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47章 時の重み 前編

 
 あの時・・・昼食だけの招待のはずだったのに夕方になっても戻らないウィローを心配して、私は単身カルディナ家に乗り込んだ。玄関先には招待者であるトーマス卿本人が出てきて、『とっくにお帰りになりましたぞ』言って取り合ってくれなかった。だが実際には帰ってないのだからと食い下がっても、トーマス卿はのらりくらりと返事をはぐらかす。挙げ句に『あまりしつこいと力ずくでも帰っていただく』と私兵を呼び集めて私に剣を向けさせたのだ。そこにセルーネさんとティールさんが駆け込んできた。私を心配したセルーネさんが王宮を飛び出し、ティールさんが追いかけてきたと言うことらしい。さすがのトーマス卿も『公爵家の娘』の登場でいささかひるんだようだ。この方は権力にはめっぽう弱い。そこにトーマス卿にとっては運悪く、私達にとっては好都合にローランド卿が仕事から帰ってきたのだ。家の玄関先での騒ぎに彼は驚き、セルーネさんの怒った顔を見て何かが起きていることを感じ取ったらしい。あくまでもしらを切り通そうとするトーマス卿だったが、事情を聞いたローランド卿が烈火のごとく怒りだした。
 
「本当にそんな愚かなことをされたのですか。」
 
 ローランド卿は父親に詰め寄った。
 
「い、いや・・・私は何も知らぬ・・・。」
 
 トーマス卿が目をそらす。さすがに自分の息子の前ではしらを切り通しにくいらしい。
 
「何もなさっていないのなら、どうしてこんな騒ぎになっているのです!?あれほど申し上げましたのに・・・。」
 
 ローランド卿は怒りで拳をふるわせ、私に振り向いて頭を下げた。
 
「クロービス殿でしたな。このようなことになってしまって申し訳ない。ウィロー殿のおられる場所は、私には容易に見当がつく。ご案内申し上げよう。」
 
「ロ、ローランド!お前は・・・父を裏切るのか!?」
 
 真っ赤な顔で怒鳴るトーマス卿に、ローランド卿はもっと怒った顔を向けた。
 
「時代は変わるのです!父上のようなやり方では、もうこの国を動かしていくことは出来ないのですよ!なぜそれに気づいてくださらないのです!?」
 
 言葉につまったトーマス卿を悲しげに見て、ローランド卿は私達を屋敷の奥へと案内してくれた。
 
「クロービス殿・・・いずれあなたとはお会いしていろいろと話を聞かせていただきたいと思っておりました。こんな形ではなく・・・ウィロー嬢とお二人で我が家にご招待申し上げて・・・食事でも楽しみながらと思っておりましたのに・・・こんなことになるとは・・・。」
 
 ティールさんと同じくらいの長身で、背筋を伸ばした姿は堂々たる風格だろうに、今はすっかり肩を落として小さく見える。しばらく歩いて、屋敷の奥、ひときわ豪華な扉の部屋の前でローランド卿は立ち止まった。部屋の前に護衛が立っている。
 
「・・・入るぞ。」
 
「は、はい・・・。」
 
 護衛はローランド卿の顔を見ただけで震え上がり、後ずさった。私は彼の後ろにいたので顔は見ていなかったが、どんな顔をしていたかはその護衛を見れば想像がついた。
 
 豪華なのは扉だけではなく、部屋の中の家具調度品も立派なものばかりだ。奥に豪華な天蓋付きのベッドがしつらえられていて、そこにウィローが寝かされている。駆け寄って顔をうかがうと、すやすやと眠っているようだった。顔色は悪くない。口元から立ちのぼる香りは、眠気を誘う薬草から抽出した眠り薬の香りだ。
 
「クロービス、ウィローはどうだ?」
 
 心配そうにセルーネさんが私の後ろからのぞき込んだ。
 
「眠り薬を飲まされたみたいです。顔色も悪くないし、しばらくすれば目を覚ますと思います。」
 
「そうか・・・。それじゃ目が覚めるまで待つか?」
 
「いえ、すぐに連れて帰ります。」
 
 こんなところからは一刻も早く連れ出したい。私は掛けられていたふとんをそっと上げた。着ている服も乱れていないし、乱暴に扱われた形跡はない。どうやら食事のあとにそれとは知らずに眠り薬を飲まされて、ここに連れてこられたらしい。ウィローがトーマス卿の招待を受けたとき、セルーネさんが『あのタヌキオヤジめ、何を企んでいるかわかったものではない』と言っていたが、その推測は大当たりだったようだ。それにしてもいったい何が目的だったのだろう。『エルバール中興の祖』の娘たるウィローを味方につけるつもりかも知れないとは考えていたが、こんな形でウィローを家に閉じこめようとすれば全くの逆効果だと思う。
 
「・・・ここからその状態で帰るわけにもいかないだろう。せめてもの罪滅ぼしに、うちの馬車を使ってくださらないか。」
 
「・・・お願いします。」
 
 町の中をウィローを抱きかかえて歩いていたのでは、変に人目をひいてしまう。ローランド卿という人物は悪い人間には思えなかったので、私は申し出をありがたく受けることにした。玄関に降りたときにはすっかり静かになっていて、トーマス卿はもういなかった。私達は庭に用意された馬車に全員で乗り込み、王宮へと向かった。馬車の中で、私はウィローを抱いたまま離さなかった。こんな形で私達の間を引き裂こうとする誰かがいたなんて、思いもしないことだった。馬車がカルディナ家の門を出てしばらく過ぎた頃、ローランド卿が沈痛な面持ちで口を開いた。
 
「このような愚かなことをした父を許してくれとは言いません。ですが、この件は私に任せていただけませんか。」
 
 それはこの中の誰に向けたともとれる言葉だったが、最初に答えたのはセルーネさんだった。
 
「だが、あなたの家にウィローが招かれたことも、いつまでも帰ってこないウィローを心配してクロービスが出かけたことも、私達がクロービスを追いかけて王宮を出たことも、誰もが知っていることです。」
 
 セルーネさんの声は冷たく、口調は厳しい。
 
「それはわかっています。ですが・・・!」
 
「わかっていながら、あなたはお父上をかばいだてするのですか?あなたはもっと・・・公正な方だと思ってました・・・。」
 
「・・・セルーネ嬢・・・私を、公正な人間だと信じてくださるのか・・・。」
 
「あなたの政治手腕は誰もが認めるところです。とても公正で信頼できる方だと、聞いています。・・・私は・・・昔のことにこだわって真実を見誤りたくありません。でも今のあなたはお身内のことで目を曇らせていられる。」
 
