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第61章 ウィローの本音

 
 宿に着いて、私はラドに食事を頼み、食後にワインを飲みたいから、おすすめの一本と適当なつまみを見繕ってくれるように頼んだ。
 
「へえ、あんたは運がいいな。今朝ちょうど食べ頃のチーズを仕入れたばかりなんだ。それじゃその分食事を少し軽めにしておいたほうがいいな。ワインの銘柄は?何か希望はあるかい?」
 
「いや、任せるよ。」
 
「よし、わかった。うまいワインとつまみを用意して持って行くよ。」
 
 ラドは自信ありげだ。ワインというのはなかなかに奥が深いらしく、こだわる人はかなりこだわる。私はと言えば、元々酒はたしなむ程度なので、それほどワインの世界を知っているわけではない。へたに口出ししない方がうまいワインが飲めるだろう。
 
 
「どうしたの?急にワインなんて。」
 
 部屋に戻るなり、妻はそう言って不安げに私を見上げた。やっと私を見て話してくれた。
 
「君に聞かないで頼んじゃったけど、嫌いじゃなかったよね?」
 
「ワインは好きよ。そうじゃなくて、食後に飲もうなんてあなたが言い出すのが珍しいから・・・。」
 
「う〜ん・・・まあ祝杯の前祝いってところかな。」
 
「・・・え・・・・?な、なにそれ?」
 
 妻はポカンとして尋ね返した。我ながら変な話になっているなと、少しおかしくなった。
 
「今日はアスランがだいぶ回復していたしね。あの分なら、すぐにでも普通の生活が出来るようになると思うよ。でも、彼が本当に完治したと言えるのは、王国剣士として元のように仕事が出来るようになってからのことだと思うんだ。」
 
「・・・つまり、そうなったときに祝杯をあげるべきだけど、せっかく順調なんだから、その前祝い・・・?」
 
「そういうこと。」
 
「ぷ・・・ふふふ・・・あっはっは!」
 
 妻が笑い出した。
 
「お酒を飲みたいなんて言うから、何かあったのかって心配してたのよ。あ〜あ、心配して損した気分だわ。」
 
「せっかく2人で旅行してるんだから、宿でのんびりグラスを傾けるってのも悪くないじゃないか。本当なら、毎晩そうやってのんびりしていられたはずなんだけどね。」
 
「そうよねぇ・・・。騒動が私達を追いかけてきているようなものだしね。」
 
「だから、せめて今日くらいは軽く一杯やりたいなと思ったのさ。急患が来る心配はないし、アスランもライラも回復に向かいつつあるし、久しぶりのゆっくりした時間を、逃さずに楽しんでおかないとね。」
 
「ふふふ、そうね。それに、どうやらおいしいチーズが食べられそうだしね。」
 
「うん。楽しみだな。」
 
 この日はそれほど混んでいなかったのか、それとも昨夜の食事が遅れたことで気を使ってくれたのか、そんな話をしているうちに食事が運ばれてきた。そして食べ終わる頃を見計らって、よく冷えたワインとチーズの盛り合わせ、それにチョコレートとフルーツの角切りがしゃれた皿に盛りつけられて、ワゴンに乗せられ運ばれてきた。
 
「うわぁ・・・おつまみにしてはボリュームあるわねぇ。」
 
 妻は感心したようにテーブルの上を眺めている。
 
「ボトルとお皿は明日取りに来るから、部屋の隅にでも置いていてくれればいいわ。それじゃごゆっくり。」
 
 ミーファが部屋を出て行き、私達は本当に久しぶりに、2人でゆっくりとワインを飲んだ。
 
「・・・ねえ・・・。」
 
「・・・ん・・・?」
 
「レイナック様のお話はなんだったのか、聞いてもいい?」
 
 妻の声は遠慮がちに聞こえる。
 
「いいよ。その話もしようと思ってたんだ。」
 
 ここではもう何一つ隠しごとをしてはいけない。私はレイナック殿との話を、全部妻に話して聞かせた。そしてオシニスさんが私を「カインの代わりに」しようと企んでいることも、全部。妻は黙って聞いているが、グラスを持つ手が震えている。
 
「・・・レイナック殿はオシニスさんと話をしてみると言っていたけど、多分、このことに関してはオシニスさんがレイナック殿に本当の気持ちを話すとは思えないんだ。」
 
「オシニスさんが気にしているのは・・・やっぱりあのことなのかしらね・・・。」
 
「おそらくはね。この間自分でも言ってたよ。『俺があの時何をしようとしていたのか知ってるはずだ』って。でもね、レイナック殿の言うとおり、つまりは『覚悟がない』ってことだと思うな。オシニスさんが私を担ぎ出そうとしているのは、それをごまかすためだと思うよ。」
 
