男は振り向きざま、声の主に体当たりを食わせて逃げようと突進したが、少し相手を見くびりすぎたようだ。こんな小さな体つきの男にぶつかられてひっくり返るほど、声の主セルーネさんはヤワじゃない。ぶつかった途端に男は腕をねじ上げられ、あっという間に床に組み伏せられてしまった。セルーネさんは男の顔をぐいと上に向けさせ、
「お前は何者だ?」
そう尋ねた。男は真っ青になって歯の根も合わないほど震えている。
「ふん・・・操られているだけの小者か・・・。だが、ここに侵入した罪は軽くないぞ。ましてや我が公爵家の部屋の鍵を、勝手に作って中に入り込もうとするなど言語道断だ。極刑を覚悟しておくんだな。」
「こ、こ・・・これは、その・・・その二人組が・・・。」
「ほお、この2人組がどうした?」
「そ、そい・・・つらに、わ、わた、渡され・・・て・・・。」
「なるほど、この2人組がな・・・。ふん、あきれたもんだ。私が、お前の懐から鍵が取り出されるところを見ていなかったと思うのか?」
言いながら、セルーネさんは男の腕をさらにねじ上げた。
「ひ・・・ひぃ・・・!おた、おた、お助けぇ・・・!俺は・・・俺はただ、頼まれて・・・。」
男は怯えきって涙を流している。なんだか気の毒になってきた。
「セルーネ、そのくらいにしておいてはどうだ。あなたを敵に回すとどういうことになるか、この男も身にしみてわかっただろう。」
笑いながら近づいてきたのはローランド卿だ。年相応にしわも増えたようだが、整った顔立ちは変わらない。
「そちらはどうだった?」
セルーネさんが組み伏せた男から目を離さず尋ねた。
「あなたがこの男に声をかけたところで逃げていったようだ。さすがに、ここにいたと言うだけで締め上げるわけにはいかんからな。」
「それもそうだな・・・。仕方ない。この男にはあとでじっくりと話を聞くことにしよう。おいお前、素直に話せば命は助けてやる。どうだ?」
「は、はい!話します!話しますから!」
「よし、では誰に頼まれたのかから、きっちり白状してもらうぞ。だが今じゃない。お前には牢獄の審問官のところに行ってもらう。」
「ろ、牢獄・・・・!?」
男の顔がいっそう青ざめた。
「当たり前だ。命は助けてやるが、無罪放免などするわけがなかろう。牢獄の審問官立ち会いのもと、剣士団の尋問係がお前を尋問することになる。そこで一つでも嘘をつけば、私とてお前の命は保証できん。真実を話すか?」
「は・・・はい、話します・・・。」
男の声は弱々しくなり、涙を流している。多分聞き出すならば今のうちだ。こういう人間は、一度落ち着いてしまうとまた嘘をつこうとする。
「その言葉を忘れるな。では牢獄に着くまでおとなしくしていろ。」
言うが早いかセルーネさんの手の先から大きな気の流れが放たれ、男は後ろ手をねじ上げられたままの姿勢で動けなくなった。麻痺の気功だ。これでは暴れたくても暴れようがない。
「これなら、舌も噛めないし毒も飲めんだろう。ローランド、この男を地下牢のエリオンに預けてきてくれないか。私は、この二人と再会の挨拶をしたいんだ。」
「ああ、わかった。だがこの二人と話したいのはあなただけではないぞ。私も久しぶりの再会を楽しみにしているんだ。独り占めはしないでくれよ。」
「わかったよ。ではよろしく頼む。」
「よし、クロービス殿、ウィロー殿、今度こそ本当にこの部屋の主があなた達を出迎えよう。私が戻るまで待っていてくれないか。挨拶はそれからにしよう。」
「わかりました。お待ちしています。」
「あ、ローランド、ついでにオシニスに声をかけてきてくれないか。部屋が荒らされたわけだからな。うちに実害はなかったとはいえ、届け出ないわけにはいくまい。」
「あ、それなら、オシニスさんはフロリア様の執務室ですよ。私達もさっきまでそこにいましたから。」
「ほお、そうか、わかった。では顔を出してくるとしよう。」
ローランド卿は床に転がっている男を軽々と担ぎ上げ、廊下を歩いていった。
「さて今度はお前らの番だな。」
ローランド卿の姿が見えなくなると、セルーネさんが私達に向き直った。
「何でお前らがここにいるんだ?私達が出向くとユーリクには言ってあったはずだが。」
「この中にライラがいるんですよ。私達は彼を助けに来たんです。」
「は・・・?」
「とにかく中に入れてください。そうすればわかります。」
セルーネさんがぽかんとした顔のまま、部屋の鍵を開けた。そして中に入るなり
「誰かが入り込んだな・・・。」
そうつぶやいた。この部屋は単なる『部屋』と言うより、一軒の家のようなものだ。入り口の扉は頑丈だし、リビングルーム、食堂、主寝室、来客用の寝室があり、風呂場も厨房も揃っている。玄関・・・王宮内の部屋の中で玄関と呼ぶべきかどうかはともかく、そこは間違いなくこの部屋の玄関だった。そこには何も異常は見られない。が・・・奥へと進むと、一目で荒らされたとわかるように、ものが散らばっていた。リビングルームの椅子は放り出したように転がっていたし、グラスがいくつか割られている。そして奥へと向かう扉が開け放たれていた。
