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第54章 忍び寄る闇

 
 病室の前に誰かいる。近づいてみるとそれは、ユーリクと息子のカインだった。息子の様子は特に取り乱しているようには見受けられない。ユーリクがうまく落ち着かせてくれたのだろうか。
 
「中に入らないのか。」
 
「父さん・・・。」
 
 振り向いた息子の顔は、それこそアスランよりも遙かに青ざめて、まるで死人のようだった。親友の危機に、息子がどれほどの衝撃を受けたかと思うと、我が事のように胸が痛む。
 
「あ、先生、カインさんが落ち着かれたようなのでお連れしたんですが・・・中に入っても大丈夫なんでしょうか。」
 
 ユーリクも少し不安げだ。二人とも病室の中の状況がわからないために、足を踏み入れるのをためらっているらしい。
 
「アスランは・・・?」
 
 カインは、泣くのをやっとの事でこらえている顔でそう尋ねた。
 
「大丈夫だよ。」
 
「助かったの・・・?」
 
「一応はね。」
 
「一応はって・・・そんな言い方しないでよ。助かったなら助かったって、もう大丈夫だって、ちゃんと言ってよ!」
 
「大声を出すな。とにかく中に入りなさい。アスランの容態についてちゃんと説明するから。ユーリク、ご苦労だったね。君も一緒に入ってくれないか。」
 
 言ってしまってからふと考えた。ユーリクもクリスティーナも公爵家の子供達だ。やはりここはもっと丁寧に接するべきなのだろうか。だが、突然態度を変えたりしたらかえって驚かれる。
 
(気にしないでおくか・・・・。)
 
 少なくとも二人の私に対する態度は、ごく普通に子供が大人に接するときの態度だ。変に気を使わないほうがいいのかも知れない。そんなことを考えながら扉を開けると、妻とイルサがいない。
 
「おお、クロービス、ウィローの顔色があまりよくなかったものでな、空いている病室で休んでもろうておる。イルサがついていてくれるそうじゃから、心配いらんだろう。」
 
 イルサが座っていた場所にはレイナック殿が座っていた。アスランの意識はまだ戻らないようだが、もう全くと言っていいほど普通の病人と変わらない。少なくとも見た目は、だが・・・・。
 
「そうですか・・・。」
 
 やはり疲れたのだろう。蘇生の呪文なんてそうそう使うものじゃないし、一刻を争う場合がほとんどなので時間をかけて下準備と言うことが出来ない。短時間のうちに出来る限りの気を集めて大きな流れを作るというのは、体験した者でなければ理解しようがないほど苦しい作業なのだ。すぐにでも妻の元へ駆けつけたかったが、今の私には医師としてやらねばならないことがある。それを放り出してしまっては、かえって妻にしかられて病室を追い出されるのが落ちだ。イルサもついてくれているし、ここはこらえるしかない。
 
「イルサ・・・?」
 
 カインが不思議そうに聞き返した。
 
「ユーリクから聞かなんだのか?アスランはイルサと一緒にいるところを襲われたんじゃよ。一時はだめかと思うたが、剣士団長と医師会と、それになんと言ってもお前の両親のおかげで無事生還を果たしたのじゃ。よぉく礼を言わねばならんぞ。」
 
 レイナック殿が優しい目で息子を見つめながら言った。
 
「時にクロービス、オシニスの奴はおとなしく部屋に戻ったか?」
 
「はい。もう鎧もはずしてベッドに潜り込んでいましたから、立ち入り禁止の札を下げてきましたよ。」
 
「ふぉっふぉっふぉっ、上出来じゃ。ま、あいつのことだから、お前が出ていったあと起きあがろうとしたかも知れぬが、今頃はベッドの上でわしに向かって悪態をついているところだろうよ。」
 
 さっきオシニスさんにかけた呪文は、どうも単純な回復の呪文ではなかったらしい。
 
「父さん、イルサって、あのイルサ?」
 
 息子がもどかしそうに尋ねた。
 
「そうだよ。お前の幼なじみで、ライラの妹のイルサだよ。」
 
「あ、す、すみません。イルサさんとおっしゃいましたか。お名前までは存じ上げませんでしたので・・・。」
 
 ユーリクがしまったといった顔で頭を下げた。
 
「な・・・なんで・・・なんでイルサ?それじゃアスランの彼女って・・・。」
 
「彼女かどうかは知らないが、今日の祭り見物は二人で出掛けてたらしいよ。」
 
「・・・・・・・。」
 
 息子はぽかんと口を開けていたが、やがてがっくりと肩を落とした。
 
「そうか・・・。だから言わなかったのか・・・。友達だから紹介できないって・・・そりゃ出来ないよな・・・僕があんなこと言ったあとじゃ・・・。」
 
 息子がにじみ出た涙をぬぐった。
 
「何を言ったんだ。」
 
「イルサのこと、アスランに話したことがあるんだ。ずっと前にライラに会ったとき、ライラに双子の妹がいるってことと、その・・・その子が僕のことを・・・。」
 
 カインの声が消え入りそうに小さくなった。なるほど、イルサが自分を好きだったことをアスランに話してしまったらしい。どういう経緯でアスランとイルサが知り合ったのかは知らないが、アスランはおそらく、カインを好きだったという女の子がイルサだと気づいたんだろう。
 