「あなたにとっては、もう昔のことなのですね・・・。」
 
 ローランド卿の声ははっきりとわかるほど落胆している。セルーネさんが剣士団に入る前、ローランド卿がセルーネさんに一目惚れして求婚したと言う話は以前聞いたことがある。セルーネさんは入団して10年が過ぎているのだから、つまりそれはもう10年よりもっと前のことだ。でもローランド卿の今の口調では、彼の心の中でセルーネさんは過去の女性ではないらしい。
 
「もう10年以上も前のことです。誰が考えても昔のことでしょう。」
 
「私はそうは思っておりません。今でもあなたのことを・・・」
 
「ローランド殿!」
 
 セルーネさんがローランド卿の言葉を遮った。苦しそうに眉根をよせ、唇を噛みしめている。
 
「今はあなたのお父上の話でしょう・・・。」
 
 ローランド卿の表情に、一瞬だけ絶望の色が浮かび、すぐに消えた。
 
「そうでしたね・・・。失礼しました・・・。あなたにそんな目で見られるのは何よりつらい・・・。確かに父のしたことは許されることではありません。ですが・・・その責任の一端は私にもあるのです。母が亡くなってから、父は私の成長と出世を楽しみにしていました。このようなことをしでかしたのも、私が少しでも早く世の中に認められてほしいとの思いからです。今日帰ったら、父と今後のことを話し合おうと思います。たとえ世間からは愚か者とそしられようとも、私にとってはたった一人の父なのです。どんなことがあっても、私だけは父を見捨てることは出来ないのです。セルーネ嬢、どうか私を信じて・・・私に任せていただきたい・・・。お願いします・・・!」
 
 ローランド卿は、ひざに額がこすりつきそうなほど頭を下げた。セルーネさんの苦しげな表情が悲しげな表情に変わり、ローランド卿から目をそらした。この話から察するに、トーマス卿がウィローを招待した目的は、ローランド卿にあるらしい。
 
(・・・まさか・・・!?)
 
 いくら勘が鈍いと言われる私でも、ここまで考えればその目的も推測がついた。でも本当にそんなことを考えていたんだろうか・・・。いや、もう少し慎重に話を聞いておくべきだろう。私は王国剣士だ。頭に血がのぼった状態で判断してはいけない。でもそう思う心の一方で、ただの男としての私がどうしようもなく腹を立てている。恋人を、いや、生涯ただ一人の伴侶と決めた女性を奪われそうになった怒りで、この時の私の頭の中は、かなり混乱していた。こんなときは、口を開けばよけいなことを言ってしまうものだ。とにかく黙っているに限る。
 
「・・・おいティール。」
 
 セルーネさんが隣に座っているティールさんを突っついた。
 
「なんだ。」
 
「何でお前は黙っているんだ?」
 
「何で矛先が俺に向くんだ?」
 
「お前はローランド殿の親友なんじゃなかったのか。」
 
「そうだ。だが、親友だからって口を挟んでいいことと悪いことがあるだろう。少なくとも今のローランドは、俺にお前をなだめてもらおうなんてつゆほども考えちゃいないさ。俺だってそんなことをする気はない。だが・・・ローランド、それとは別に、俺はお前に聞きたいことがある。」
 
「・・・なんだ?」
 
 ローランド卿が顔を上げた。
 
「お前はさっき、親父殿に『あれほど申し上げたのに』と言ったな。ウィローをさらってくる話は、事前にお前にも知らされていたのか?」
 
「バカを言うな!お前は私がそんな愚か者だと思っているのか!?」
 
 信じられないといった面持ちでローランド卿が叫んだ。
 
「思いたくないから訊いているんだ!はっきり言うぞ?お前の親父殿がしでかしたことは、立派な犯罪だ!そして俺は王国剣士だ。目の前で行われようとした犯罪を、見逃すわけにはいかん。そして真実を知るためには公正な目と耳で情報を得なければならないんだ。もちろん親友としてはお前を信じているが、感情だけで決めつけることは出来ん!だから訊いているんだ。お前は知っていたのか!?」
 
「そうだな・・・。すまん・・・。お前は王国剣士だ・・・。」
 
 ローランド卿はため息をつき、少し落ち着いた声で話し出した。
 
「・・・父が計画していたのは、ウィロー嬢を私の妻として迎えて、デール卿の後継者として大々的に名乗りを上げると言うばかげた話だ。一度食事に招待するから、その時にうまく話を持って行けばいいなどと話していたのだが、ウィロー嬢にクロービス殿という婚約者がおられることを知らぬ者は、王宮中探しても一人もいない。無論父もだ。だからそのようなばかげたことは考えず、私は自分の力で御前会議の大臣として任命されるよう努力するからと何度も諫めたのだが・・・。」
 
 ローランド卿は頭を抱え、また下を向いてしまった。
 
「私が留守の間にウィロー嬢を屋敷に閉じこめ、一緒に暮らしているように世間に思わせるのが目的だったのだと思う。同じ屋敷の中にいることが公になれば、本人の意思など関係なく世間には結婚したと思われてしまうだろう。そうすれば後には退けぬだろうと・・・あの父の考えそうなことだ・・・。」
 
「なるほどな・・・。デール卿の後継者か・・・。まったく・・・やっとモンスター達がおとなしくなったと思ったら、早速権力争いとはな・・・。」
 
 やはりそういうことだったのか・・・。そんなくだらない権力争いのおかげで私達が引き離されるなんて冗談じゃない。
 
「何を言われても反論は出来ん・・・。王国軍が王宮を牛耳っていた頃は家に隠れて震えていた連中が、けろりとして会議に出てきているからな。」
 
「お前の親父殿はあのころもずっと会議には出ていたそうだな。」
 
「ふふ・・・あの連中は大臣と官僚には手を出す気がなさそうだった。興味がなかったのだろうな。命の危険がないとわかれば、どんな臆病者だって平気なものさ。」
 
 自嘲的な口調に、なんだかローランド卿という人物が気の毒になった。この人が悪いわけではないのだ。それでも、セルーネさんの冷たい視線をこの人はあえて受け止めている。
 
「そんな言い方をするな・・・。俺はお前の気持ちがわからないわけじゃない。お前の判断に任せてもいいんじゃないかと思っている。」
 
「・・・・・・・・・。」
 
 ローランド卿は黙って聞いている。
 
「だが、今回の一番の被害者は、俺でもお前でもなければセルーネでもない。ウィローとクロービスだ。まずはこの二人に、お前の考えに賛同してもらえるか聞くのが筋だろうな。」
 