「見てみろ。ここを荒らしましたよとわざわざ教えていく間抜けな泥棒ってのも、いるもんなんだな。」
セルーネさんは半分呆れたように、散らかった部屋の中を眺めていた。
「なるほど、その泥棒は自分がどこの部屋に向かったのか、私達に知ってほしかったわけですね。」
「そうだな。この奥はクローゼットだ。行くぞ。ついてこい。」
開け放たれた扉を通ると次の部屋が荒らされ、更に奥へと続く扉が開いている。二つめの扉を抜けて私達がたどり着いたのは、クローゼットだった。そこにも服が散らばり、一目で荒らされたとわかった。いや、わかるようにしてあるのだ。だがこの部屋には先へと続く扉がない。つまりここがゴールと言うことだ。そのクローゼットの床に、ライラはまるで荷物のようにおかれていた。猿ぐつわをかまされ、手足を縛られた状態で、後頭部には血がべったりとついている。
「ライラ!」
すぐに手足の縄をほどき、猿ぐつわをはずしたが返事がない。だが息はある。脈も正常だ。どうやら後ろから殴られて気絶したらしい。何とも卑怯な手口だが、正面から襲いかかってライラに勝てるのは、よほどの手練れだ。さっきの男といい、この誘拐に関わった連中の中にそれほど腕の立つ者はいなかったのだろう。おそらく彼らは、何らかの方法でライラをだまし討ちにしたのだ。
「生きてるの!?」
妻がライラの顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。とりあえずこの怪我を何とかしないと。」
慎重に傷の状態を調べた。幸い汚れや異物は付着していないようだが場所が頭なので、髪の毛が邪魔をする。仕方ないので傷の周りの髪だけを、毛先が傷に入らない程度まで短くしてから呪文を唱えてみた。何とか傷はふさがったが、心配なのは頭の中だ。念のため骨の異常も調べてみたが、今こうして調べた限りでは異常はない。だが安心は出来ない。殴られたときの衝撃がどこまで及んでいるか、もう少し詳しく調べてみる必要がある。
「とにかく寝かせよう。来客用のベッドはこっちだ。」
セルーネさんの案内で、私はライラをベッドまで運んだ。幸い手回りの荷物を詰めた鞄を提げていたので、念のため厚手のガーゼを重ねて傷口にあて、包帯を巻いておいた。そこだけ髪が短くても、これなら隠すことが出来るし傷の保護にもなる。
「しかし・・・何が何だかさっぱりわからん。何でライラがここに転がされていて、何でお前らがそれを知っていたのか、説明はしてくれるんだろうな。」
「それはもちろん説明しますが、そう言えばさっき、妙なことをおっしゃっていませんでしたか?ローランド卿に『そっちはどうだ』とか。」
「ああ、それか。おかしな手紙が屋敷に届いてな。それでローランドと二人で出張ってきたわけだったんだが・・・。」
言いかけてセルーネさんは小さくため息をついた。
「まったく・・・お前達のことを息子から聞いて、せっかくゆっくりと昔話でもしようと思っていたのに、こんな状況での再会とはな。」
「私達もそうですよ。お会いできるのを楽しみにしていたというのに、この騒ぎですからね。」
「そうだな・・・。なあクロービス、ライラの傷は心配ないのか?」
「傷のほうはもう大丈夫ですよ。ただ、自然に目を覚ますかどうか少し待ってみようと思います。このまま夕方まで目を覚まさないようだと、脳内の損傷が心配ですからね。」
「そうか・・・。簡単に気付ってわけにはいかないんだな。」
「殴られたのが頭でなければ、それでもよかったんですけどね。」
「よし・・・それでは今のうちに、お互い情報交換と行こうじゃないか。」
「そうですね。」
私達はリビングルームに場所を移し、まずは先日アスランとイルサが襲われた一件を話した。その後オシニスさんが私達にライラとイルサの護衛を頼んだこと、その直後にライラが姿を消し、足取りを追った結果執政館で消えたという事実を掴んだところから、マスターキーの調査でベルスタイン家の部屋が狙われていることを掴み、おそらくライラはそこにいるだろうとやってきたことまで隠さず伝えた。
「なるほどな・・・。そんなことがあったのか・・・。」
「セルーネさんのおっしゃってた手紙って言うのは、ここに何かあるとか言う内容だったんですか?」
「ああ、これか・・・。」
セルーネさんは内ポケットから白い封筒を取り出した。
「公爵家の部屋が何者かに狙われている、ということが書いてあった。それで二人で出掛けてきたら、誰もいないはずの廊下に何人かの気配を感じてな。それでローランドと手分けして、通路の反対側に隠れて様子をうかがっていたんだ・・・。」
さすがに人数まではわからなかったが、部屋の前に何人かの気配と、そのほかに廊下にも何者かの気配がある。ローランド卿が廊下に潜む何者かの気配を追っている間、セルーネさんが部屋の前を窺うと、なんとそこには私達がいて見知らぬ男と話をしている。しかもその男はしきりに私達を部屋に入れようとしていた。そこで踏み込んでも、男に知らぬ存ぜぬを通されたら証拠は何もない。何とかしっぽを出すまでと、飛び出したいのをぐっとこらえ、セルーネさんは隠れていたらしい。そこに男が懐から何か取り出した。遠目には何だったのかはわからなかったが、男が部屋を開けるからと扉に手をかけたとき、それが鍵だと気づいたそうだ。一方ローランド卿の追っていた気配については、さっきの彼の話から、自分があの男に声をかけたとき、企みが失敗したと思って逃げていったのだろうと言うことだった。