「そのあたりのことについては、アスランが目を覚ましてから聞いてみるんだな。・・・聞ける状態になれば、だけどね。」
 
 こんな言い方はしたくないが、今の時点では確実に目を覚ますとも元通りになるとも言えない。
 
「でも助かったんだよね?どう見たって眠っているだけみたいだし・・・。ねえ父さん、アスランはすぐに目を覚ますよね?起きたらまた前みたいに一緒に仕事できるんだよね?」
 
「その質問についての返事をする前に、父さんの話を聞きなさい。」
 
「だって・・だって・・・!昼間は元気だったんだ!仕事が終わって、部屋で着替える時もすごくうれしそうで、それぞれ出掛ける相手を迎えに行くからじゃあなって、王宮の玄関で別れたときは元気だったんだ!なのに目を覚まさないなんてそんなことが・・・!」
 
 息子の目に一気に涙があふれ、そのまま崩れ落ちるように床に座り込んで泣き出した。その姿があまりにも痛々しくて、私はしゃがみ込んで息子の肩をしっかりと抱きしめた。
 
「ご・・・ごめんなさい・・・。ユーリクに言われて、落ち着かなくちゃって思ってたのに、アスランの顔見たら・・・。」
 
「謝ることはないよ。お前の気持ちはわかるつもりだ。」
 
 息子の肩を優しく叩きながら、その姿に昔の自分の姿が重なる。
 
「アスランの命は、助かった。これは間違いないと思っていいよ。ただ、目を覚ますかどうか、覚ましたとして元に戻れるかどうかは何とも言えないんだ。」
 
「・・・・・・・・・・・・。」
 
 息子がまだ島にいたとき、崖から転落したという患者を蘇生の呪文で助けたことがある。その患者はかろうじて命を取り戻すことは出来たものの、落ちてからだいぶ過ぎていたらしく、目が覚めてからも家族の顔すら思い出すことが出来なかった。そのことを息子は覚えていたのだろうか。ただ黙って、私の話を聞いていた。時折しゃくり上げて肩が震える。私は今のアスランがどんな状態なのかを、一つも隠さずにきちんと話した。その間に少しずつ息子の肩の震えは止まり、話し終わった頃には立ち上がって涙をぬぐっていた。
 
「・・・僕、看病するよ。アスランが少しでも早く元に戻れるように。」
 
「そうだな・・・。ただ、長くなるようなら家に一度帰した方がいいかもしれないよ。親御さんも心配するだろうからね。」
 
「さっきランドさんに報告したので、そのあたりの手配はされていると思います。」
 
 ユーリクが答えた。その時扉がノックされ、まるでタイミングを計ったかのように現れたのは当のランドさんだった。
 
「久しぶりだな、クロービス。」
 
「ごぶさたしています。ランドさんはお変わりないようですね。」
 
「まあ、自分でもそれほど見た目が変わっているとは思わないが、俺も歳をとったよ。まだ頭の上は涼しくなっていないが、しわは増えたな。それに、ちょっと油断すると腹が出る。」
 
 ランドさんは自分の腹のあたりをぽんぽんと叩いて見せ、くすりと笑った。
 
「ははは、それは仕方ありませんね。そういう年齢ですから。」
 
「まったくだ。さて、ユーリクから話は聞いた。アスランの容態はどうだ?助かる見込みはあるのか?」
 
 ランドさんは一見冷静そのものに見える。だが、私にはわかる。この人がアスランの家族への連絡や、手続きだけで今まで時間を費やしていたとは思えない。アスランとイルサが襲われ、アスランが死の淵にあるという話は、きっとこの人にとっても衝撃だったに違いない。おそらくは気が落ち着くまで待っていたのだろう。
 
『俺はどんな時にも一番冷静でいないとな。どんな話でも、聞くほうが取り乱していては正確な情報として伝わらん。』
 
 ずっと昔、そんな話をしていたことがある。私は簡単に今までの経緯を説明して、容態についてはさっき息子に話したのと同じ話を繰り返した。
 
「なるほどな・・・。とりあえずローラン方面に向かう荷馬車に手紙を頼んでやったから、遅くとも明日の夕方には届くだろう。あとは親御さんの判断に任せるしかないと思うが、たとえばここでこのまま療養した場合、どのくらいかかるかある程度の予測はつくのか?」
 
「そうですねぇ・・・。」
 
 たとえレイナック殿が自分の力を使うことを承諾してくれてアスランが明日にも目覚めたとしても、すぐに仕事復帰させたくはない。蘇生する段階でかかった負担によるダメージはそんなに簡単に回復しないものだ。いかにレイナック殿の力とて、そこまで完全に回復できるほど都合よくは出来ていない。
 
「目が覚めてみないと何とも言えないというのが正直なところですが、うまくいけば一ヶ月くらいでしょうか。たとえばすぐに目が覚めて、蘇生までの時間経過による障害が何一つ残らなかったとしても、そのくらいはおとなしくしていてほしいものですね。」
 