「・・・あなたは・・・どうするの・・・?」
 
「どうするかってのはまだ思いつかないんだけどね・・・とにかくフロリア様と話をしてみようと思ってる。」
 
「そう・・・よね・・・。」
 
「明日の夕方、レイナック殿がフロリア様の時間を作ってくれることになってるんだ。だから明日話をしてくるよ。」
 
「明日って・・・・オシニスさんとじゃなくて?最初はオシニスさんと話をしたほうが・・・。」
 
「オシニスさんとこれ以上話をしても、あの人は多分本当のことなんて言いやしない。あの人から本音を引き出すためには、まずフロリア様の本当の気持ちを知らないとね。」
 
「そう・・・。でもどうして夕方なんて・・・。昼間ではだめなの?」
 
「昼間は忙しいみたいだからね。今日も体調がすぐれないらしくて、仕事は早めに切り上げたらしいんだ。多分明日も忙しくなるだろうからって、レイナック殿が夕方時間を作ってくれたらしいよ。」
 
「そう・・・・。」
 
 妻がうつむいた。
 
「・・・不安そうだね。」
 
 妻は驚いて顔を上げたが、それをごまかすように手に持ったグラスのワインをぐいと飲み干した。
 
「そんなことないわよ。別に・・・」
 
「別に、不安になったのは今じゃないし・・・?」
 
「どういうこと?」
 
「今回の旅行に、君が来たくなかった理由さ。」
 
「わ、私、別に来たくないなんて・・・。」
 
「それじゃ、最初に王国に行くと言ったとき、どうして『それじゃ行ってらっしゃい。留守は心配しなくていいから』なんて言ったんだい?最初から一緒に来る気がなかったみたいだけど?」
 
「あ、あれは・・・ブロムさんのことが心配で・・・。」
 
「本当に?」
 
「そりゃそうよ。ブロムさんだってもうお歳なんだし、あなたがずっと・・・」
 
「ずっと帰ってこなかったら、自分がしっかりしないと・・・?」
 
「・・・・・・・・・!」
 
 妻はしまったと言うように眉間にしわを寄せ、口を押さえた。
 
「今回のことがなくても、君が前から不安に思ってたのは何となく気づいてたんだ。麻酔薬の件で王宮が資金援助をしてくれるという話が出たときも、博士号の件で王国に出てくるようにと通達があったときも・・・。そしてその不安を、君がずっと言い出せずにいたこともね・・・。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 妻は小さくため息をつき、グラスをテーブルにおいて顔を上げた。
 
「結構当たってると思うけどな。」
 
「・・・そうね・・・・。」
 
 妻がとても小さな声で、つぶやくように返事をした。
 
「君は私を嘘が下手だって言うけど、君だってそんなにうまいほうじゃないと思うよ。」
 
 妻がくすりと笑った。
 
「ふふふ・・・そうかも知れないわね・・・。」
 
「私は物事をうまく説明するって言うのが苦手だけど・・・でもね、君に嘘は言わない。だから君も、嘘はつかないでくれないか。隠しごとをしないでくれとは言わないけどね。」
 
「どうして?隠しごとだってしないわ。」
 
「することもあると思うな。」
 
「たとえば?」
 
 妻はちょっと怒ったような顔で私を見てる。
 
「だって最近太ったとしたら、それは私に言いたくないんじゃないかと思って。」
 
 妻は一瞬ぽかんとして私を見たが、笑い出した。
 
「もう!真面目に聞いてたのに・・・。でも、確かにそうね。スカートのウエストがきつくなったなんて言いたくないわ。こっそりサイズを直して、知らんふりしていると思うわよ。」
 
 笑いながら妻がテーブルに置いた私のグラスにワインを注ぎ、自分のにも注いだ。グラス自体がそんなに大きくないので、ボトルの中身はそれほど減っていない。またいっぱいになったグラスを手に取り、妻はふふっと笑った。
 
「ねえクロービス。」
 
「ん?」
 
「・・・私ね・・・ずっと怖かったのよ・・・。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「でも誤解しないで。あなたのせいじゃない・・・。あなたはいつだって優しかったし、温かい島の人達に囲まれて、子供が生まれて、この20年間本当に幸せだったわ。あら、『だった』なんて言っちゃいけないわね。今だって充分幸せなのにね。」
 
 妻がまたふふっと笑う。
 
「でもね、幸せであればあるだけ、その幸せがいつ消えてしまうかと・・・ずっと怯えていたような気がする・・・。あなたが王国を出て故郷で暮らそうと言ってくれたとき、とてもうれしかった。これでもう、私達を引き離そうとする人は誰もいない。やっと2人だけでいられるんだって・・・。なのに島に帰ってからも、資金援助の話があったり博士号の話が出たり、フロリア様は、どうしてもあなたをそばに置きたいんじゃないかって思ったらまた不安になって・・・。あなたはずっとそばにいてくれたし、変わらずずっと優しいのに、どうしてもその不安が消せないの。だからあなたに申し訳ない気持ちでいっぱいだったわ。1人でヤキモチ妬いて疑って、この幸せを壊してしまうかも知れないのは、フロリア様ではなくて自分なんじゃないかと思って・・・。」
 