「もう一人いたのは気づかなかったな・・・。」
気配すら感じられなかったと思うと少し悔しい。
「このフロアの無駄な広さを考えれば仕方ないさ。ローランドも私も、最初からここに誰かがいるかも知れないと思って来ていたしな。しかもそいつがただの人ではあり得ないと、そう考えていたからこそ気づくことが出来たようなものだ。おそらくさっきの男はうちの使用人を装って、鍵を開けたあとお前達を奥まで案内し、ライラを見つけ出させるつもりだったんだろう。そして驚いて見せて部屋を飛び出し、大声で叫ぶわけだ。『ベルスタイン家の部屋に誰かが縛られている』とね。当然王国剣士達もやってくるだろう。そこにいたのがライラだと言うことがわかれば、奴がさらわれた件を調べていたオシニスが飛んでくる。おそらく、敵の狙いはその騒ぎの最中に私達が姿を現すことだったんだろうな。」
「なるほど・・・。その状況ではどうしたってセルーネさん達が疑われますからね。」
「そうだな。もしもお前達がいなければ、おそらくは王国剣士でも呼んできて、ここに何者かが入っていったようだとか、誰かが連れてこられたとか言って鍵を開けさせる予定だったのかも知れん。」
「ということは、彼らにとって私達は、絶好の獲物となるはずだったわけですね。わざわざ誰かをおびき寄せなくとも、こちらから飛び込んでいったわけですから。」
「はっはっは。そういうことになるな。だが、敵は人選を間違えたようだ。まさかお前達が自分達の企みを察知していたとは、夢にも思わなかっただろう。・・・何とか敵の企みを未然に防げてよかったよ。お前には親子共々世話になりっぱなしだな。」
「とんでもない、今だってセルーネさんが来てくださったから何とかなりましたけど、いつまでもあの男と押し問答をしていたらどうなっていたかわかりませんよ。それに、ユーリクとクリスティーナに助けられたのは私のほうです。あの人混みの中を、アスランを少しでも早く王宮に送り届けるために先導してくれたんですからね。」
「そうらしいな・・・。その功績は認めてやらんでもないんだが・・・。子供達から聞いたかどうかわからんが、あいつら護衛のじいやを人混みの中に置き去りにして逃げ出したんだ。おかげでそのころ我が家ではじいやが、子供達を見失ったのは自分のせいだから、腹かっきってお詫びすると大泣きしてたんだよ。あとになって子供達が悪いことをするために自分をまいたわけではなく、それどころか人助けをしたと聞いて、今度はうれし泣きされてなぁ・・・。いやはや参ったよ・・・。」
「いい方なんですね。」
「頭は堅いがな。おかげで子供達からは、いささか煙たがられている。」
セルーネさんは大げさに肩をすくめてみせた。
「大人の言うことは、子供にとってはいつだってうるさいんですよ。そして自分が大人になって初めて、その言葉の意味がわかる・・・。そんなものでしょう。」
「ははは、確かにそうだな・・・。」
その時遠くでガチャリと音がした。
「来たようだな。」
セルーネさんが音のした方をちらりと見ながら言った。入り口の扉が開いた音のようだ。やがて早足の足音と、少し遅れて普通の早さの足音が響き、扉をたたき割りそうなほどの大きなノックのあと、返事も待たずに扉が開いた。
「ライラはどこです!?」
真っ青な顔のオシニスさんは、入るなりそう叫んで辺りを見回した。
「相変わらずせっかちな奴だ。ライラは来客用の寝室に寝かせてるよ。怪我をしてたがクロービスが治してくれた。」
セルーネさんはオシニスさんを見上げ、呆れたように言った。
「そ、そうですか・・・。」
オシニスさんは張りつめた糸が切れたようにほぉっと大きなため息をついた。
「よかった・・・。あいつに何かあったらと、そればかり気がかりで・・・。」
「そんなに心配ばかりしてると老けるぞ。ほら来い。こっちだ。」
セルーネさんはいたわるような視線をオシニスさんに向け、立ち上がって寝室に案内してくれた。ベッドを覗き込むと、何とライラが目を覚ましていた。驚いたような顔できょろきょろと辺りを見回している。
「気がついたかい?」
「先生・・・。ここどこ・・・?」
「王宮内にあるうちの部屋だ。誰かがお前をここに連れてきたのさ。縛り上げて、ご丁寧に猿ぐつわまでかませてな。」
セルーネさんが答える。
「・・・公爵様の・・・・。」
「そうだよ。後頭部に傷があったけど、それは治しておいた。少し髪の毛を切らせてもらったけどね。ほかにどこか痛いところはないか?気持ち悪いとか。」
「んー・・・別にないよ。起きていい?」
「自分で起きられるかい?」
「うん、大丈夫。」
ライラはゆっくりとベッドに起きあがった。