 ローランド卿はため息をつき、うなずいた。
 
「それからもう一つ、あの時お前は外から帰ってきたようだが、本当にウィローには指一本触れてないな?」
 
「当たり前だ!私は・・・私は想う女性以外の誰にも指一本触れる気はないぞ!」
 
 この時ローランド卿が、ほんの一瞬セルーネさんに視線を走らせたのを私は見ていた。
 
「それもそうだな。お前は昔っからそう言う奴だ。なあクロービス、お前は多分ものすごく怒ってるだろうから、頭が冷えてからでかまわん。ローランドの提案を少し検討してみてもらえないか?」
 
「私よりウィローの意見を聞いてからにしてくれませんか?今回のことで一番傷ついているのはウィローですから。」
 
 ローランド卿とティールさんが親友だと言うことは前に聞いて知っている。セルーネさんを追いかけてきたとは言っても、ティールさんもウィローと私のことを心から心配してくれていると言うことも、充分すぎるくらいわかっている。それでも今の私には、こんな言い方しか出来なかった。ティールさんは私のその気持ちを察してくれたのか、口の中で『まあそれもそうだな』と言ってあとは何も言わなかった。
 
「まったくだ。この件はまずウィロー殿に許しを請うてからの話だな。クロービス殿、ウィロー殿が目覚められたら、あなたから話してください。お願いします。」
 
 ローランド卿は私に向かって深く頭を下げた。私は小さな声で『判りました』とだけは言った。セルーネさんは何も言わなかった。
 
 
 やがて馬車は王宮に着き、私はウィローを抱きかかえたまま西側の非常階段から宿舎に入った。セルーネさんが、自分の部屋のベッドにウィローを寝かせてくれて、『お前はウィローが目覚めるまでそばにいてやれ』と言い残して出て行った。しばらくして目覚めたウィローは、最初私を見て、何が起きたかわからないようにぽかんとしていた。
 
「・・・どうしてあなたがいるの・・・?ここは・・・。」
 
「ここは剣士団の宿舎だよ。セルーネさんの部屋に君を寝かせたんだ。本当は、私がここにいてはまずいんだけどね、君が目を覚ますまでってことで、特別にいさせてもらってるんだよ。」
 
「・・・目覚めるまでって・・・私・・・どうしたのかしら・・・。トーマス卿と話をしているうちになんだかすごく眠くなって・・・。」
 
 ウィローの顔がこわばった。やっと事情を理解したらしい。私は事の顛末をわかる限り話して聞かせた。
 
「それじゃ・・・あなたが助けに来てくれたのね・・・。ごめんなさい・・・。」
 
 ウィローは私にしがみつき、泣き出した。
 
「気にしなくていいよ。君が無事に戻ってきたくれたんだから。それより父さんの話は聞けたの?」
 
「ええ・・・それは聞けたわ・・・。トーマス卿は父さんとあまり仲がよくなかったってセルーネさんが言ってたけど、とてもよく言ってくれたわ。私に気を使ってるんだと思って聞いてたけど、でもそれは全部私を手なずけるためだったのね・・・。私が父さんのことにこだわったせいで、みんなに迷惑をかけてしまったわ・・・。」
 
 ウィローの瞳に、また涙がにじんだ。
 
「ティールさんもセルーネさんもそんなことは気にしてないから大丈夫だよ。父さんの話が聞けてよかったじゃないか。」
 
「そう・・・思っていいの?」
 
「いいに決まってるよ。少なくとも、トーマス卿は嘘はつかなかったんだからね。」
 
 デールさんの話をしてくれたと言うことは、『ご息女とデール卿の思い出を共に語り合いたい』というトーマス卿の言葉は、嘘ではなかったことになる。それは当然ウィローを誘い出すための台詞だったのだろうが、すくなくとも最初からその気もないのに出任せを言ったわけではないらしい。それだけでも少しホッとした。
 
「それじゃさっきの話、君も考えてくれないか。」
 
 トーマス卿の処遇については、まずはウィローの気持ちが一番大事だ。
 
「そうね・・・。ローランド卿の気持ちもわかるわ・・・。私はいいわよ。そりゃ腹が立たないわけじゃないけど・・・父さんの話も聞けたし、こうしてあなたのところに戻って来れたんだもの。」
 
『どんな愚か者でも、私にとってはたった一人の父なのです。』
 
 ウィローはこの言葉に惹かれたんだと思う。私達が初めてカナを訪れたとき、デール卿は冷酷無比な人物としてカナの人々から忌み嫌われていた。それでもウィローは父親を信じていた。
 
『だって私の父さんなんだもの、大好きよ。』
 
 ウィローにとっては、どんな人間であろうとたった一人の父親だったのだ。





 この出来事があってからしばらくして王国剣士団の再結成が正式に決まり、それを機に私達は城下町を去った。その後、トーマス卿の処遇についてどうなったのかは聞いていない。
 
「・・・あ〜ぁ・・・今だったら妙な薬が入ってるかどうか、すぐにわかるのにね。」
 
 妻がため息をついた。確かに、薬に関する知識がある今ならあんな手に引っかかることなどありえない。
 
「冗談じゃないよ。君がまたあんな目に遭うなんてごめんだよ。」
 
「そ、そりゃそうだけど・・・。」
 
「それよりドーソンさん、御前会議って、一体なんでそんなことになったのか教えてくれませんか。もう過ぎたこととはいえ、やっぱりそんなことを聞いてしまうと落ち着かないですよ。」
 
「まあそうだろうな。御前会議にこの話を持ち込んだのは、実は当時の大臣の一人だったんだ。ウィット卿って名前なんだが、知ってるか?」
 
「名前だけは知ってますよ。・・・エリスティ公の腰巾着だった方ですね。」
 
「はっはっは!お前もなかなか言うようになったな。まあその通りだ。あの時の騒ぎは、エリスティ公にとってはやっとめぐってきたチャンスだったんだろうな。フロリア様の弱みを見つけ出すべく、ウィット卿にいろいろ探らせていたらしい。その点では、トーマス卿は思慮が足りなかったと言わざるを得ないよ。もっとも、トーマス卿の思惑通りに事が運べば、何を言われようとどうってことはなかったんだろうけどな。」
 