 妻はいったん言葉を切り、ため息をついた。
 
「だからもう、疑うのはやめようと思ったのよ。あなたを信じて、一緒に生きていこうって思っていた・・・。あなたがあの夢を見るまでは・・・。」
 
「夢・・・か・・・。」
 
「あなたが見た夢の話を聞いて、ぞっとしたわ・・・。フロリア様がカインに許してくれなんて言ってるのを聞いて、あなたが平静でいられるはずがないと思った・・・。その予感は当たって、あなたはカインの幻を見て半狂乱になったわね・・・。あなたが、カインとの約束を果たせなかったことを、ずっと悔やんでいるのも知ってたから・・・今度こそ・・・本当にあなたは行ってしまうか知れないと・・・。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「どうせあなたの背中を見送ることになるのなら、島で見送ろうと思ったの。あなたがそれきり戻ってこなくても、島の人達と一緒にいれば、毎日忙しくしていれば、きっと寂しくなんてないから・・・。」
 
 カインへの負い目・・・それはこの20年間、私の心の中でくすぶり続けてきた。そこから目を背けるように、私は我が子にカインの名を付けて、カインという名を愛しい我が子の名前として今まで生きてきた・・・。けれどあの夢を見てあれほどまでに心乱されたのは、それだけではない。
 
「私はどこへも行かないよ。ずっと君のそばにいる。今までもそうしてきたし、これからもね。」
 
「・・・約束したから?」
 
 20年前、いつ死ぬかわからないという極限まで追いつめられた状況の中で、私は妻に結婚を申し込んだ。そしてずっと一緒にいようと、約束したのだ。その「ずっと」は、本当にずっとかもしれなかったし、明日終わるかも知れなかったが、それでもいいと思った。2人とも口には出さなかったが、どちらかが死んでしまったら、1人だけでこの世界に生き続けることなんて考えてもいなかったのだ。
 
「してもしなくてもさ。もっとも、君が私の顔なんて見たくもないって言ったら別だけどね。」
 
「私はそんなこと言わないわ。」
 
「私もそんなことは考えたこともないよ。だから、君のそばにずっといる。君のいない人生なんて考えたくもない、そう思ったから約束したんだよ。」
 
「あなたは・・・。」
 
 妻は言いかけてやめ、心を静めようとするかのように胸に手をあてながら深呼吸をして、もう一度口を開いた。
 
「・・・フロリア様はすてきな方だわ。」
 
「そうだね。」
 
「男の人なら、誰だってあこがれるものじゃないの?」
 
「かもしれないな。」
 
 妻が顔をこわばらせた。
 
「君が知りたいのは、その『男の人』の部分には、私も入ってるんじゃないかってこと?」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
 妻は答えない。目線を宙に浮かせたまま、グラスを口に運んでいる。
 
「あこがれたことがあるかと聞かれれば、あると答えるよ。」
 
 口元でグラスを傾けかけた妻の手が、ぴたりと止まった。
 
「私がフロリア様の夢を最初に見たとき、君に少しだけ昔話をしたね。」
 
「ええ・・・。」
 
「その時に、カインと私はフロリア様に頼まれて、あの方を漁り火の岬まで連れて行ったんだ。オーロラを見るために・・・。」
 
「・・・あとから聞いたわ。」
 
「うん。そしてその時君は聞いた。『どうしてこの間は話してくれなかったのか』と。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「私はこう答えたはずだ。『意味はないよ』。でもそれは、本当じゃない。」
 
「嘘をついたの?」
 
「嘘というのかな・・・。私としては、口に出したくない真実をうまくぼかしたつもりだったんだけど、君がそれを嘘と思うなら、そうなんだと思うよ。」
 
「いいわけに聞こえるわ。」
 
「ははは、確かにいいわけだよ。あの時意味がないと言っておきながら、今本当のことを話すと言うんだからね。でも、聞いてくれるとうれしいな。」
 
「・・・聞くわ。私達、もう少しよく話し合わなきゃならないみたいだし。」
 
「そうだね。」
 
 20年間も、いや、知り合ってからずっと一緒にいるというのに、お互いの間には隠していることがなんと多いことか。友達や恋人同士のころのほうが、遙かに隠しごとなんてなかったような気がするのに・・・。
 
「もう一度、今度ははっきりと聞くわ。あなたは・・・フロリア様にあこがれてたの・・・?」
 
 妻の言葉の裏には『フロリア様を好きだったんじゃないのか』という言葉が潜んでいる。もっとはっきりと言うならば、自分からフロリア様へと心変わりをしそうになったのではないかと。それは多分、もうずっとずっと前から、妻が私に聞きたかったことなんだろうと思う。そして、ずっとずっと・・・聞けずにいたことなんだろう・・・。
 
「間近でお会いする機会があれば、誰だってあこがれると思うよ。」
 
「ごまかさないで。そんな意味じゃないわ。」
 
「まあ聞いてよ。あの方が持っているのは、美しさや優しさだけじゃない。人を惹きつけずにはおかない魅力に溢れている。カインと2人で乙夜の塔に昇って、月明かりの中にあの方の姿を見つけたとき、この世のものとは思えないほどに美しく見えたよ・・・。」
 