「手は動くか?足とか、感覚のないところはないか?」
「うーん・・・・。」
ライラは考え込みながら、手を握ったり開いたり、肩や腕を回したりしていた。足もベッドの中でばたばたとしばらく動かしていたが
「大丈夫。・・・先生、おばさん、ごめんなさい・・・。迷惑かけちゃった・・・。公爵様、ローランド卿、団長さんにまでご心配かけてすみませんでした。」
ベッドの上で、ライラがみんなに向かって頭を下げた。
「君のせいじゃないよ。王宮の中だと言うだけで安心して、君を一人にしてしまった私が悪いんだ。せっかく護衛を引き受けたのに、役に立たなくてすまないね。」
「そんなことないよ。僕も油断してたんだ。」
「とにかく一度医師会の診療所に行こう。君は後頭部を殴られたんだ。もう少し詳しく診てみないとね。」
セルーネさん夫婦と共に私達は診療所へと向かった。診療所で詳しく診てみたが、ライラの頭の傷は問題なく、念のため一日程度は安静にしているようにと言っておいた。公爵家の部屋への不法侵入未遂については、執政館勤務の王国剣士達に現場検証をしてもらい、あとは公爵家の私兵を配置しておくことになった。この日のうちに王宮内に部屋を持つ貴族や大臣達すべてに通達が出され、それぞれの部屋の管理を徹底することと、無人の日でも警備を配置しておくことが定められた。
「はぁ・・・一安心だが、しかし腹の立つ話だ・・・!」
オシニスさんの怒りはまだ収まらないようだ。無理もない。剣士団長の鼻先でライラは掠われたのだ。こちらを挑発するかのようなその行動に、彼のはらわたが煮えくりかえっていることは想像に難くない。
「まあ落ち着け。お前に対する挑発という意味合いもあったと思うぞ。まんまと乗らなかったのは、クロービス達がいてくれたおかげだな。」
「・・・否定はしませんよ。情けない話ですが、俺は相当頭に血が上ってた。こいつが冷静に状況分析してくれなかったら、敵の思うつぼにはまってた可能性は充分にありますからね。」
ライラを診療所に残し、私達は剣士団長室に来ていた。妻とイルサは心配だからとライラについていることにした。診療所が安全だとは言い切れないので、王国剣士達が何人か警備のために配置された。ライラの部屋は二人部屋で、隣にはアスランが入ることになっている。元々アスランが最初に運び込まれた部屋は大部屋だったのだが、彼の治療のために大勢の人の出入りがあったことを考えれば、結果的にはよかったことになる。だが今ではアスランはすっかり回復し、これからの治療はリハビリと食事で体力をつけていくことだ。今までのような多人数の医師による経過観察や記録の作成も、そろそろ必要なくなってくる。そこで今までより小さな部屋に移ってもらうのはどうかと、さっき尋ねられたばかりだ。問題はないだろうと返事をしておいた。ライラと同室になることで、イルサとセーラが顔を合わせる機会が増えることをハインツ先生は心配してくれたが、患者の身内の個人的なことまで診療所が面倒を見るわけにもいかないし、ほんの何日かのことだ。気にしないでくださいと、付け加えておいた。
「ふふふ・・・やはりお前には、手綱を引いてくれる誰かが必要だと言うことだな。本来ならそれは副団長の役目なんだが、ハリーはいま南地方か?」
セルーネさんがお茶を飲みながらオシニスさんに尋ねた。
「ええ、祭りだって言うのに何で城下町を離れなきゃいけないんだと、2人してぶつぶつ言ってましたよ。」
「ははは、あいつらしいな。」
「ハリーさん達はこっちにいなかったんですね・・・。残念だな・・・。」
せっかくだからみんなに会いたかったのだが・・・。
「西側の巡回だから、祭りが終わる少し前には戻ってくる予定だ。そのころまでお前らがいれば会えるだろう。」
「う〜ん・・・カナにも行かなきゃならないから、いつまでいられるかは何とも・・・。」
「そう言わずにゆっくりしていけよ。20年ぶりだぞ?全くちっとも出てきやしないで、やっと顔を出したと思ったらいつ帰ろうかなんて、つれない奴だな、お前も。」
セルーネさんが言いながら少し怒ったような顔になった。
「まあまあ、そう責めたら彼が気の毒だ。島に帰れば彼を待っている患者はたくさんいるのだろう。医師が患者を放りっぱなしにして何とも思わないことの方が、問題だと思うぞ。」
「それはそうだがな・・・。」
ローランド卿の助け船で少しほっとした。この人の誠実さは変わらない。さっきライラの病室でも、ローランド卿は妻に丁寧に挨拶してくれた。
『お初にお目にかかる。ベルスタイン公爵の夫、ローランドです。あなたのご主人とは何度かお会いしたのだが、あなたにこうしてお会いするのは初めてですね。』
妻はいささか複雑な面持ちではあったが、いつも初対面の人にするように、ごく普通に挨拶をしていた。妻としては昔のことでわだかまりはあるものの、今この人はセルーネさんの夫であり、二人の子供にも恵まれてとても幸せそうに見える。20年も昔のことで、セルーネさんとのせっかくの再会まで台無しにする気はないのだろうと思う。妻が病室に残ると言い出したのが、イルサとライラの護衛のためなのか、ローランド卿と話すのが気が進まないのかはよくわからないが、ローランド卿のほうは残念だったようだ。『初対面』はひどい状況でのものだったが、彼としてはその忌まわしい出来事を払拭して私達と交流したいと考えているらしい。