「それで、御前会議ではどんな話が出たんですか?」
 
「私はあとから聞いただけなんだが、ウィット卿はこの一件についていやに詳しかったそうなんだ。どうもカルディナ家の私兵を買収したらしいと言うもっぱらの噂だったよ。」
 
「・・・私兵を・・・?」
 
 買収されるほうもされるほうだ。私兵と言えば、主人のためには命さえなげうつ覚悟で職務にあたらねばならないと言うのに・・・。
 
「カルディナ家での私兵の扱いはあまりいいものではなかったらしい。それでも誰も辞めようとしなかったのは、ローランドがいたからだ。あれだけの人物にならばぜひ仕えたいという思いがあったんだろうな。それにあいつがカルディナ家のあとを継げば、もっと私兵達の待遇もよくなったと思うよ。だがウィット卿に買収された私兵は、いつでも辞めるつもりでいたところにウィローの一件の現場に居合わせて、トーマス卿と言う人物がほとほといやになったらしい。まあ噂話だから、すべて本当かどうかまでは私も知らん。さすがにローランドにこんな話は聞けないしな。だがこの件が公になったとき、ローランドは『これで父も目を覚ましてくれるといいんだが』って言ってたんだ。出てしまったことをいまさら隠すことは出来ないから、せめて父親がこれを機会に考え方を変えてくれればと思ったんだろうけど、あいつが考えていたよりこの話の影響は大きかったのさ。トーマス卿はウィローを『誘拐しようとした』と決めつけられ、現場に居合わせた他の私兵や召使い達の事情聴取をした調査書まで出てきてしまって、フロリア様も穏便にすませると言うわけにいかなくなった。結局トーマス卿は大臣としての地位を失い、半年間の謹慎処分を言い渡されることになったんだ。だが、エリスティ公にとっては残念ながらと言うべきなんだろうな、この醜聞はトーマス卿本人の処分のみにとどまって、フロリア様の監督責任追及までには至らなかった。そうなったらあの方は冷たいものさ。ウィット卿はすっかり見捨てられ、誰にも信用されなくなり、結局そのすぐあとくらいに大臣を辞めてしまった。」
 
「そういうことだったんですか・・・・。」
 
 そんなことになっていたとはまったく知らなかった。トーマス卿のやり方には今でも腹が立つが、だからと言って彼を大臣の地位から落としたかったわけじゃない。なんだか複雑な気持ちだ。しかしあのエリスティ公という方は、いつになったら王位に就くことをあきらめるんだろう・・・。まさか今でもあきらめていないんだろうか・・・。
 
「その後、ローランドはそれまでどおり官僚として王宮に勤める傍ら、父親が今までやってた家の運営に関することまで全部引き受けてがんばっていたんだ。彼の政治手腕の確かさは誰も疑わなかった。フロリア様はローランドの腕を買っていたから、レイナック殿の推挙という形で御前会議の大臣として任命し、ローランドは大臣就任と同時にあらためてセルーネに結婚を申し込んだ。そのときセルーネは断ったんだが、その直後に姉君夫婦を亡くしてな。二番目の姉君はもう嫁いでいるし、自分が継ぐか、姉君が嫁ぎ先を離縁して戻ってくるかしなければ公爵家は断絶だ。せっかく子供にも恵まれて幸せに暮らしている姉君を巻き込みたくないが、でも家のためだけにローランドを利用することは出来ないと、だいぶ悩んでいたよ。」
 
「セルーネさんの姉君ご夫婦はどうして亡くなられたんですか?」
 
「う〜ん・・・・それがなぁ・・・。」
 
 突然ドーソンさんの口が重くなった。
 
「何か事件とか?」
 
 妻が不安げに尋ねる。
 
「いや・・・事件と決まったわけではないんだが、妙と言えば妙なんだよな・・・。」
 
「妙って・・・・どういう風に・・・・?」
 
「一応表向きは、領地の視察に出かけたときに、モンスターに襲われて亡くなったことになっているんだが・・・。」
 
「でもセルーネさんの家の領地は確か大陸西側の離島群でしたよね。そんなところにまでモンスターが・・・?」
 
「いや、あのあたりの離島にはモンスターなんていないんだが・・・たまたま出かけた島の森の中で襲われたそうなんだ。ところがそのあと王国剣士団が大規模な捜索を行ったんだが、一匹も見つからなかったんだよ。結局、何かの拍子に2〜3匹が島に流れ着いてずっと森に潜伏していたんだろうと言う話になってしまった。確かにあのあたりは南大陸にも近いから、モンスターが今までいなかったのが不思議と言えば不思議なんだが・・・しかしあれからもう18年近く過ぎるのに、そのあとモンスターが見つかったと言う報告もまったく入ってこないんだよ。それもおかしな話だろう?」
 
「そうですね・・・。」
 
「姉君のご夫君もいい人でな、あの二人なら間違いなく公爵家をますます繁栄させていくだろうと誰もが思っていたし、前公爵も期待されていたらしい。それだけに娘夫婦を失った前公爵の憔悴は激しく、それ以来寝込まれてしまった。」
 
「でもそのころは前公爵閣下もまだまだお元気だったでしょうに、領地の視察をどうして跡継ぎのご夫婦に任せられたんでしょうね。」
 
 セルーネさんの父君は、とても責任感の強い方だという話を以前聞いたことがある。領民達の生活をいつも思いやり、どんな小さな島にでも自分の足で出掛けていって気さくに領民達と言葉を交わし合う。そして何か問題があればすぐに処理のために動いてくれる。だからベルスタイン家の領地に住む人々は、心から領主たる公爵閣下を尊敬しているということだった。そんな方が、正式に跡を継いだわけでもない若夫婦だけを領地の視察に行かせるというのが、私には少し納得出来ない気がしたのだ。
 
「実はな、セルーネの一番上の姉君夫婦には子供がいなかったんだ。だからその・・・表向きは視察だったが実際には、環境を変えてのんびりすれば子供も授かるんじゃないだろうかと、そういう考えがあったらしいよ。それを勧めたのはほかならぬ前公爵閣下だからな。自分が勧めたせいで娘夫婦が亡くなったと、責任を感じてしまったらしい。」
 