 ずっと顔をこわばらせたままだった妻が、少しだけ私から顔を背けた。目には涙がにじんでいる。きっと今の私はひどい夫なんだろう。妻の前で他の女性がいかに美しく魅力に溢れているかを語っている。私だって別に、フロリア様の魅力を妻に語って聞かせたいわけではないのだが、ここを通らないと次の話に進めないのだ。
 
「もっとも、自分が今いる場所が夢の中でずっと見ていた場所と同じだったと気づいた途端、すっかりそっちに気をとられてしまったんだけどね。」
 
 フロリア様を賊と間違えて、私達は抜き身の剣を構えながらバルコニーに飛び出した。突然剣を持った何者かが現れたのだから、あの時のフロリア様はどれほど驚かれたことか・・・。だが、カインが必死で無礼をわびている間、私の頭の中では、この場所と自分の夢がどう繋がっているのか、そればかりが気になっていた。
 
「ところが話をしてみたら、フロリア様はすでに私の名前を覚えてくれていた。今度はそのことですっかり驚いたよ。私はその日やっと正式入団を許されたばかりだったというのにね。だけど同時にとてもうれしかった。なのに剣士団の仕事が楽しいかと聞かれて、私は答えられなかったんだ。私にとって王国剣士という仕事は、『たまたまそこにあったもの』『試しに受けてみたら受かってしまった』程度のものでしかなかったからね。それがなんだか申し訳ないような気がして、胸が痛んだっけな・・・。」
 
 一度言葉を切り、手に持ったグラスの中身を飲み干した。まだあるかと思っていたワインは、もうボトル半分ほどもない。2人であと一杯ずつ飲めばおわりだ。そのあたりがちょうどいいくらいだろう。酔っぱらってしまってはこのあとの話を信じてもらえなくなってしまう。私はボトルを持って、もう空になっていた妻のグラスに注ぎ、自分のグラスにも最後の一滴まで注いだ。つまみのチーズもフルーツも、チョコレートもうまい。こんな切羽詰まった話をしているというのに、ワインやつまみの味を楽しめるほど自分の心が落ち着いていることが、とても不思議だった。
 
「漁り火の岬まで、カインがフロリア様の手を引いて、私は後ろからついていったんだけどね、フロリア様の髪が風になびいて、私の顔にかかって、なんだかとても不思議な気持ちだったな・・・。そこにいるのがこの国の女王様だなんて、とても思えなかったよ。」
 
「・・・フロリア様の髪は・・・きれいよね・・・。」
 
 絞り出すような声で妻が言う。
 
「そうだね。」
 
「小さい頃、あこがれてたわ。おとぎ話のお姫様みたいな、蜂蜜色のきれいな髪・・・。」
 
「君の髪の色だってきれいじゃないか。」
 
「そう?」
 
 妻の目が疑っている。
 
「そうだよ。フロリア様の髪は確かにきらきらしていてきれいだけど、君の髪は君の髪できれいだ。君の髪はデールさん譲りだそうだね。」
 
 初めて会ったとき、濃い栗色の髪が夕陽をはじいて、きれいなオレンジ色に見えたっけ・・・。
 
「そうね・・・。小さい頃、父さんと同じ髪の色だって聞いて私がはしゃいでたって・・・母さんが話してくれたことがあったわ。」
 
「・・・そうか・・・。私は、その時まで髪の色なんて気にしたことはなかったんだけどね、フロリア様の髪はきれいだと思った。それをそのまま口に出してしまってものすごく焦ったんだけど、フロリア様が、私が景色の美しさのことを言ったんだと勘違いしてくれて、助かったよ。」
 
 そんなのどかな会話の最中、カインが気が気でなさそうに私とフロリア様をちらちらと見ていた。本当はカインももっと話をしたかったんだろうに・・・。いや、もしかしたら、フロリア様もカインと話したかったんじゃないだろうか。ずっと気にかけていた貧民街の少年が、たくましく成長して王国剣士となって自分の前に現れたのだ。きっといろいろと話したかっただろう。けれどうまく話せなくて、カインに向けるはずの言葉を私に向けていた・・・。今になって思えば、そんな気がする。
 
「この間夢を見たとき、ぼんやりした頭の中で、なぜかあの時の出来事を思い出してた。心配してくれる君にすぐに話せなかったのは・・・私があの時フロリア様に対して感じた気持ちがどんなものなのか、自分でよくわかっていなかったからさ。」
 
「わからなかった?私には・・・あなたがフロリア様を好きだったから、だから私に言いたくなかったとしか思えないわ。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 すぱっと言い切ってから、妻は上目遣いに私を見た。
 
「・・・怒った・・・?」
 
「怒ったりしないよ。あの時まで、私もそうかも知れないと思っていた気がするからね。」
 
「かも知れないと思ってたって言うのは、実は違ってたってこと?」
 
「そういうこと。」
 
「なんだかうまく丸め込まれてるみたい。」
 
「それじゃ聞くけど、私がもし、イノージェンもキルシェもアメリアも好きだって言ったら、君は怒る?」
 
「まさか。」
 
 妻はあり得ない、と言うように肩をすくめてみせた。
 
「どうして?」
 
「だって好きの意味が違・・・・。」
 
 妻は言いかけてハッと口をつぐみ、私を睨んだ。
 
「やっぱり丸め込もうとしてるみたいだわ。」
 
「そんなつもりはないよ。今のは単なるたとえ話さ。『好きか嫌いか』という単純な分け方で言えば、私のフロリア様に対する感情は『好き』の部類に入る。でも君が今言ったように、『好き』の意味が違う。つまり君に対するのと同じ気持ちではないんだ。」
 