「一ヶ月か・・・。それもうまくいったとして、の話だな。よし、わかった。連絡があったらそう話してみるよ。」
 
 ランドさんはそういうとアスランの傍らに歩み寄り、少しの間寝顔を見つめていた。
 
「こうして見てると、眠っているようにしか見えないな・・・。」
 
「眠っていることは確かですよ。いずれは目覚めるとは思いますが、それも実際にそうなってみないとなんとも・・・。」
 
「あとはアスランの体力と運次第ってわけか。」
 
「・・・医者としては情けない限りですが、そう言うことです。」
 
「いや、お前はよくやってくれたよ。ウィローにも礼を言いたいところだが、いないのか?」
 
「疲れているようなので別な病室で休んでいます。私もさっきオシニスさんを部屋に連れて行ってから会ってないんですけどね。」
 
「オシニスは寝たのか?」
 
「寝たと思いますよ。鎧をはずして布団かぶってましたし・・・」
 
「ランドよ、あやつのことなら心配するな。今頃は夢の中でわしに悪態をついているところだろうて。」
 
「なるほど、それでは一安心ですな。」
 
 ランドさんが少しだけ笑った。
 
「クロービス先生、こちらは我々が見ていますから、奥方の様子を見てこられたらいかがです?」
 
 ハインツ先生がそう言ってくれたので、私は妻のいる病室に行ってみた。妻はベッドに横になってはいたが寝てはおらず、イルサとなにやら話し込んでいる。
 
「大丈夫?」
 
 妻の顔色はさっきよりずっと悪い。やはり相当疲れていたようだ。イルサが心配そうにそれを見つめている。
 
「大丈夫。横になっていればすぐよくなるから。ねえそれより、もう遅いわ。宿のほうに連絡をいれた方がいいんじゃない?」
 
「あ、そうか・・・。」
 
 すっかり忘れていた。いくら祭りが夜通しで行われていようとも、私達がそんなに遅くまで遊び歩いているとはラド達も思わないだろう。今頃心配しているかも知れない。
 
「ちょっと行ってくるよ。今日はここで休ませてもらおう。アスランの様子も気になるしね。」
 
 私はアスランの病室に戻り、事情を説明して宿に戻ると言ったが、ユーリクが『そう言うことでしたら僕が行ってきます』と申し出てくれたので、任せることにした。
 
「ユーリクには任せて大丈夫だよ。クリスティーナ、君ももう休んだ方がいい。看護婦は体力勝負だからな。無理して倒れたんじゃかえってみんなに迷惑をかけるぞ。」
 
「は、はい・・・。それでは・・・失礼します・・・。」
 
 ランドさんに言われ、名残惜しそうではあったが、クリスティーナは素直に返事をして病室を出て行った。
 
「セルーネさんの子供達は二人とも素直ですね。」
 
「そうだな。おおむね素直だが、どちらもあの親にしてこの子あり、だぞ。一度言い出したら何があってもひかないところもあるからな。それとクロービス、あいつらに対して敬語は使うなよ。セルーネさんの鉄拳が飛んでくるぞ。」
 
 ランドさんが笑いながら、私の鼻先に拳を突き出してみせた。
 
「最初に会ったときに普通に接してしまったので、そのままですよ。でも何であの子達に敬語を使うとセルーネさんが怒るんですか?」
 
「あの家の子育て方針だそうだ。何一つ世間に貢献してもいない子供のうちから、公爵家の子供だというだけで大の大人達に頭を下げられていたら、ろくな奴にならんというわけさ。」
 
「ま、セルーネの言い分も理解できぬわけではないからの、それでみんなあの子供達には出来るだけ普通に接しておるのだ。」
 
 レイナック殿が言いながら微笑んだ。なるほどそう言うことか。セルーネさんなら言いそうなことだが、おそらくはローランド卿も同じ考えだろう。変に態度を変えないでおこうという私の判断はどうやら正しかったようだ。
 
「時にクロービス、ちとウィローの様子を見たいんじゃが、一緒に来てくれんか。」
 
「わかりました。」
 
「うむ。こんな年寄りでも一応男じゃからの。よその奥方が一人で休んでいる部屋に出向くのもいささか気が引けておったが、亭主が一緒なら問題ないじゃろう。」
 
 こういう言い方は失礼になるのだろうが、80歳になんなんとするレイナック殿が妻の病室にひとりでいるところを目撃したとして、その仲を怪しむとか、よからぬことを考えているとか、そんなことを考える人は一人もいないだろう。もちろん私を含めて、だ。たとえばこれがレイナック殿ではなくオシニスさんだとしたって、私はそんな事をまったく考えないと思う。何となく言い訳めいた言い方は、レイナック殿が私と妻と3人で話をしたいからなのではないか。そう考え、思ったことは口に出さず、一緒にアスランの病室を出た。ハインツ先生とドゥルーガー会長が、引き続きアスランの容態を観察してくれることになったので、空いているベッドで一足先に仮眠をとることにした。妻のいる病室に戻って、まずはユーリクが宿に話しに行ってくれたことを妻に伝えた。
 