「そうだったんですか・・・。」
 
「その後セルーネとローランドの間に何があったかは私も知らないが、結局セルーネはローランドと結婚して爵位を継いだ。今は子供も生まれてごく普通の幸せな家庭だよ。息子と娘が一人ずついるんだが、息子はローランドによく似たなかなかの美青年だ。頭もよくて王宮では人気者らしい。娘は娘でセルーネそっくりさ。顔だけじゃなく性格まで似たらしいよ。剣を振り回して公爵家の私兵達に相手をさせているそうだ。セルーネが『一切手加減なしで相手せよ』と言い渡してあるから、余計にむきになってがんばっているらしい。あと何年かすれば、採用カウンターに現れるかもな。」
 
「なるほど、それはそれで楽しみですね。」
 
「はっはっは!お前もそう思うか。実は俺も楽しみなんだ。ランドの奴も似たようなことを言っていたよ。」
 
「ランドさんもお元気なんですね。」
 
「ああ、元気も元気。あいつは歳を取っていないのかってくらい元気だぞ。お前らが出て行ったあと、パティと結婚して今は子供が三人だ。」
 
「無事結婚できたんですね。」
 
「いやぁ、あいつの頑張りには頭が下がったよ。」
 
 王国剣士団が王宮を追われ、お尋ね者として手配されたころ、パティの父親であるエヴァンズ管理官は、娘との婚約を白紙に戻すとランドさんに言い渡したそうだ。その後王宮に戻ってからもなかなか許しは出ず、ランドさんは毎日毎日パティの家に通いつめた。その後剣士団が復活し、それまで『非合法』だった王国剣士は無事元の身分に戻ることが出来たのだが、私達はそのころにはもう王宮にいなかったのでその後の展開を聞くことが出来なかった。どうやら無事に結婚までこぎつけることが出来たらしい。
 
「・・・しかし・・・オシニスの奴がなぁ・・・。」
 
「オシニスさんがどうかしたんですか?」
 
「いまだに独り者なのさ。いい加減身を固めてもよさそうなものだが・・・。」
 
 ドーソンさんが、オシニスさんの心の中にいる女性が誰なのかについて知っているとは思えない。
 
「パーシバルさんも独身でしたからね。」
 
「ま、団長なんてのは激務だからな。家庭を持っても果たしてちゃんと家庭人としてやっていけるかどうかってのは何とも言えないんだが・・・だからって独り者でいなくてもいいと思うんだよな。もっとも、この先はどうなるかわからないがな。」
 
 ドーソンさんの言葉にどんな意味が含まれていたのか、このときの私達にはまったくわからなかった。
 
「城下町へは歩いていくのか?」
 
「そのつもりです。」
 
「やっぱりな。」
 
 ドーソンさんが妻をちらりと見てくすりと笑った。
 
「どうせウィローが『久しぶりだから歩いていこう』とでも言い出したんだろう。」
 
「ど、どうしてわかったの?」
 
 妻が赤くなった。
 
「そりゃわかるさ。『あの』ウィローがおとなしく馬車に乗っていこうなんて言うはずがないからな。」
 
「あのウィローって・・・やだもう!昔とは違うわよ。」
 
「いやいや、本質的には変わってないと見た。クロービス、どうだ?」
 
「ええ、変わってないですよ。」
 
「クロービスまで・・・もう・・・!」
 
 妻が口を尖らせる。
 
「ほら、そういうところが変わってないのさ。」
 
 ドーソンさんがまた笑い出した。
 
「海鳴りの祠にも行こうと思うんですが、あの奥の祠はまだあるんですか?」
 
「ああ、まだあるぞ。あの不思議な光も健在さ。一時は『どんな病もたちどころに治る』なんて噂が先行して大量に人が押し寄せたようだが、今ではすっかり静かになったよ。」
 
「あらどうして?病気の人はみんな治ったから?」
 
「う〜ん・・・そうかもしれないが、一番は医学の進歩だろうなぁ。昔は黙って死ぬのを待つしかなかった病気も、いまじゃしばらく薬を飲めば治るなんてのはざらだし、何よりクロービスの開発した麻酔薬のおかげで、外科手術も以前より遥かに簡単になったしな。ま、あの騒ぎは単なる流行だったのかもな。今じゃ、めったにない珍しい難病にかかった人なんかが行くときがあるくらいらしいよ。」
 
 病気さえも治してしまえるほどの圧倒的な治癒の力・・・。それはいまだ健在のようだが、あの光の下に立ったからって瀕死の人がいきなり飛び跳ねられるようになるわけじゃない。結局は、『そんなに効かないのかも』なんて噂が出たのかも知れない。もっとも、私達にとっては不思議な力があろうとなかろうと、あの浜辺も祠もいまだにあるならばそれでいい。
 
「あの管理人さんはどうしてるんですか?」
 
「ああ、あいつは一時期あそこを出てあちこち歩いていたらしいが、何年か前に戻ってきてるよ。今は管理人じゃなくて、ちゃんと本業の考古学者として、あそこの文献の研究をしているはずだ。行くなら顔を出してやれよ。お前達のことは時々話に出るんだ。どうしてるのかな、なんてこの間も言ってたなあ。」
 
「それじゃあとで顔を出してみますよ。」
 
「ああ、よろしく言っといてくれ。」
 
 
 村の外へ出るのは午後からにすることにして、私達はドーソンさんの家を出たあと、デンゼル先生の診療所へと向かった。
 
「・・・・・・・・・・・・・・。」
 
 来てみて驚いた。診療所の隣にある私が小さな頃住んでいた家は、なんと診療所の入院施設になっていたのだ。
 
「わあ・・・。ここを入院施設として改造したのねぇ。この診療所もだいぶ大きくなったのね。誰かあとを継いでいるのかしら。」
 
「入ってみようか。」
 
 中に入ると、以前は廊下があってすぐに診療室だったのに、今では受付が出来て待合室もある。患者はそんなにいない。受付に声をかけると、すぐに呼ばれて私達は診療室に入った。
 
「おお!久しぶりじゃのぉ!まったくいままで手紙ひとつよこさんとは水臭いじゃないか!」
 
「こんにちはぁ!ご無沙汰してますぅ!」
 
 迎えてくれたのは満面の笑みのデンゼル先生と、すっかり成長したアーニャだった。
 
「すみません・・・。いろいろと忙しくて・・・。」
 
「あぁ、いやいや気にせんでくれ。だがお前さんが麻酔薬を発表したときは、あんまりびっくりして腰を抜かすところだったぞ。剣士団を辞めて医者としてやっていくことにしたと人づてに聞いてから、そうさなぁ・・・6〜7年ほどしか過ぎとらんころじゃったかのぉ?」
 