「つまり・・・イノージェンや、キルシェやアメリアに対する気持ちと、フロリア様に対する気持ちは同じだって、あなたはそう言いたいわけね?」
 
 妻の口調が、何となく尋問するような口調に変わった。
 
「おおざっぱに言えばね。もっとも、フロリア様はこの国の国王陛下だから、いくら友人としてとは言っても、君主に対する尊敬の念というのは入るけどね。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「君はどう?フロリア様のことを、嫌いかい?」
 
 妻はテーブルの上に置かれたグラスを持ち上げ、ワインを飲んだ。そして少しだけ目を閉じて、呪文を唱えるときのようにじっと動かなかった。
 
「・・・嫌いじゃないわ。でも・・・・」
 
「・・・・でも・・・・・?」
 
「憎んだことはある・・・。」
 
「・・・そうか・・・。」
 
「お会いする前は・・・父さんのことで信じられなかった時期もあったけど・・・。お会いしてみたらとてもいい方だったし、お父様を亡くされた経緯も気の毒で・・・だから、何か出来ることがあるならしてあげたい、そう思っていたけど・・・私とあなたのことを祝福すると言っておきながら、あなたと自分との縁談に対して、すぐに断ろうとしなかった。あの時だけはフロリア様を憎んだわ。なんてずるいのかしらって・・・・本気でね・・・・。」
 
「・・・・・・・・・・。」
 
「誰が何を言おうと、フロリア様が断ればそれですんだものを、わざわざあなたを呼び出して、あなたの話を聞きたいだなんて、未練たらたらじゃないの。しかも島に帰ってからまでなんだかんだと理由をつけて、あなたを呼び戻そうとしていたわ。」
 
 剣士団が王宮に戻ってから、妻と私はフロリア様に挨拶に行った。結婚するつもりだと、その時私ははっきりと言った。フロリア様は微笑んで『おめでとう。心から祝福します。幸せになってくださいね。』そう言われた。だからフロリア様と私の縁談が持ち上がったとき、当然フロリア様が断って終わりだと思っていたのに、そうはならなかった。私はまずレイナック殿に呼び出され、今回の話をどう思うかと、妙に遠回しに聞かれた。どう思うも何も、私には心に決めた女性がいるからと、きっぱりと断った。だがその次にはフロリア様に呼び出され、『あなたには申し訳なく思っている』というようなことを言われたのだが、『すぐに断るから』と言う話はついぞ聞かれず、そんな話が出たことに対する、何となく言い訳めいた話を聞かされただけだった。その間に妻にはまた別な貴族達からの招待が引きも切らず、2人ともほとほといやになってしまった。そして妻が掠われるという事態が起きるに至って、私は城下町を出ることを決意し、それでやっとフロリア様と私の結婚話に決着がついた恰好になったのだ。
 
「だから、誰でもいいからさっさと大公様が決まってくれればと思ってたわよ。フロリア様の気持ちも、オシニスさんの気持ちも、私にとってはどうでもよかったわ。ただ、私達の邪魔をしないでほしい、そっとしておいてほしい。それだけだった・・・。」
 
 言い終えて、妻はほぅっとため息をつき、グラスに残ったワインを飲み干した。
 
「あ〜ぁ・・・言いたいこと全部言ったらすっきりしちゃった。やっぱり、ため込んでおくのはよくないわね。」
 
「そうだね、心にも体にもよくないよ。」
 
 そう言って、私も手に持っていたグラスを飲み干した。もうボトルは空だ。
 
「ふう・・・おいしいワインだったわ。それにおつまみも。おつまみって言うより、食後のしゃれたデザートって感じね。」
 
「そうだね。ラドが自信ありげに言うわけだな。」
 
 確かにうまいワインだった。そしてつまみもしゃれたレストランにも引けを取らないほど豪華だ。新鮮なチーズ、ほどよい甘さのチョコレート、よく熟した果物が彩りよく盛られた皿・・・。
 
「・・・こんなにおいしいワインとデザートをいただきながら、嘘をつく気にはなれないわ。今言ったことは、全部私の本音よ。・・・ひどい女だと思うかも知れないけど・・・。」
 
「そんなこと思わないよ。元をただせば、私がもっときっぱりとした態度をとれなかったことにも原因があるわけだし、君がそれほどまでに私との生活を大事にしてくれていたことが、うれしかったよ。」
 
