた。
 
「だから、剣士団に合格した時に手紙を出したんだ。でも返事は来なかった。無理もない・・・僕が島を出てから10年も過ぎてからのことだ。僕のことなど、もう忘れてしまって当たり前・・・。そう思っていたんだ・・・。でも・・・そうか・・・。憶えていてくれたのか・・・。」
 
 涙を滲ませた目で、ライザーさんは嬉しそうに微笑んだ。やはりこの人も、イノージェンをずっと想い続けていたんだ・・・。私はどうしても彼女の気持ちをこの人に伝えなければならない。そんな気がした。
 
「返事を出したくても出せなかったって・・・言ってました。あの島の人達にとって王国剣士は、自分達が挫折を味わった王国の象徴だから、もし島の人達にライザーさんのことが知られたりしたら、それだけで傷つく人もいるかもしれないから、返事を出せなかったって・・・私が島を発つ日にうち明けてくれたんです・・・。」
 
「そうだったのか・・・。教えてくれて嬉しいよ。ありがとう、クロービス。」
 
 この人にはかなわない・・・。私に向かって優しく微笑んでくれる瞳を見て、負けたと思った。二人の絆の強さの前には私の思いなど太刀打ちできそうにない。でも不思議と敗北感はない。
 
(レベルが違いすぎるのかな・・・。)
 
「あの・・・差し出たことですけど、イノージェンを・・・幸せにしてあげて・・・ください。」
 
 今の私にはこれしか言えない。
 
「クロービス、君は・・・。」 
 
 ライザーさんは私を見つめ、やがて私の思いを察したように微笑んだ。
 
「そう・・だね・・・。いつかきっと・・・君の願いを・・・叶えたいと思うよ・・・。それじゃ、君の部屋に行こうか。」
 
 約束はしてくれたものの、ほんの少しだけ歯切れの悪い返事だったような気がした。でもきっとそれは気のせいだ。私がまだイノージェンへの想いを完全に吹っ切れていないから、そんな風に思ってしまうんだ・・・。

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