「ええ・・・でもそれは私の手柄ではないんです。父がほとんど完成させていたものを、私が少し手を加えただけですから。」
 
「ふむ・・・相変わらずの謙虚さじゃの。その調子では、王立医師会には来なくて正解じゃったな。」
 
「ご存知なんですか?」
 
 麻酔薬の発表後フロリア様から、医学博士の称号と王立医師会の主席医師のポストを用意するから城下町に出てこないかという手紙が届いていたのだが、どちらも断ってしまったのだ。麻酔薬は父が作ったものだ。私はほんの少し手を加えただけに過ぎないし、それにしたってブロムおじさんと妻の助けがあったればこそだ。それに私はあのころ、医師としてはまだまだ勉強中の身だった。医学博士も主席医師も、どちらもとてもとても務まるとは思えなかったし、何より私はあの島を離れる気はなかった。
 
「うちの倅が王立医師会におるからの。いろいろと情報は入ってくるもんじゃわい。あそこの連中は総じてプライドが高い。それ自体は悪くないんじゃが、自分達が一番だと思いこんどるから、他の者達を見下しておる。あそこでそう言った変な自信をもっとらんのは、ハインツくらいのもんじゃろうな。」
 
 ハインツ医師とは、私がまだ剣士団にいた頃、時々私に薬草茶のことで話を聞きに来ていた医師だ。もっとも当時はまだ駆け出しで、医師の中では一番の若手(本人は下っ端と言っていた)だったらしい。だが駆け出しとはいえ王立医師会に所属する医師が、素人に教えを請うなどとはけしからんと医師会の上層部からはあまりよく思われていなかった人物だ。でも今はきっと立派な医師になっているのだろう。
 
「息子さんも違うんじゃないんですか?」
 
「いやいや、あいつはわからん。口先では謙虚なふりをしておるが、腹の中では俺が一番だなんて思うとるかもしれんぞ。」
 
「ははは・・・そんなことはないでしょう。息子さんはいずれここを継がれるんですか?」
 
「倅はそう言うておるが、わしが倒れるまでは来るなと言ってあるんじゃ。今のところアーニャが手伝ってくれておるから、何とかなっておるしの。隣の建物も、今ではうちの入院施設じゃ。おかげで手遅れになる患者が減ってうれしい限りじゃわい。昔より忙しくなったが、それでもよくなってここから出て行く患者の姿を見るたび、医者をやっていてよかったと思う。もっとも、そのせいでアーニャには世話をかけっぱなしじゃ。昔より頭が上がらんようになってしもうたぞ。」
 
「いやあねぇ。そんなこと気にしないの。私は充分楽しんでるわよ。それに、ここでの経験も全部勉強だもの。」
 
 いたずら娘のアーニャは、すっかり大人の女性になっている。
 
「アーニャはすっかり大人になったね。お父さんのあとを継ぐつもり?」
 
「父さんのと言うより、私はこの診療所を引き継ぐつもりなの。これでもちゃんと国家試験に合格したのよ?」
 
「すごいじゃないか。でもここは君の父さんが継ぐんだろう?」
 
「父さんはそういうけど、医師会の仕事が忙しそうだし、あてにならないわ。それに母さんだって向こうでの生活に慣れちゃったみたいだから、いまさらこんな田舎に戻ってくる気はないかもね。」
 
「でも昔と比べたらすごい都会になったじゃないか。」
 
「なりすぎてちょっといやなくらいよ。何もあんなにおしゃれなお店ばかり建てなくたってよかったのに。子供達は喜んでいるけど、私は昔の町並みのほうが好きだわ。」
 
「そうか・・・。アーニャもお母さんなんだね。」
 
 アーニャは胸をそらしてみせ、
 
「ええ、これでも二児の母ですのよ。」
 
気取った声でそう言うと大きな口をあけて笑い出した。その笑顔はいたずら娘のアーニャの顔だ。見た目は落ち着いた大人の女性になっているが、中身は変わっていないらしい。
 
「おいアーニャ、今のところ患者はおらんのか?」
 
「ええ、さっき来た人はいつもの薬を出すだけだから。あらやだわ。お客様にお茶をいれて差し上げなきゃね。待ってて。」
 
 パタパタと足音を立てて、アーニャは奥に消えていった。
 
「昔はいたずら娘で困っておったが、あんなに熱心に医者を目指すことになるとは思わなんだ。わしとしては、うれしい誤算じゃ。おぬしらは子供はおるのか?」
 
「ええ。」
 
「ほぉ、いくつになった?もう仕事をするような歳になったのか?」
 
「4ヶ月ほど前ですけど、王国剣士の採用試験を受けて何とか合格することが出来ました。まだまだ役に立ってはいませんが、がんばっているようですよ。」
 
「ほぉ!王国剣士か。父親のあとを継いだというわけじゃな。」
 
「まあそういうことになりますね。」
 
「・・・ん?王国剣士?」
 
 デンゼル先生がふいに首を傾げて考え込むようなしぐさをした。
 
「どうしたんですか?」
 
「いや・・・どこかの息子が王国剣士になったとか・・・う〜ん・・・。誰だったかな・・・。」
 
 どうやらデンゼル先生の知り合いの子供さんが王国剣士になったらしいが、それが誰なのか出てこないらしい。最も聞いてもわからないだろうとは思うが、必死で考えている姿にそうは言えなくて、私達は黙っていた。
 
「おじいちゃんてば忘れんぼねぇ。仕事のこととなると40年前でも50年前でも覚えているくせに。」
 
 アーニャがお茶を乗せたトレイを持って奥から戻ってきた。
 
「ふん!仕事のことさえ覚えていられればほかのことは何とでもなるわい。しかし・・・う〜ん・・・。」
 
「そんなに考え込んでいたら、クロービスさん達がつまらないでしょ。おじいちゃんが言いたいのは、もしかしてフィリスのことじゃないの?」
 
「おお!そうじゃそうじゃ!モルダナさんの孫のフィリスじゃよ。お前さん方も知っておろう?」
 
「知ってますけど・・・あのフィリスが王国剣士なんですか?」
 
 私がフィリスと会ったのは、彼がまだ5歳のころだ。私達はなぜか彼に気に入られたらしく、モルダナさんの家を訪ねるたびに一緒に遊んでくれとせがまれた。だから彼が城下町に住む両親の元に戻っていたときなど、なんとなくさびしいような気さえしていた。もう25〜6歳にはなっているはずだが、彼が王国剣士になっていたとは・・・・。
 