「みんなにお世話になっちゃうわね。」
 
「仕方ないよ。こんなことが起きるとは思っていなかったし。」
 
「・・・そうよね。」
 
「どうだ、ウィローよ、まだ顔色はよくないのぉ。イルサ、お前ももう休みなさい。また明日来ればいい。」
 
「でも・・・・。」
 
 イルサは立ち去りかねて黙り込んだ。
 
「心配な気持ちがわからぬわけではないが、しっかり休んでおきなさい。アスランは命がけでお前を助けたのだ。そのお前がやつれ果てていたのでは、アスランが目を覚ましたときに悲しむぞ。」
 
「アスランは・・・目を覚ますんでしょうか・・・。」
 
 イルサはそう言ってから、泣きそうな目で私を見た。
 
「覚めんと思うのか?クロービス達の腕を信じておらんのか?」
 
「そ、そんな!そんなことは・・・。」
 
「ならば信じて、今日は休みなさい。明日から気長に看病してやればよい。ウィローもそうじゃ。クロービスがついているのだから心配することはないぞ。」
 
「・・・わかりました。」
 
 いささか強引とも思える言い方で、とうとうレイナック殿はイルサを帰らせてしまった。
 
「・・・かわいそうだが・・・まあ仕方あるまい。」
 
 イルサが出ていったあと、まるで独り言のように、レイナック殿は小さくつぶやいた。
 
「さてウィローよ、お前はしばらく安静にした方がいいようじゃの。蘇生の呪文を使って疲れたものを癒せる呪文はない。体力が回復するまで、安静にしておくしかないものだ。」
 
「はい、私は大丈夫です。休めばよくなります。」
 
「少し眠ったら?私も今日はここで寝させてもらうよ。ここにいれば、夜中に何があってもすぐに駆けつけられるしね。」
 
「そうね。」
 
「クロービスよ。」
 
「はい?」
 
「オシニスがわしのことで何か言うておっただろう。」
 
「・・・はい・・・。」
 
 眠ろうと布団を引っ張りあげかけた妻の手が止まった。
 
「あやつの考えておることなどお見通しじゃわい。だが・・・いささか考えさせてもらわなければならんだろうな・・・。」
 
「このことに関しては、私からは何も言えません。正直なところ、医師会の力だけで何とかアスランが元通りになってくれないものかと思ってますが・・・。」
 
「ふむ、たしかにそうだ。それが一番なのじゃろうが・・・」
 
 レイナック殿はため息をつき、空いていた椅子に座り込んだ。
 
「実をいうと、未だに自分の生き方がこれでよかったのかと迷うておる。まさかこんなに長生きをすることになるとは思わなんだ・・・。これが天の意志ならば、もっと違った生き方をすべきではなかったのかと思うこともあれば、やはりこれでよかったのだと、日々考えが変わる・・・。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
「明日になれば、オシニスのほうから何かしら言うて来るだろう。それまでには答えを出しておかなければなるまいの・・・。」
 
 レイナック殿は何かを決心したように立ち上がり、もう一度大きなため息をついた。
 
「すっかり遅くなってしまったの。アスランのことは医師会に任せて、お前達ももう休みなさい。何かあれば呼びに来るだろうて。わしももう寝よう。さすがに夜更かしはこたえる歳になったからの。」
 
「はい、今日は本当にありがとうございました。」
 
「いやいや、わしは何もしとらんよ。みんなお前達の努力のたまものじゃ。では失礼するぞ。」
 
 レイナック殿は笑顔を私達に向けて、部屋を出て行った。
 
 
 
 翌日、妻の状態もよくなり起きられるようになったので、医師会の医師達と一緒に一日アスランの経過を見ることにした。朝から息子がやってきてアスランのベッドの脇に陣取り、『よけいな口は出さないし、出来ることがあれば手伝うから』と動こうとしない。心配な気持ちは痛いほどにわかったので、そのままそこにいさせることにした。イルサは顔を見せなかった。アスランの顔色はだいぶよくなり、呼吸もかなり安定してきた。これならば少しずつ薬を飲ませることが出来るだろうと言うことになり、ごく弱めの気付の呪文で一度起こしてみることになった。だが・・・ほんのわずか薄目をあける程度でほとんどこちらの呼びかけには反応せず、薬も少し鼻をつまんで口を開け、ひと匙ずつ流し込むという方法でしか飲ませることが出来なかった。とりあえず飲み込んではくれるが、かなり苦い薬にもかかわらず、顔をしかめるわけでもなく、ほんの一瞬でも意識が戻る気配は見られない。飲み終わるとすうっと目を閉じて、また昏睡状態に戻ってしまう。息子の呼びかけにも反応しなかった。結局、一日三回の薬をどうにか飲ませることに成功したと言うだけで、この日はほとんど何の変化も見られないまま一日が終わった。夕方やってきたオシニスさんから、しばらく王宮の客室に泊まったらどうだと勧められたが、王宮の豪華な客室に泊まるのはどうにも落ち着かない。だからといって病室に泊まり続けるわけにもいかないし、せめて気を使わなくてすむ宿屋に戻ることにして、この日は二人で王宮をあとにした。外の喧噪は変わりない、と言うより祭りが佳境に入ってきてますます賑やかになっているようだ。だが私達はすでに祭り見物どころではなく、早々に宿屋に帰り着き、部屋に戻ってやっと一息つくことが出来た。ラドに勧められて熱い風呂に入り、『我が故郷亭特製ディナー』を食べたところで、妻と私はほぼ同時に大きなため息をついてしまった。
 