「いつまでいるかは確約できませんが、アスランのこともありますし、ライラとイルサの身の安全も今のところ確保できていない状態ですからね、すぐに町を出る気はありません。」
「そうだな・・・。俺としては、お前らにあの二人を守ってもらえるとありがたい。一番安心して任せられるよ。」
「それについては異存はありません。でも、守る一方ではらちがあかないと思います。『攻め』については何か策はないんですか?」
「・・・・・・。」
一瞬部屋の中が静まりかえった。これで確信が持てた。オシニスさんも、セルーネさんもローランド卿も、みんな敵の正体はちゃんとわかっているのだ。
「・・・やはり皆さん、敵の正体をご存じのようですね。」
「お前だってある程度は推測がついてるんじゃないのか。」
隣に座っているオシニスさんが私を横目で見ながら言った。
「確かに・・・。おいそれと手を出せる相手ではありませんから、慎重にならざるを得ないと思いますが・・・。」
「上下関係というならフロリア様が一番上なのは間違いない。だが・・・証拠もなしに攻めれば、フロリア様のほうが国民に悪く言われることになる。それを考えると迂闊に手は出せない。奴はそれを知っているから、証拠が残らないような方法でいろいろと仕掛けてくるのさ。」
「でもあの方だって、ナイト輝石の採掘再開に賛成しているのでしょう?」
「表向きはな。」
「でも仮に裏で糸を引いているのがあの方だとして、採掘再開の邪魔をする目的は何なんでしょう。」
「痛いところをつきやがる。それがわかったら、今頃とっくに奴をとっ捕まえるための証拠固めをしているさ。」
「つまり、現時点ではライラとイルサを守る以外に有効な防衛策はないということですね。」
「情けない話だがそう言うことだ。」
「なるほど・・・ではその話は少しおいておきましょう。少し皆さんにお聞きしたいことがあるんですが。」
「皆さんというと私達もか?」
セルーネさんが尋ねる。
「はい。」
私はずっとオシニスさんに尋ねようと思っていた、薬草の価格高騰についての話を出してみた。アスランの治療をしているとき、普段使いにしていた薬草の価格が高騰し、今までのようにふんだんに使えるかどうか何とも言えないと医師会の医師が言っていた。その時オシニスさんが、その件は剣士団でも調べている最中だと答えていたはずだ。セルーネさんにしたって、ベルスタイン家の所領は北大陸と南大陸の西側の海域に点在する離島群だが、気候が温暖で作物がよくとれ、薬草の栽培も盛んな地域だ。そんなに珍しい種類の薬草はないのだが、品質がよく、あの地域で採れる薬草は私も重宝している。
「その件か・・・。全く以て奇妙な話なんだよな・・・。」
セルーネさんが腕を組んで考え込んだ。
「奇妙?」
「ああそうだ。産地から出荷される時点では、正常な値段で出荷されている。なのに城下町に流通する頃には値段が上がってるんだ。そう言えば誰だって仲買人を疑うもんだが、そいつらも知らぬ存ぜぬだ。」
「本当に知らないんでしょうか?」
「バカを言え。自分達が扱っている商品の価格が暴騰してるってのに、その原因がわからないなんて間抜けに仲買人は務まらん。奴らが知らないわけはない、それはわかってるんだ。だが仲買人てのは産地によって縄張りがあるらしくてな、価格が高騰しているそれぞれの薬草に関わっている仲買人がみんな違うんだよ。どこかに、そいつらを束ねて値段をつり上げ、上前をはねている奴がいるはずなんだが、そいつのしっぽがつかめないのさ。こちらもかなり巧妙な手口らしくてな。実際、うちの領地でも困っているのさ。こちらには何一つやましいことがないのに、小売業者からは値段が高くなっったと文句を言われるわけだからな。」
確かに領主としては頭の痛い問題だろう。
「つまりその仲買人達が、口裏を合わせることでみんなが利益を受けていると言うことですね。」
「そういうことだ。その結束に亀裂を入れることが出来れば、そこから突破口が拓けると思うんだがな・・・。いまは地道に聞き込みをしているところさ。」
オシニスさんの口ぶりからは、その聞き込みも大した成果は上がってないという印象を受けた。と言うことは、今城下町で薬草を買おうと思ったら、みんなその値段で買うしかないと言うことになる。仲買人が手を組んで価格をつり上げているのでは、一般の客は手の出しようがない。だが、以前の2倍までいくかいかないかと言うくらい上がっているというのに、国民のほとんどがこの値上がりに対してそんなに騒いでないということだった。
「どういうことです?」