「ああ、それもどうやら、お前さんの影響らしいぞ。」
 
「・・・私の・・・?」
 
「あの家にはしょっちゅう王国剣士が出入りしていたが、フィリスはだいぶお前さん達のことを気に入ったらしくて、次はいつ来るんだとモルダナさんに毎日訊いていたそうじゃ。お前さんが剣士団を辞めたと聞いたときはそりゃもうがっかりしてのぉ、大泣きしとったくらいだぞ。その後お前さん方がどこに行ったのかモルダナさんも知らんかったし、しばらくは元気がなかったんだが、そのあとじゃよ。あの坊主が王国剣士になりたいと言い出したのは。」
 
「・・・私の影響なんてことはないと思いますよ。小さいときならともかく、大きくなってからもずっと同じ夢を持ち続けるというのは、なかなか難しいことですからね。」
 
「ふむ・・・それはそうじゃがの。だが、もしも会うことがあったら、話を聞いてやってくれよ。」
 
「今こちらにはいないんですか?」
 
「ああ、おらん。モルダナさんはつい最近まで以前と同じ家に住んでおったのだが、体調を崩してな。うちに入院したらどうだと勧めたんだが、息子夫婦が心配して城下町の家に連れて行ったよ。まあ本人はよくなったらまたここに戻ってくるつもりでいるらしいから、家はそのままになっておる。」
 
「そうですか・・・。」
 
 せっかく来たのに会えないとは残念だ。もっと早く来ていれば・・・。またどうしようもないことで悔やんでしまう。
 
「ところでクロービス、これから予定はあるのか。」
 
 デンゼル先生の顔が少し神妙になった。
 
「これから海鳴りの祠に行こうと思ってたんですが、その前にモルダナさんにお会いしようと考えていたんですよ。」
 
「そうか。それでは少し時間をくれぬか。」
 
「いいですけど・・・何か・・・。」
 
「実はな、うちの診療所もこれだけの規模になってアーニャが手伝ってくれておるが、それだけでは人手が足りなくての、入院施設のほうを見てもらうのに、何人か看護婦を雇っておるのじゃ。みんな熱心ないい娘達じゃが、その中に一人、医師を目指したいと言い出した娘がおってな。母親に適性があったらしいとかで治療術の呪文もわずかながら使えるんじゃが、何よりかわいらしいし明るいし、患者達の人気者なんじゃ。医師を目指すと言ってもまだ16歳でな、国家試験を受けられるようになるまでにはもっともっと勉強しなければならん。うちでもいろいろなことは教えておるのだが、最近は忙しすぎて、なかなか勉強がはかどっておらんらしいのじゃよ。国家試験を受けるためには城下町の学校に通うか、経験年数が20年以上の医師について勉強しなければならんからな。学校に通えるほどの金はないというし、出来ればうちで面倒を見たいんじゃが、今の状態ではかわいそうでのぉ。それで、お前さんが教えてやれるなら頼めんかと思うのだが・・・。やっぱりお前さんの島でも忙しいんかのぉ・・・。」
 
「そんなことはありませんが・・・。20年だと私では資格がないんじゃないんでしょうか。最初に勉強を始めた頃から数えてもぎりぎりですよ。」
 
「いや、それについては心配いらん。お前さんは本来ならば医学博士だからな。お前さんに弟子入りすると言えば、王立医師会でも文句は言わんだろう。それに、あんたの師匠もついとるじゃないか。」
 
「それはそうですが・・・。」
 
 少し考えてしまった。私が教えられることなんてあまりなさそうに思えるが、ブロムおじさんならきっとその娘を立派な医者に育ててくれるだろう。せっかく医師を志す人材がいるのなら、ぜひ何とかしてやりたいとは思う。でもおじさんの負担が増えるのは目に見えている。私達が島に戻ったら、エディにも本格的にいろいろと覚えてもらわなければならないからだ。その上もう一人面倒を見るとなると・・・。私は横にいる妻に振り向いた。こんなときは妻のほうが頼りになる。
 
「ウィロー、どうする?」
 
「そうねぇ・・・。せっかく医者になりたいってがんばっているんだからぜひ応援してあげたいけど・・・ねえデンゼル先生、一度会わせていただけませんか?会って話を聞いてみないと、他所様の子供さんを預かるんだから、そう簡単に返事は出来ないわ。」
 
「そうか・・・。そうだね。先生、まずは会わせてください。」
 
「そうじゃな。会うだけ会ってみてくれ。アーニャ、案内してあげなさい。」
 
「それじゃこっちに呼んでくるわ。みんなで話したほうがいいでしょ。」
 
「それもそうか。じゃあ入院施設の案内もついでにしてくれんか。」
 
「はい。お二人ともこちらへどうぞ。」
 
 私達はアーニャのあとをついて外に出た。
 
「看護婦達の詰所は隣の入院施設にあるの。みんなとても熱心でいい子達ばかりよ。」
 
「みんなローランから来てるのかい?」
 
「いろいろねえ。ローランに住んでいる子もいるし、城下町から来ている子もいるわ。お二人に会ってほしい子はね、ローランの南にある村から来てるの。20年近く前に出来た新しい村よ。もっとも住み込みだから、今はローランに住んでいるわ。とても真面目でいい子なんだけど・・・ちょっと問題を抱えていてね。」
 
「問題?」
 
「そう・・・。彼女の家庭のことだから、出来ればあんまり関わらないほうがいいのかも知れないけど、私としては心配だからほっときたくないの。ねえ、もしよかったら、お二人でその子の話を聞いてあげてくれないかしら。」
 