「はぁ・・・やっと人心地がついたわ・・・。」
 
「全くだ・・・。しかしなかなか目が覚めないな・・・。どうするのがいいかな・・・。」
 
 治療の方針が間違っていたとは思わないが、回復があまりにも遅すぎる。
 
「オシニスさんはレイナック様にあの話をしたのかしらね。」
 
「たぶんね。」
 
 そのレイナック殿は今日は姿を現さなかった。オシニスさんもレイナック殿のことは一言も口にしなかった。昨夜レイナック殿は、明日にも結論を出すと言った。どちらに転ぶにせよ、それはレイナック殿が決めることであって、私が口を出せることではないし、他人の力をあてにして努力することをやめてしまっては医師として失格だ。だが・・・
 
「結局のところ呪文に頼らなければ助けられないのかな・・・。昔からすればずいぶんと医学は進歩したとおってたけど、つまりはまだまだなのか・・。」
 
 今日のアスランの状態を考えると、真剣にレイナック殿を頼ることを考えたほうがいいのかも知れない。でももう少しがんばってみたいという医者としての意地と、患者の命がかかっているときに意地もくそもあるかと怒るもう一人の自分が心の中で戦っている。
 
「ふぅ・・・ここに戻ってきたらなんだか安心しちゃったわ。あまり悩まないで。もう寝ましょう。私ももう寝るわ。なんだか眠くて眠くて。」
 
 言い終わるより早く、妻は大きなあくびをした。
 
「そうだね。もう寝よう。あとは明日だ。」
 
「ええ、とにかく今はゆっくり眠って、すっきりした頭で明日もう一度考えましょう。」
 
「そうだね・・・。」
 
 妻の言うとおりだ。ここでいろいろ考えてみてもどうにもならない。せめてゆっくり休んで、頭の中をすっきりさせておこう。でないと明日の治療にも差し支える。もっとも・・・今の時点で治療といえるほどのことは何も出来ないというのが現実なのだが・・・。
 
 
 
 翌朝、目覚めは悪くなかった。昨夜よほど疲れていたのか、夢も見ずに眠ってしまったようだ。いつもならだいたい同じ時刻に妻が起き出しているのだが、今日は珍しく布団をかぶったままだ。
 
「ウィロー・・・?」
 
 声をかけたが返事がない。そっと布団をめくると、ぼんやりとした赤い顔で目だけが私を見上げている。
 
「なんだか熱があるみたい・・・。」
 
 本人が言うまでもなく、額に触るとすごい熱だった。私は飛び起きてタオルを水に濡らし、固く絞って妻の額にのせた。
 
「食事は・・・出来そうにないかな・・・。」
 
「そうね・・・。気持ち悪いから無理だと思う・・・。」
 
 話すのもやっとのようだ。
 
「やっぱり疲れが出たんだね・・・。君には無理させちゃったから・・・。」
 
 蘇生の呪文そのものより、弱ったアスランの体に気を流し込むための作業でかなりの負担がかかったのだと思う。
 
「そんなこと言わないの。はあ・・・昨日は何でもなかったのにねぇ・・・。間一日おいてから出るなんて、なんだかいやだわぁ・・・。そんな歳なのかしら。」
 
「ま、まあ・・・人によると思うけど・・・。」
 
 熱が出たという事態より、自分が歳をとったかも知れないことのほうが、妻にとっては気がかりらしい。そんなことを考えられるのなら、それほど悪いわけではなさそうだ。少し安心した。
 
「でも、愚痴言ってもしょうがないわよね。今日はここにいるわ。一日寝ていればよくなるわよ。」
 
「とりあえず薬を作ってくるよ。待ってて。」
 
 私は急いで着替えをすませ、荷物の中から熱冷ましの薬草をとりだして部屋を出た。階下に降りるとミーファがカウンターにいたので、事情を話して薬草を煎じさせてもらうことにした。
 
「まあ・・・。それじゃ無理しない方がいいわね。何か少しでも胃にいれた方がいいから、熱が下がったら食べられるように、消化に良さそうなものをつくって持って行くわ。」
 
「悪いね・・・。」
 
「とんでもない。これもサービスよ。お客様に快適に過ごしていただくのが私達のつとめですからね。」
 
 出来上がった薬を持って部屋に戻った。妻は起きあがる気配を見せない。布団の中で丸まっているらしい。
 
「薬が出来たよ。少しだから何とか飲んでくれないか。」
 
 布団の中で妻がもぞもぞと動くが、起きあがるのも大変らしい。私は布団を少しめくり上げて手を貸し、何とかベッドの上に起きあがらせた。一日分の薬を三回分に分けて、小さな器に入れて差し出す。妻はゆっくりと飲み干し、苦さに顔をゆがめた。
 
「また苦いの選んでくれたわねぇ・・・。」
 
「即効性を考慮したのさ。さてと、あとは昼と夜この薬を飲んで、一日安静にしていればよくなるよ。疲れたところに風邪をひいたのかも知れないから、今日一日は経過観察だね。」
 