 昔なら顔が熱くなるような言葉も、今ならばさらりと言える。歳を取って図太くなったのか、素直になったのか、さてどっちなんだろう。
 
「ねえクロービス。」
 
「ん?」
 
「私は・・・あなたを信じていいのよね?」
 
「うん。」
 
 待っていた言葉が聞けて、私は即座に返事を返した。妻はうれしそうに笑った。その笑顔が、妻と私の間に澱のように淀んでいたわだかまりが消えたことを教えてくれた。
 
「わかった。もうごちゃごちゃ言わない。明日の夕方、フロリア様と話をしてきて。そしてきっちりと昔のことに決着をつけましょうよ。」
 
「そうだね。」
 
 妻が信じてくれたことがうれしかった。これで明日から、自分の戦いを始めることが出来る。
 
「それじゃ、改めて聞いていい?」
 
「ん?」
 
「あなたはどう思うの?フロリア様とオシニスさんのこと・・・。」
 
「どうって?」
 
「だってオシニスさんは、自分の気持ちは変わってないって言ってるんでしょ?」
 
「そのようだね。」
 
「だったら自分で腰を上げるべきだと思わない?今更カインのことを持ち出してあなたを担ぎだそうだなんて、ばかげてるわよ。」
 
「うちのカインに会ってからフロリア様がおかしくなったと思っているわけだから、カインのことにこだわる気持ちがわからないわけじゃないよ。だから自分よりも私のほうがいいと思っているんだろうね。」
 
「それにしたって・・20年前ならともかく、今のあなたは結婚してて、子供もいて、しかもその子供は王国剣士としてここで仕事をしているのよ?なのにそんなことを言うなんて、もしも本気で言ってるなら、私には・・・オシニスさんがわざとフロリア様の評判を落とそうとしているようにさえ思えるわ。」
 
「まさか・・・そんなことがあるはずはないと思うけどなぁ・・・。」
 
「私だってそんなこと考えたくはないんだけど。でもあなたがフロリア様のおそば近くにいれば、誰だって変に思うじゃない?レイナック様が心配されているような、おかしな噂が出てからでは遅いんだから。そんなことになったりしたら、御前会議や有力な貴族達だけでなく、一般国民からだって厳しく非難されるわ。フロリア様の支持基盤を根底から覆しかねないじゃないの。」
 
 まったく持って妻の言うとおりなのだ。レイナック殿が心配されているのもそこのところだ。妻子持ちの男との噂なんて、フロリア様にとっては害にしかならない醜聞だ。
 
「それに・・・何よりフロリア様が傷つくわ・・・。フロリア様がオシニスさんのことをどう思ってるかなんてわからないけど、それでも・・・そんなのよけいなお世話じゃない・・・。なんで男って女の気持ちがわからないのかしら。的はずれもいいところだわ・・・。」
 
「そのあたりは、本人に聞いてみないと何とも言えないな。レイナック殿の件といい、なんてあんなすぐばれる嘘をついたのかもね。」
 
「聞いたって教えてはくれないでしょうね。」
 
「まあそうだろうな。だからこそ、フロリア様との話し合いが重要になるのさ。」
 
 妻がちょっとだけいたずらっぽい笑みを浮かべて、私の顔を覗き込んだ。
 
「なに?」
 
「もしも・・・フロリア様があなたにそばにいてほしいって言ったら、どうするつもり?」
 
 妻の目は笑っている。私の返す答えがもうわかっているからだろう。
 
「丁重に断ってくるよ。それに、フロリア様が本当にそばにいてほしい相手は、私ではあり得ないと思うな。」
 
「そう?」
 
「そうだよ。今も・・・昔もね。」
 
「そうかしら。今はともかく、昔も?」
 
「そうだよ。あの時だって、フロリア様は別に私を気に入ってたわけじゃないと思うよ。」
 
 当時はただひたすらこの町から出ることばかり考えていたから気づかなかったが、よくよく考えてみると、フロリア様が私をそばに置きたがったのは、私を好きだったからでも、ましてやカインの代わりにしようと思っていたわけでもないと思う。カインの死に際を見たのは妻と私だけだ。その死の理由も、どうしてそんなことになったのかを知っているのも・・・。私がそばにいれば、いつでもカインの話が出来る。他の誰にも話せない、カインの死の本当の理由についても、口に出すことが出来る・・・。そう考えるといろいろと納得がいく。もっとも、あの時フロリア様がそこまで自覚して私を引き留めようとしたのかどうかと聞かれると、そうだと言い切れる自信はない。フロリア様自身が囚われていたことも充分考えられる。今ではその呪縛から解き放たれていることを祈りたいが・・・。
 
「もしもそれが当たっているなら、なおさら私達はここに留まらなくてよかったみたいね・・・。」
 
「うん・・・。それではフロリア様はいつまでたってもカインの影から抜け出せなくなっていたと思う。」
 
「今は抜け出せているのかしら・・・。」
 
「それを明日、探ってくる予定だよ。」
 
 妻がくすりと笑った。
 
「そうね・・・。ここからはあなたの仕事ね。・・・ねえクロービス。」
 
「ん?」
 
「・・・私ね、確かに昔はフロリア様を憎んだこともあったけど、今はもうそんな気持ちはないの。だから・・・いつまでも昔のことに囚われているのなら、そこから抜け出すお手伝いくらいはしたいと思ってるわ。」
 