「聞くのはいいけど話してくれなければ聞きようがないよ。」
 
「そうね・・・。」
 
 アーニャはため息をついた。
 
 入院施設の入り口は、元々この家にあった玄関口をそのまま広げたらしい。中は以前よりも窓が増え、廊下には日の光が差し込んでいてとても明るい。
 
「前は何もないただの大きな部屋だったでしょう?後ろに少し増築して、病室を6室作ったの。ひとつの部屋に二人まで入れるようになっているのよ。」
 
 アーニャがひとつの扉を開けた。中には誰もいない。
 
「ここは今空いているの。3日ほど前までは患者さんがいたんだけど、よくなって退院したところよ。」
 
 病室にも大きな窓があり、中は明るく清潔だ。この環境でなら、病気はきっとよくなるだろう。
 
「こっちが看護婦の詰所になっているわ。」
 
 アーニャは廊下の突き当たりにある扉をノックした。中からは若い女性の返事が返ってきた。
 
「いいかしら?」
 
 アーニャが扉を開けると、中には何人かの若い看護婦がいる。みんな同じ制服にエプロンをつけて、机に向かって何か書いている。
 
「どうぞ。患者さんですか?」
 
 答えて立ち上がった娘は、ここにいる看護婦達の中でもひと際目を惹くほどに美しい顔立ちをしていた。初めて会うはずなのに、この顔になぜか見覚えがある。
 
「違うの。セーラ、あなた今は忙しい?」
 
「いいえ、今一通り病室を回って来たところですから。何か・・・?」
 
「それじゃ、ちょっと診療所のほうに来てくれる?」
 
「わかりました。」
 
 セーラというらしい看護婦は、首をかしげながら部屋を出た。アーニャが中に残った看護婦達にあとを頼むと言い残して詰所の扉を閉め、私達は診療所に戻ってきた。今日はほとんど患者がいないらしい。デンゼル先生はお茶をすすりながら分厚い医学書を読んでいる。
 
「おじい・・・じゃなくて先生、連れてきたわよ。」
 
 アーニャが声をかけた。
 
「おおセーラ。仕事中にすまんな。ちょっと座ってくれ。クロービス、それにウィローだったかの。あんたも一緒に話を聞いてくれんか。」
 
 私達もいすに座り、アーニャも座った。自分の周りを取り囲むような形で座った私達に、セーラは少し不安げな目を向けた。
 
「セーラ、勉強はがんばっとるか?」
 
 デンゼル先生が優しい目でセーラを見ながら尋ねた。
 
「はい。勉強は楽しいです。仕事しながらだとなかなかうまく行かないんだけど・・・でも患者さん達も励ましてくれるし、まだまだがんばります。」
 
「ふむ、それはいいな。だが、確かにお前さんには苦労をかけておる。最近は仕事が忙しくてなかなか勉強の時間も取れないじゃろう。実はな、お前さんが心おきなく勉強できるように、こちらの先生のところで世話になったらどうかと思うのだが、どうじゃ?」
 
「世話に・・・って、ここを出て、こちらの先生の診療所にお世話になるということでしょうか。」
 
 セーラは少し不安げな瞳で私を見たが、それでもぺこりと頭を下げた。
 
「この先生はクロービス先生というてな。お前さんがずっと前から会いたがっていた、あの麻酔薬の発明者じゃよ。」
 
 セーラの目が大きく見開かれた。
 
「あ、あの・・・麻酔薬の・・・ですか?」
 
「おおそうじゃ。ほれクロービス、自己紹介をしてくれんかの。」
 
「こんにちは。君はセーラというんだね。私はクロービス、北大陸のもっと北にある島で診療所を開いてるんだ。隣にいるのが妻のウィロー、診療所には私達二人ともう一人、私に医療の手ほどきをしてくれたブロムさんという先生も一緒にいて、3人で運営しているんだ。」
 
「は・・・はい・・・。あ、あの・・・セラ・・・セーラです・・・。す、すみません、ちゃんと話せなくて・・・。麻酔薬を作った先生に会えるものなら会ってみたいってずっと思ってたから、なんだか混乱してしまって・・・。」
 
 セーラは涙目になっている。どうやら私に会えたことですっかり感動しているらしい。実に妙な気分だ。
 
「麻酔薬はとりあえず私の名前で発表されているけど、みんなの協力があったからこそ完成したものなんだ。私自身はただの医者だよ。それもまだまだ勉強中のね。」
 
「セーラ、こういう謙虚な心からこそ、偉大な発明は生まれるものじゃぞ。」
 
 デンゼル先生が妙に重々しい言い方をした。セーラはうんうんとうなずいている。麻酔薬は父が完成間近まで漕ぎつけていたものなので、私自身は大したことはしていないのだが、いちいちデンゼル先生の言葉を訂正するのもなんだか悪い気がする。
 
「私自身はそんなたいしたものではないですよ。いくら勉強しても、わからないことがどんどん出てきてきりがないくらいです。」
 
「ふむ、医療の道を歩む者が、もう勉強の必要がないなどと言ったらその時点で医者失格じゃわい。お前さんは正しいぞ。それよりセーラ、自己紹介というものはな、本名を名乗るものじゃ。もう一度、きちんと自己紹介しなさい。」
 
 少し厳しいデンゼル先生の声に、セーラの顔がこわばった。
 
「本名?君はセーラという名前じゃないのかい?」
 
「・・・あ、あの・・・本名は、その・・・セ、セラ・・・」
 
 セーラは生唾を呑み込み、深呼吸した。
 
「セラ・・・・フィ、セラフィです。でもみんなセーラって呼びます。だからそう呼んでください。お願いします。」
 
「セラフィでいいんじゃないの?闇を照らすガーディアンね。素敵な名前だわ。」
 
 妻が微笑んだが、セーラは真っ赤になってうつむいてしまった。セラフィとは、古い神話に出てくる人間達の守護者の名前だ。どんな闇の中でも消えない灯火を掲げ、人々を光の中へと導くという。親の願いが一杯詰まったいい名前だと思うのだが、どうやらセーラはこの名前が気に入らないらしい。
 
「まったくだ。わしもそう思うよ。セーラ、差し出がましいとは思うが、これを機会にして、お母さんともう一度話し合ってみてはどうなんだ?」
 
 デンゼル先生が心配そうにセーラの顔をのぞき込んだ。
 
「か、母さんなんて!関係ないです!あんな人・・・あんな・・・」
 
 セーラは忌まわしいものでも振り払うかのように何度も頭を振り、立ち上がって私達の前に立った。
 
「先生の診療所はここよりもっと北なんですね。」
 
「そうだよ。ここより遥かに寒い場所だ。」
 
「それじゃ私、先生のところにお世話になります。そちらで勉強させてください。よろしくお願いします。」
 

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