「お前が昔こっちにいた頃は、何をおいてもモンスターから身を守るのが最優先事項だったから、薬だってどこの家にも必ず常備されていた。だが、今は全く状況が違う。モンスターと呼ばれる獰猛なけものはみんなすっかりおとなしくなり、今までモンスター対策にあてていた予算を他に回せるようになったことで、この国は着実に発展してきた。人々の生活も変わった。お前だってここ何日か城下町にいるんだからわかると思うが、町の外に出るのに、気軽に丸腰で出て行けるわけだ。国民の間からは、城壁を壊して町をもっと広げてはどうかという声まで上がっている。町と町の人や物の行き来が盛んになったことで、経済も活性化してきている。当然ながら、一般庶民の懐具合も暖かくなっているのさ。彼らにとって20年前は命の綱だった薬草も、今では『念のためおいておく』程度のものだ。値段が高くなったところで、それほど気にしないってわけさ。だいたい、今値上がりしているのは元々安価な薬草ばかりだというせいもあるしな。」
オシニスさんがため息をつきながら答えた。
「なるほど・・・。」
確かに、どんなに安価な薬草でもそれが値上がりして困るのは、医者と小売業者くらいなものかも知れない。国民の危機感は薄そうだ。その国民を守るために剣士団は必死で調査しているというのに、当人達には守られているという実感はないらしい。オシニスさんがため息をつくのもわかる。
「では皆さんにもう一つお聞きしますが、今の時点で、以前と同じ値段で薬草を売る商人がいたとしたら、どう思われます?」
「なんだと?そんな奴がいるのか!?」
オシニスさんが身を乗り出した。
「いるかどうかではなく、もしもいたら皆さんはどう思うか、です。」
「ふむ・・・素直に考えれば、このご時世にずいぶんと奇特な人物だと思うところだが・・・ほとんどの場合、裏があると考えるべきだろうな。安いからと買い続けていたらある日突然3倍くらいに値上がりするとか、安く売ってやる代わりに、相手に何か無理難題を押しつけるとか、いずれにせよ、単純に喜んでいられないことだと思うが。クロービス殿、そう言った商人に心当たりがおありなのか?」
フローラから謎の商人の話を聞いたとき、私もローランド卿と同じことを考えた。そしておそらくは、シャロンが無理難題を押しつけられている・・・。その可能性が高い。
「ないこともないのですが、実のところ私も正体はさっぱりわかりません。雲を掴むような話なので、皆さんにお話しするほどのことかどうか・・・。」
「いや、どんな手がかりでもほしい。そいつは何者だ?どこかの卸商に所属しているのか?」
オシニスさんの目は期待に満ちている。
「私自身は会ったこともありませんよ。話として聞いただけです。教えてくれた人に迷惑がかかるのは困りますからね。」
「それはそうだが・・・。」
オシニスさんは少し考え込んでいたが、はっとして顔を上げた。
「あの雑貨屋か・・・?」
「そんなところです。」
「あの店では薬草をいくらで売っている?」
「以前と同じ値段ですよ。あちこちで薬草が値上がりしていると聞いていたので試しに買い物をしてみたんですが、あまりに安いのでサービスはしなくていいと何度も言ったんですけどね。うちではこれが正規の値段だと言われました。」
「品質はどうだ?」
「いいものでしたよ。もともと、うちの島で栽培したもののようでしたね。出所のよくわからない粗悪品でないことだけは確かです。」
もっとも、いくら安くてもそんな粗悪品だったら、シャロンは仕入れようとはしないだろう。あの娘はセディンさんの開いた店を守るために必死でがんばっている。粗悪品を売って店の評判を落とすようなことをするはずがない。
「そうか・・・。今価格が高騰している薬草の半分は、お前の島で栽培されているものだったな・・・。」
「ええ、ライザーさんのおかげで、今では薬草栽培は島の重要産業の一つですよ。」
「『薬草園の旦那』か。」
オシニスさんがにやりと笑った。
「ははは、そう呼ばれているようですね。」
「最初に聞いたときはどんな親父なのかと思っていたが、まさかライザーの奴だったとはなあ。」
ライザーさんの話になると、オシニスさんはうれしそうだ。
「・・・ま、ライザーだからと言うわけではなく、お前の島から適正価格で出荷されていることは調査済みだ。だが、城下町に来た時点では倍近い値段が付けられていることも確認している。それを今までと同じ値段で卸してくれると言うことは、その商人には何かあると思っていいだろうな。」
「あの店は剣士団の出入り業者だ。おいオシニス、出入り業者は収支報告書と取引先の一覧を王宮に提出することになっているはずだな?」
セルーネさんが尋ねる。
「なっていますけど、1年に1回ですよ。前回は半年ほど前でしたから、そのあと取引先が変わったからと届け出れば特に問題は起きませんからね。クロービス、その商人とのつきあいってのがどのくらい前からなのかは聞いていないか?」
フローラが家に遊びに来たときは、2ヶ月ほど前からだと言っていた。となるとそろそろ3ヶ月も過ぎるころだろうか。
「3ヶ月くらい前だと言ってましたよ。」
「その前はどうだ?取引のある相手だったのか?」