「うん・・・。本当はね、明日も君と一緒に行きたいところなんだ。でも最初だけは私と2人で話さないと、フロリア様はご自分の本当の気持ちを話してはくださらないんじゃないかって・・・そんな気がするんだ・・・。だから、明日で聞きたいことは全部聞いてくるよ。あとは君と一緒に話をしに行きたいと思ってる。」
 
「・・・私が行ってもいいのかしらねぇ。」
 
「君のほうがいい話し相手になるよ。リーザもいるしね。」
 
「・・・そうね・・・。リーザともちっとも話が出来ないから、ちょうどいいのかも知れないわ。」
 
「そういえばレイナック殿はリーザも下がらせるって言ってたから、明日の夕方はリーザを誘って東翼のレストランにでも行ってきたら?ライラとイルサにはしばらく病室にいてもらえばいいよ。」
 
「あそこなら王国剣士さんの護衛もいるし、大丈夫よね。」
 
「うん。自由に出掛けられないのは窮屈だと思うけど、まだしばらくは仕方ないな・・・。」
 
「そうよねぇ・・・・かわいそうだけど。」
 
 話をしながら、妻がテーブルの上をばたばたと片付け始めた。ここが家なら、いつもの光景だ。そして私が腰を上げて一緒に台所に食器を持っていくのだが・・・・。
 
「脇に寄せておけばいいよ。そんなに丁寧にしなくても。」
 
 ここは『我が故郷亭』の一室で、今の私達は旅行者だ。
 
「あ・・・そうよね・・・。ついくせで・・・。」
 
 妻が笑いながら、ワゴンの上に皿とボトルを載せた。皿の上はふきんできれいに拭かれ、グラスも並べて置かれている。
 
「でも食べっぱなしで置くのも気が引けない・・・?」
 
「それだけ片付ければ充分だと思うな。」
 
 妻はふふっと笑って、ふきんを皿の上に置き、部屋の扉を少しだけ開けて廊下にワゴンごと出した。扉を閉めた姿勢のまま妻は動かず、程なくして鼻をすする音が聞こえてきた。
 
「・・・どうしたの・・・・?」
 
「あ、ご、ごめんなさい・・・。なんだか・・・涙が・・・」
 
 私は立ち上がり、部屋の隅で私に背を向けたままの妻に歩み寄った。
 
「ふふふ・・・なんだか、バカみたいだなって・・・。昔も、意地を張ってあなたと10日間もろくな口を聞かなかったこと、あんなに後悔したのに・・・同じことを繰り返して20年もなんて・・・ほんとに・・・バカみたいだなって・・・。」
 
「そんなことないよ。」
 
 抱き寄せて髪をなでると、あの時海鳴りの祠の浜辺で10日ぶりに妻を抱きしめた日のことがよみがえった。あの時は洞窟の入り口に何人もの先輩達が潜んでいるのに気づいて、早いところ2人きりになれる場所に移動したいな、なんてことを考えていたっけ・・・。
 
「これから取り戻せばいいじゃないか。」
 
「だって20年よ?10日分だって取り戻したなあって思えたのはだいぶ過ぎてからだったし・・・。」
 
「何年かかったっていいじゃないか。ずっと一緒なんだから。せめて早死にしないように、体を鍛えておくことでも考えようよ。」
 
「そうね・・・。ずっと・・・一緒だものね・・・。二人しておじいちゃんおばあちゃんに・・・なれるよね・・・。長生きしなきゃならないわね・・・。」
 
「君と歳をとってからのことを話せるなんて、あのころは夢にも思わなかったよ。でも今、私達はここにこうしているんだから、だから、きっと大丈夫だよ。」
 
 今さら私達を引き離そうとする誰かなんていやしない。オシニスさんだって本気だとは思えない。そして今は平和で、命の危険を感じながら日々生きていくこともない。
 
「のんびりと、取り戻していけばいいさ・・・。」
 
 
 
 
 翌日の朝・・・。
 
「今日はどうするの?昼間は別に用事はないのよね?」
 
 朝風呂ですっかりさっぱりとした顔をして、妻が尋ねた。
 
「そうだなあ・・・。まずライラの怪我の具合を診て、大丈夫そうなら一日普通の生活をさせてみようかと思ってるんだ。それで問題が出なければ、もう退院できると思うよ。」
 
「そうねぇ。よかったわ、大事にならなくて。」
 
「うん。あとはオシニスさんに昨日の話の続きも聞かないとね。」
 
「昨日の・・・?」
 
「うん、昨日オシニスさんと話して・・・あれ?」
 
「いやだ、私・・・昨日はレイナック様の話にばかり気を取られていて・・・そのほかのことなんにも聞いてないわ。ねえ、ライザーさん達は?それにオシニスさんの昨日の話って・・・。」
 
「ああ・・・そうかぁ・・・。」
 
 今の今まですっかり忘れていた。昨夜はレイナック殿の話と合わせて話すつもりだったのだが、うまいワインとデザートで心地よい酔いに包まれ、妻との間のわだかまりも解けたことで他のことがきれいに頭の中から消え去っていた。食事をしてそのまま出掛ける予定を変更し、部屋に戻って昨日の出来事を一通り妻に話して聞かせた。話し終えた頃にはもう、だいぶ陽が高くなっていた。
 