「そうはいかないわ。私はともかく、あなたはアスランの様子を見に行かないと。」
 
「それはあとから行くよ。君がよくなったらね。」
 
「だめよ。私は寝ていれば治るけど、アスランはただ経過を見ていればいいってわけにはいかないんだから。」
 
「それはそうだけど・・・。」
 
「失礼します。」
 
 ノックと共に聞こえたのはミーファの声だ。扉を開けると、ミーファは一目で病人食とわかる食事ののったトレイを持っている。
 
「ウィローさん、薬を飲んで調子がよくなったら、これを召し上がれ。ほんの少しだから全部食べられると思うけど、無理はしないで残してもいいからね。」
 
「ありがとう、ミーファさん。」
 
「ふふ、これは私のお仕事よ。それより、クロービスは今日も王宮に行かなきゃならないんじゃないの?」
 
「そうなんだけど、ウィローが心配だから午後からにしようかなと・・・。」
 
「それなら私がここにいるから大丈夫よ。」
 
「でも君は店のほうが忙しいじゃないか。」
 
「今日はノルティが一日いるの。だから大丈夫よ。」
 
「ノルティは今日の芝居は出ないの?」
 
「何日かずつ別な劇団員と交代なんですって。若手の顔見せの意味合いも兼ねてるから、ある程度力がある若手は出来るだけ出されるみたい。」
 
「そうなのか。だいぶ競争は激しそうだね。」
 
「ええ、確かにそうよ。かなり熾烈だって言うわ。でも、今のうちからファンがついたりすると、正公演での役獲得にも有利になるって話よ。うちの息子もそれなりにファンがついたみたいだから、次か、その次の正公演では何とかなるかも知れないわ。」
 
 ミーファはうれしそうだ。
 
「へえ・・・。それはよかったね。」
 
「ねえクロービス、私は大丈夫だからあなたは王宮へ行ってきて。ミーファさん、ずっとじゃなくて、時間の空いたときにでも顔を出してくれるだけで充分よ。私はおとなしくここで寝てるから。」
 
「わかったわ。それじゃ時間を見て顔を出すから、ご迷惑じゃなければお話ししましょうね。」
 
「そうね。なんだかおなかがすいたような気がする。・・・もしかしたら少しなら食べられるかも・・・。」
 
 妻は今度は自分で布団をめくって起きあがった。さっきよりは顔色がいい。でもたぶん、薬が効いたからじゃない。いくら即効性があると言っても、そんなに早く効く薬なんて作れない。『薬を飲んだ』と言うことで安心できたんだろうと思う。
 
「あら、それはよかったわ。それじゃクロービスの分も持ってくるわね。」
 
「・・・そうだね、お願いするよ。」
 
 せめて出掛ける前はそばについていてやりたい。ミーファはすぐに私の分の食事を持ってきてくれた。最初に泊まった日の翌朝私達が食べた食事より、かなりうまい。
 
「ロージーがね、あなた達の感想を聞いてすごくやる気を出してくれたの。今回も感想を聞かせてくれるとありがたいわ。こんなこと、知っている人にでもなきゃ頼めないものね。」
 
「ははは、確かにそうだね。」
 
 今回の食事は上出来だと思うと答え、ロージーにはますますがんばってくれと伝えてくれるよう付け加えておいた。妻は結局食事をあらかた平らげ、またベッドに潜り込んだ。少し顔色がよくなっているが、熱はそう簡単に下がるものではない。
 
「それじゃ行ってくるけど・・・なるべく早く戻るからね。薬はここに置いておくよ。」
 
「大丈夫だってば。早く行ってあげて。きっとカインが首を長くして待ってるわよ。」
 
「クロービス、私がいるから大丈夫よ。お薬の時間にはここに来るようにするわ。心配しないで。」
 
「ありがとう。それじゃ行ってくるよ。」
 
 後ろ髪引かれる思いで、私は『我が故郷亭』をあとにした。ここから王宮に着くまでに、気持ちを切り替えなければならない。王宮に着いたら私は医者だ。自分の妻の心配ばかりしていられないのだ。今はミーファに任せるしかない。ふと思い立ち、私は裏通りに足を踏み入れた。ここから裏道を行けば、王宮への近道になる。早く行ったところで早く仕事が終わるわけではないのだが、朝思いもかけず時間をとられてしまったことと、妻への心配で何となく気がせいた。こんなところをうろうろしている間にも、アスランが目覚めているかも知れない、でなければ何かよくない事態に陥っているか・・・。そう考えると矢も楯もたまらず、私は裏通りを少し足早に歩き出した。その時・・・・
 
「きゃ!ごめんなさい!」
 
 細い路地から突然飛び出した人影が私にぶつかり、聞き覚えのある声を上げた。
 
「君は・・・。」
 
「あ!この間のおじさん!」
 
 商業地区の広場で私から財布をすろうとしたあの娘だった。確か名前は・・・そうだ、シエナ・・・いや、本名はトゥラと言ったか・・・。だがそんなことを悠長に考えている暇はなかった。トゥラが怯えた目で私にしがみついてきたのだ。
 