「そこまで詳しく聞いたわけではないですが、最初はお客だったようです。途中から薬草を安く卸してくれるようになったという話なので、おそらくその商人とつきあい始めたのも3ヶ月くらい前の話だと思いますよ。でもいつから薬草を卸してくれるようになったのかまでは聞いていませんね。私が聞いたのも、あんまり薬草代が安いんで本当に大丈夫なのかと聞いたときに教えてくれただけですから。そんなにつっこんだ話は聞けませんよ。」
この間フローラは確かにそう言っていた。大口の客として恩を売って無理難題を押しつける・・・。それが相手の手口なら、なぜ薬草を安く卸してくれるようになったのだろう。もしやその見返りとして、シャロンにさらなる無理難題が押しつけられているのだろうか・・・。
「そうか・・・。うーん・・・それだけでは事情を聞きに行くわけにもいかないなあ。安くていいものを仕入れるためにいい仲買人を捜すのは店として努力してるってことだし、それでいいものを安く仕入れて良心的な値段で売っているとなれば、ほめられこそすれ咎めだてされるいわれはない。不正経理でも行われているようならまた別だが、あの店は家族だけでやっている店だからな、店の上前をはねたところでなんの意味もないだろう。」
「つまり、今の時点でその商人の居場所を聞き出して、しょっ引くようなことは出来ないわけか。」
「そりゃそうですよ。売っている商品が粗悪品だとでも言うのなら詐欺ってこともありますが、全く以て普通の商品のようですしね。うーん・・・しかし気になることは気になるな。」
「そうだなあ・・・。引っ張ってきて話を聞くのが一番手っ取り早いんだが、さすがにそうもいかんか・・・。」
セルーネさんもオシニスさんも、かなりその『商人』に興味を持ったようだ。
「もしも聞けるようならもう少し聞いておきますよ。まあ、怪しまれない程度にとなると、たいしたことは聞けないかも知れませんが。」
「いや、頼む。今のところそれが唯一『他と違う』手がかりだ。だが俺もセルーネさんも立場上手が出せん。」
「ええ、気をつけておきますよ。」
「では私も顔を出してみるかな。」
考え込んでいたローランド卿が言った。
「行ったことがあったか?」
セルーネさんが尋ねる。
「いや、行ったことはないが、町の中で店を構えていれば一見の客とてたくさん訪れるだろう。今の時期ならなおさらだ。たまたま通りかかって店をのぞいたとしても特に怪しまれることはないと思うが。少なくとも、あなたが行くよりは目立たないと思うぞ。」
ローランド卿はくすくすと笑った。
「はあ・・・それは否定出来ん。ローランド、あなたに任せるよ。クロービスは顔見知りだし、私も昔はよく買い物をしたから、顔を憶えられているだろう。素知らぬふりでしつこく聞き出すくらいのことは、あなたならお手の物だ。」
今度はセルーネさんが笑い出した。
「ははは、まあ任せてくれ。そのうちふらりと顔を出してみよう。」
結局、この話については今後の調査待ちと言うことになった。今まではその調査も手詰まり状態だったらしいが、私の話を何とか突破口にしたいらしく、オシニスさんはフロリア様と相談して策を練りたいと執政館に戻っていった。セルーネさん達も先ほどの騒動の後始末のために一度執政館の部屋に戻り、報告を聞くからということだった。私は診療所に行ってみた。診療所の入り口と廊下、それにライラの病室の入り口に王国剣士が立っている。これならそうそう賊も入り込めないだろう。
ライラはすっかり回復しており、イルサと妻と話をしているところだった。隣のベッドは明日アスランを移すための準備が出来上がっていた。まっさらのシーツや布団ですっかりベッドメイキングもすんでおり、あとはもう患者を寝かせるだけとなっていた。
「ライラ、具合はどうだい?」
「もう何ともないよ。ただ寝て食べているだけでは体がなまりそうでいやだな・・・。」
「君は若いんだから、なまったってすぐに取り戻せるさ。先生くらいになると、そう簡単にはいかないんだけどね。」
「先生だっていつも鍛えてるじゃないか。あーあ・・・本当は訓練場を借りて素振りくらいはしたいんだけど・・・僕があそこに顔を出すと、また手合わせしてくれなんて言われそうで行けないんだ・・・。」
「夜ならそんなに人はいないし、誰かに一緒にいてもらえばいいんじゃないのかい?」
「うーん・・・でも僕一人のために誰かの手を煩わせるわけにもいかないしね・・・。」
ライラが狙われたりしていなければ、城壁の外に出て人通りの少ない場所で手合わせをしてやってもいいのだが・・・。わざわざ危険を呼び込むようなことをすることは出来ない。
「ま、元気になったらまた考えよう。それより、傷口をみせてくれ。」
ライラの後頭部はきれいになっている。が・・・傷のあった場所が少し熱を持っていた。やはり殴られた衝撃によるものか・・・。ある程度の発熱は予測していた。どうやらライラには、あと何日かはここに入院してもらうことになりそうだ。
「え・・・?明日退院出来ないの?」
本人はきょとんとしている。