「そんなことがあったの・・・。ライザーさん達のことは・・・・何となくあなたが考えたとおりのような気がするけど、そのラエルって剣士さんのことも、ほっとけなくなっちゃったわねぇ。」
 
「うん・・・。彼なりに必死なんだと思うよ。ちょっと方向を間違えてるような気はするんだけどね。」
 
「そうねぇ・・・。でも、無理に掠おうとしたりすればどちらも傷つくことになるわ。ハディがうまくやってくれるといいわね・・・。」
 
「うん。そっちはもう任せる以外にないからね。でも気にはなるから、ライラの診察のあとオシニスさんに話を聞いてくるよ。夕方まで特にすることもなさそうだしね。」
 
「そうねぇ・・・オシニスさんも大変ね。・・・フロリア様のことばかり考えているわけにはいかないみたいね。」
 
「今はだいぶ王国剣士も増えたみたいだからね。それでも団長が1人なのは昔も今も変わらないんだから、苦労は多いだろうな・・・。」
 
「だからってあなたのことは別問題よ。」
 
「もちろんさ。さてと、出掛けよう。王宮に行っても特にすることはないけど、昨日何も言ってなかったからね、あんまり遅くなると心配されるかも知れない。それにもし祭り見物に行くなら、ちゃんと声をかけてからにしないとね。」
 
「お祭りを見に行くの?」
 
「ライラの調子が良さそうなら、4人で出掛けるのもいいかなと思って。毎日王宮の中にばかりいるのは、普通の生活とは言えないよ。外の空気を吸って、歩き回って、セーラズカフェにでも行けばだいぶ気持ちもすっきりするだろうし、ライラにとってはそれがまさに普通の生活なんじゃないのかな。」
 
「それもそうね。久しぶりにのんびりしましょうか。あなたは夕方までに王宮に戻ればいいんでしょ?」
 
「そうだよ。それじゃ行こうか。もうだいぶ陽も高いから、早く行かないとお昼に間に合わないかも知れないな。」
 
「お昼?」
 
「うん、宿舎の食堂でオシニスさんにおごってもらおうかと思って。」
 
「あ、そういえば・・・・。ふふふ・・・あのチェリルって子の腕前を見るつもり?」
 
「そう言うわけでもないけど、カインもアスランもだいぶほめてたからね。気になるじゃないか。」
 
「そうよねぇ・・・・それじゃ行きましょうか。」
 
 いつもここから出るときは鎧と剣は身につけていくのだが、今日は遅くなってしまったので鎧一式を荷物に詰め込んだ。特に必要とするわけではないので置いていこうかとも思ったが、もしもライラの調子がよければ、祭りに行く前に訓練場の片隅でも借りて、軽く手合わせしてやってもいいかもしれない。それに、これはナイト輝石の鎧だ。手元から離さない方がよさそうだ。1階のフロアに降りると、厨房の中からはもう声が聞こえている。まだ客の姿はまばらだが、昼に向けた仕込みはもう始まっているらしい。
 
「お、今日はゆっくりだな。」
 
 カウンターに出てきたラドが声をかけてきた。
 
「うん、こっちに来てからずっと忙しかったから、たまには旅行者らしくのんびりしようと思って。昨夜のワイン、おいしかったよ。つまみもね。あれはもうつまみとは言えないってウィローと話してたんだ。」
 
「へへへ・・・気に入ってもらえたなら何よりだな。俺は特にワインにうるさい方じゃないんだが、せっかく来てくれるお客さんには、手に入る最高のものを用意してやりたいからな。またいつでも頼んでくれ。うまいワインを飲ませてやるよ。」
 
「その時はまたお願いするよ。」
 
 
 外への扉を開けた。太陽がまぶしい。かなり気温も上がっている。鎧は脱いでおいて正解だったかも知れない。歩き出そうとしたとき、突然誰かが正面からぶつかった。同時に脇腹がカッと熱くなり、目の前がかすみそうな痛みが全身を走り抜けた。
 
「ぐぅ・・・・・!」
 
 思わず漏れたうめき声に、ぶつかった人影は私を見上げ、『してやったり』とばかりににやりと笑った。
 
「あなたが悪いんですよ。僕達の仲を引き裂こうなんて考えるから。」
 
「ラエル・・・・君は、自分が何をしたのか・・・わかってる・・・のか・・・!?」
 
「あなたさえいなくなればすべてうまくいくんです。だから死んでください。」
 
 ラエルの目は本気だ。狂っているわけでもなく、本当に私への殺意をみなぎらせている。
 
「クロービス?どうし・・・・きゃあ!ちょ、ちょっと!何してるのあなた!?」
 
 背後から聞こえる妻の叫び声。私の脇腹に刺さったままのダガーを持つラエルの手に力がこもった。ここで刀身を捻られれば命はない。とっさに私はラエルの手をダガーごと両手で掴んだ。
 

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