「お願い、おじさん助けて!追われてるの!」
 
「追われてるって、まさかまた誰かの財布を・・・!?」
 
「違うわ!あたし、彼と別れ話をしてて、それで・・・あ!?来たわ。お願い、もう怖くて!」
 
 トゥラの出てきた路地から、人影が飛び出してきた。若い男だ。王国剣士の制服を着ている。この剣士がどうやらトゥラの恋人らしいが、今の時間に制服を着て外を歩いていると言うことは、勤務中ではないのだろうか。なのにどうして恋人を追いかけるようなことをしているのだろう。
 
「トゥラ・・・。」
 
 剣士は近づいてくる。初めて見る顔だ。
 
「そいつなのか・・・?」
 
 目が怒りに燃えている。かなり怒っているらしい。
 
「ち、違う!そうじゃなくてこの人は・・・!」
 
「かばうのか!?」
 
 トゥラの叫びは剣士の怒鳴り声に遮られた。
 
「こいつが・・・金でトゥラをおもちゃにしたのか・・・。こんな奴がのさばってるから、僕達は一緒になれないんだ!」
 
 論理がめちゃくちゃだが、まともな思考能力さえ今のこの剣士にはないようだ。それほどまでにこの娘にのめり込んでいるのだろう。どうやらとんでもない誤解をされているのは今の言葉で理解できたが、いくら否定しても今の状況ではさっぱり説得力はなさそうだ。だがこちらも暇でいるわけじゃない。何とかして誤解を解いて、早く王宮に向かわなければならない。
 
「トゥラ、心配するな。こんな奴はたたきのめして、君を自由にしてやる・・・!」
 
 言うなり剣士は剣を抜き、斬りかかってきた。王国剣士は当然ながら武装している。だがよほどのことがない限り、町中で剣を抜くことは許されていないはずだ。なのにこの剣士はためらいもせずに抜いた。こんなところを一般人に見られたら、とんでもないことになる。
 
「おい君、ちょっと待て。何か誤解をしてるんじゃないか!?」
 
「うるさい!お前のような下衆野郎の言葉など聞く耳持たん!」
 
 頭に血がのぼった剣士の攻撃など交わすのはたやすい。だが、後ろでしがみついているトゥラを傷つけさせるわけにはいかない。
 
「トゥラ、君は逃げなさい。」
 
「で、でも・・・!」
 
「君にも店の用心棒がついているだろう?近くにいるんじゃないのか!?」
 
 私の怒鳴り声に反応するように、背後で気配がした。近くにはいるようだが、どうも自分が矢面に立つ気はさらさらないらしい。
 
「そ、それはそうだけど・・・。」
 
「早く逃げるんだ。ここは任せて。さあ早く!」
 
「ごめんなさい、おじさん、無事でね!」
 
 トゥラが私の上着から手を離し、駆けだした。
 
「トゥラ、絶対に迎えに行くからね!」
 
 若い剣士は去っていくトゥラに向かって叫び、私に視線を戻した。
 
「さてと、あんたの番だ。二度とトゥラにつきまとわないというなら見逃してやってもいいぞ。」
 
 剣士は見下したような目で私を見ている。彼の目に私は、金で若い娘を買う最低な男として映っているのだろう。
 
「元々つきまとってなんかいないよ。」
 
「嘘をつけ!金をちらつかせて祭りに連れ出したのはお前だろう!?」
 
「祭り・・・?」
 
(・・・もしかして・・・)
 
 夜の祭り見物に出掛けたとき、アスランとイルサに出会う前、人混みの中にトゥラらしき人物を見たように思ったのは気のせいではなかったらしい。あの時一緒にいたのは確か、私とそう年の変わらない男だった。なるほど、その時の男が私だと思いこんでいるのか・・・。
 
(納得している場合じゃなさそうだな・・・。)
 
 まずは説得を試みてみよう。成功するとも思えないのだが・・・。
 
「それは全くの誤解だ。私はトゥラを祭りに連れ出したりは・・・。」
 
「嘘をつけ!」
 
 思った通り、私の話など聞く気はないようだ。この剣士の頭の中では、私さえ排除すればすべてがうまくいくことになっているのだろう。狂ったように右へ左へと斬り込んでくる。よけるのはたやすいが、よけ続けてばかりでかえって怒らせているような気がする。だからって当たってやるというわけにもいかない。一瞬気功を使ってみようかと考えたが、思いとどまった。こちらが何らかの行動を起こせば、この剣士に私を攻撃する理由を与えてしまう。
 
「ちくしょう!動きだけは素早いじゃないか。だが、貴様のような奴はこうして・・・!」
 
 剣士は剣をくるりと持ち替え、私に切っ先を向けた。これで私を串刺しにでもしようというのか。どうやらこちらも本気でかからなければならないようだ。
 
「お待ちなさい!」
 
 腹をくくって剣の柄に手をかける寸前、鋭い声が飛んできた。同時に何か細い蔓のようなものが宙を舞い、あっという間に剣士の右腕に絡みついて剣ごと動きを封じてしまった。
 
「邪魔しないでください!」
 
 利き腕の自由を取り戻そうと、剣士がもがきながら怒鳴った。彼の右腕にからみついているのは鞭だ。そしてその鞭を操っているのはやはり王国剣士。勝ち気そうな美しい顔立ちの女性剣士だ。彼女の後ろにもう一人、おそらくはコンビを組んでいると思われる女性剣士が立っている。
 