「殴られた場所が熱を持っているんだ。表面の傷は治ったし、内部の損傷もないと思うけど、殴られてから治療出来るまで時間が過ぎていたからね。しばらく経過観察が必要だな。今は大事なときだから、少しのことでも甘く見ちゃいけないよ。向こうに戻ったらまた忙しくなるんだろう?ロイはたぶん、祭り見物でもしてリラックスできるようにと気を使ってくれたんだろうから、向こうに戻るときには万全の体制で戻らないとね。」
「はい・・・。」
ライラはため息と共にうなずいた。かわいそうだが仕方がない。
「それより、襲われたときの話を聞きに誰か来たかい?」
「それは明日だって。でもそんなに長い話じゃないから、今日でもいいんだけどな・・・。」
「長い話じゃない?」
「そうだよ。だって僕は団長さんに言われて、先生を呼びに行くために執政館の廊下を歩いていたんだ。そうしたら奥の階段に向かう曲がり角のところに誰かがうずくまっていてね、具合でも悪いのかなって思ったから屈んで声をかけた瞬間、がつんとやられたんだよ。あとは全然憶えてないんだ。だからわざわざ明日聞きにこられても、そんなに話すことがないよ。」
「なるほどね。聞いてみれば確かに長い話になりようがないな。そのうずくまっていたのが、男だったか女だったかなんてはわからないかな。」
「わからなかったなあ・・・。たぶん茶色っぽい服を着ていたと思うんだけど・・・。」
この間の男の服も茶色と言えば確かにそう見えそうな色だったが、果たして『もう一人』のほうがどんな服を着ていたのかまではわからない。
「まあ、今日はゆっくり休んで、体と頭を休めたほうがいいな。先生はアスランのところにも顔を出してくるから、静かにしているんだよ。」
「大丈夫、ちゃんと寝てるよ。子供じゃないんだから。」
ライラが笑った。確かにそうだ。ライラは17歳という若さで単身南大陸に渡り、今では国家的プロジェクトとなったナイト輝石の採掘再開の提唱者であり、ハース鉱山全体の地盤などを調査する地質学者でもある。でも私にとっては今でも、生まれたときから見知っていて、我が子同然にかわいがってきた『子供達』の一人なのだ。
「私がいるから大丈夫よ。行ってきたら?」
妻もそう言ってくれたので、後を任せて私は部屋の外に出た。廊下に立っている王国剣士達はシャキッと背筋を伸ばしたまま、不審な物音一つ聞き漏らすまいとしているかのようにあたりに気を配っているのがわかる。
「ご苦労様。変わったことはなかったかい?」
「今のところ何もありません。ずっと何事もないことを祈りたいですね。」
剣士達は笑顔でそう言った。全く同感だ。これ以上『不測の事態』なんて起きてほしくない。
「そうだね、ではよろしく頼むよ。」
「はい。お任せください。蟻一匹入れやしませんから。」
アスランの部屋では、もう片付けがある程度始まっていた。今まで何人もの医師が常時経過を見ていたために、結構な数の椅子やテーブルが運び込まれていた。それを元の場所に戻そうとたたんでいるところだった。アスランはと言えば、両手を布団からだし、手を握ったり開いたりしている。おそらくは、自分で食事くらい出来るようになりたいと考えてのことだろう。
「具合はどうだい?どこか痛いとか、何となくぼんやりするとか、どんなことでもいいからちゃんと教えてくれるかい?」
「あ、先生。特にないです。なんだか体がなまっちゃってて・・・。手ぐらいは動かしてもいいですよね?」
「特に問題はないけど、汗をかくほどむきになるのは感心しないな。焦ってはいけない。無理をせず、着実に積み重ねていくことが、結局は回復の一番の近道だよ。」
「・・・・・・・・・・・。」
突然アスランが黙り込んだ。
「どうしたんだい?」
「いえ・・・訓練場にいるハディさんに同じことを言われたなと思って・・・。めったやたらに剣を振り回して無理をするより、地道に基礎から固めていくのが、結局は上達の一番の近道だって・・・。」
「そうか・・・。無理して突っ走ってもいい結果は得られないからね。ハディはたぶん、一番そのことをわかっているんだろうな。」
ハディに突然立合を申し込まれたことも、今となってはいい思い出だ。
「あれ?・・・ああ、そうか・・・。先生はハディさんとも知り合いなんですね。」
「同期だったからね。」
「え?そうなんですか!?」
「そうだよ。ハディとリーザと私と・・・もう一人は昔亡くなってしまったけどね・・・。その4人だけだったな・・・。」
「その人の話はよく聞かされました。団長みたいなタイプの剣士だったそうですね。」
「そうだね・・・。」
「カインの名前はその人からもらったって言うのは、本当なんですか?」
「そうだよ。残念ながら今の我が息子は、当時私の相方だったカインには遠く及ばないんだけどね。」
「がんばればいずれ超えられるってハディさんは言ってたけど、それは俺達を励ますためで、本当は全然届かないんでしょうか・・・。」
「そんなことはないよ。いずれ超えられるさ。君達はこれからなんだ。だからこそ、無理をしないでがんばってほしいと思うんだよ。」
「はい。わかりました。」
アスランが笑顔でうなずいた。
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