「町中で剣を抜いていいのは緊急時のみのはずよ!武器も持たない一般の方に向かって、いったい何事なの!?」
 
 二人の女性剣士は冷静だ。どう見てもこの若い剣士とは格が違う。
 
「こいつが・・・こいつさえいなければ僕はトゥラと一緒になれるんだ!」
 
「トゥラ・・・?」
 
「あ、もしかして、あなたの恋人のこと?」
 
 女性剣士達が首をかしげる。
 
「そうです!こいつが僕らのじゃまをして・・・!」
 
 わめき続ける若い剣士を見て、二人の女性剣士は同時にため息をついた。
 
「つまり、女の子とのトラブルでこの騒ぎってわけね。・・・全く情けないったら・・・。」
 
「仕方ないわね・・・。スサーナ、そのまま押さえていて。少し眠っていてもらうわ。」
 
「おねがい。こんなところ一般人に見られたら大変なことになるわ。」 
 
 鞭を操る剣士の名前はスサーナか・・・。なるほど、この娘がセルーネさんの姪であり、クロムの想い人というわけだ。そして・・・オシニスさんを一途に恋い慕う娘・・・。
 
「さて、少しおとなしくしていてもらうわよ。」
 
 スサーナの相方らしい女性剣士の体から、ふっと気が流れた。そのとたん若い剣士の体から力が抜け、その場にどさりと倒れ込んだ。
 
「まったくもう・・・。仲間にこんな気功を使う羽目になるなんてね。」
 
「相変わらずの手並みね、やっぱりあなたの気功は団長に次ぐ腕前だと思うわ、シェリン。」
 
 倒れた剣士の右腕に絡まっていた鞭は、シュッという音と共にスサーナという女性剣士の手の中に戻っていった。まるで生きているかのようだ。シェリンと言う女性剣士はスサーナの言葉にクスリと笑った。
 
「持ち上げても何も出ないわよ。団長どころか他の先輩達と比べても、天と地ほどの差があることくらい自覚してるわ。それより、早いとこラエルを何とかしないとね。ここに置いていくわけにはいかないし・・・・。」
 
「さて困ったわねぇ・・・。こんな重いの私達の力じゃ担いでいけないわ。」
 
 スサーナは倒れた剣士を見下ろし、やれやれといった風にため息をついた。この若い剣士の名はラエルというらしい。
 
「クロムとフィリスに来てもらいましょうよ。まだ近くにいるはずよ。午前中は買い物に行くって言ってたから。」
 
「そうねぇ・・・。夜勤明けに力仕事なんて申し訳ないけど、仕方ないわね。」
 
「ま、この埋め合わせはあとで何とかしましょ。それじゃ呼んでくるから、スサーナ、あなたはここにいてその方から事情を聞いててくれる?」
 
「わかったわ。お願いね。」
 
 シェリンが駆けだしていき、スサーナが私に近づいてきて頭を下げた。
 
「大変失礼いたしました。わたくし、王国剣士のスサーナと申します。お怪我はありませんでしたか?」
 
 丁寧な語調には私を揶揄するような響きは感じられない。特に私を疑ってかかっているわけではないようだ。
 
「いや、怪我はなかったよ。私は別にいいんだが・・・。」
 
 辺りを見回したが、トゥラらしき人影は見えない。もう店に戻ってしまったのかも知れない。
 
「いかがなさいましたの?」
 
「・・・もういないみたいだな・・・。実はさっきまでもう一人・・・・」
 
「・・・ここにいるわよぉ・・・・・」
 
 私が言い終わる前に、小さな、泣きそうな声が聞こえた。同時に私達のいる路地の家と家の隙間から、恐る恐るトゥラが顔を出した。
 
「店に戻らなかったのか?」
 
「だ・・・だって・・・・おじさんだけ残してなんていけないわよ・・・。あたしが巻き込んじゃったのに・・・。」
 
「そうか。もう出てきても大丈夫だよ。」
 
「・・・ほんと・・・?」
 
 トゥラは少しびくつきながら、路地から小走りに出てきて私の背中にしがみついた。
 
「そんなに怯えなくてもいいよ。君の恋人はここにいるから。」
 
「・・・し、死んでないわよね・・・。」
 
「気功を使っただけよ。わたくし達は仲間を殺したりしないわ。」
 
 スサーナが少し憤慨した口調でそう言った。トゥラはまだ少し怯えた顔で、ラエルのそばにしゃがみ込んだ。
 
「ラエル・・・ごめんなさい・・・。こんなことになるなんて・・・。やっぱりあたし達、別れた方がいいんだわ・・・。」
 
 トゥラが流れ出た涙をぬぐった。
 
「あなたがラエルの恋人ね・・・。そしてそちらが・・・。」
 
 スサーナがラエル、トゥラ、私の順に視線を移し、また一つため息をついた。彼女達はトゥラの素性を知っているようだ。ということは、この剣士にも誤解されてしまったかも知れない。誤解は解かなければならないが、聞かれもしないうちからベラベラと弁明してはかえって信用されないものだ。私はまず自分の名を名乗り、この騒動について釈明の機会を与えてくれるよう頼んだ。
 
 

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