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第46章 船出

 
 翌朝、前の晩に早く寝たせいか、思ったより疲れはとれていた。
 
「まだそんなに歳をとってるわけでもなさそうね。」
 
 肩や腕を回しながら、妻が笑った。筋肉痛もないのだが、これだけはわからない。明日になってからあちこち痛んだりすることもある。旅の荷物はもうほとんどまとまっている。あとはおじさんが来てからどこに何があるかの説明をして、昼の支度までしてから出掛けることにした。妻はもう台所で準備をしている。ついでに自分達の弁当まで作るつもりらしい。私も手伝おうかと台所に行こうとした時、おじさんがやってきた。いつもより大分早い。ちょうどいいからと、台所の中やリビングのお茶の道具の場所まで、多分わかっているのだろうなと思うことも一通り説明した。そのあと台所を妻に任せて、私はおじさんと二人で診療室に来ていた。普段ほとんどおじさんが関わらない患者のカルテを取り出して、もしもその人達の具合が悪くなった時の対処法など、一通り説明をしておいた。
 
「ふむ・・・、わかった。これだけ丁寧にカルテが書かれているんだ、あとは何とかなるだろう。」
 
「迷惑かけるけど、帰ってくるまでよろしくね。」
 
「心配するな。それより昨日の話だが、エディは毎日来るつもりなのか?」
 
「毎日くると思うよ。けが人が出た時はって言ってたけど、いつ出るかなんてわからないからね。それに、あの子は医者の仕事にも研究の仕事にも興味があるみたいだから、いろいろ聞かれるかも知れないね。」
 
「なるほどな・・・。元気のいい坊主だが、根気があるかどうかだな。」
 
「ダグラスからは遠慮なくガツンとやってくれって言われてるから、その辺もよろしくね。」
 
「はっはっは、そうだな。まあガツンとやられたくらいで逃げ出すようなら、それまでだろう。」
 
「そうだね。あとけが人が出た時はアローラとサンドラさんに頼んであるからね。時々様子を見に来てくれるって言ってたよ。」
 
「う〜む・・・まあ確かにあの二人なら役に立ってくれるだろうけどな・・・。」
 
 おじさんは渋い顔でうなずいた。昨日この話をした時も、やっぱりこんな渋い顔をしていた。でもこれはきっと照れ隠しなんだろうと私は勝手に思っている。
 
「あとはグレイにも頼んでおいたから、時々顔を出してくれると思う。ドリスさんとダンさんには特別なにも言ってないけど、私達が留守にすることはわかってるからきっと顔を出すよ。頼むからケンカなんてしないでね。」
 
「ケンカなんぞせんよ。お前がいないんだから多分そんな暇はないさ。」
 
「だといいんだけどね。でも、私がいなくても暇でしょうがないくらいのほうが、平和なんだけどな。」
 
「まあそうだな・・・・。」
 
 そこに妻が朝食の支度が出来たことを告げに来た。食事のあと、いつ戻るかわからない部屋の中を少し片づけたりしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。そろそろ船着場に行く時間だ。
 
「それじゃおじさん、行ってくるよ。」
 
 二人で診療室に顔を出した。
 
「おお、気をつけて行けよ。ウィロー、こっちのことは気にしなくていいから、久しぶりに母さんとゆっくり話して来いよ。」
 
「ありがとう。そうさせていただきます。」
 
 妻はうれしそうだ。この笑顔を見るたびにすまなさが募る。もっと早くこうして行くべきだったのにと思ってしまう。せめてカナに着いたら、妻の気のすむまでいてこよう。
 
 
 荷物を抱えて外に出た。今日も陽射しはまぶしい。荷物と言ってもある程度宿で洗濯することも考えて、そんなに大量に着替えは持たなかった。この季節なら、室内に干しておいてもすぐに乾く。鎧は二人とも背負い袋にいれてある。私の剣も袋の中だ。ここからローランまでの海路に危険はない。それに妻の鉄扇は腰に差しておけば目立たないが、私の剣は持っているだけで目立つ。おなじ船に乗り合わせた人達に、無用な不安を広げたくはない。船着場に着いた頃には、もう船に乗る人達が集まっていた。
 
「おい。」
 
 肩を叩かれて振り向くと、グレイとラスティが立っている。
 
「あれ?二人ともどうしたの?」
 
「どうしたのって・・・お前を見送りに来たんだよ。」
 
「あ、ああ・・・そうか。わざわざありがとう。」
 
 誰かが見送りに来てくれるなんて、考えてもみなかった。
 
「定期船も定着したなぁ。毎回利用する人がかなりいるよな。」
 
 グレイは船着場に係留されている船を見上げた。今日もこの便の船はファーガス船長の船のはずだ。この島とローランとの間は、そんなに距離がない。だから船もそんなに大きくないし、宿泊の設備などはないらしい。もっとも朝一番の船は夜中にローランを出るので、毛布などはある程度積み込んでいるようだ。それもみんな聞いた話だ。私も妻も、この船着場から船に乗って島の外に出るのは初めてなのだ。
 
「おお!クロービス先生じゃねぇか!」
 
 ファーガス船長が私達に気づき、船を下りてきた。
 
「こんにちは。船長、今日はお世話になります。」
 
「おお、カイン坊から聞いてるぜ。先生達も祭り見物に行くんだってな。」
 
「ええ、まだ一度も見たことがないので、一度くらいはと思ってね。」
 
「いやいや、一度と言わず何度でも見てくれよ。なかなかの盛況だぜ。大道芸人や芝居小屋もかなり出るし、うまいものを食わせる屋台も並ぶ。王国中からいろんな土産物を売りにやってくる連中もたくさんいるんだ。祭りが始まった頃はインチキ商売もかなりあったんだがな。王宮が剣士団を総動員してそう言う連中をたたき出したおかげで、今は大分良くなってるよ。ま、それでもおかしな連中はいるし、人混みには相変わらずスリも出てくるし、まるっきり安全だとは言えねぇんだがな。」
 
「大分詳しいみたいだね。」
 
「そうだなぁ、船に乗っているとな、町の中で起きた出来事にはどうしても疎くなっちまう。そうならないように、出来るだけ情報を仕入れるようにしているのさ。」
 
 そう言ったファーガス船長の顔に照れくさそうな笑顔が浮かんだ。もしかしたら、その情報の提供元は娘さん一家なんじゃないだろうか。
 
「船長、そろそろ時間ですぜ!」
 
 船員の一人が大声で叫んだ。
 
「よっしゃあ!荷物の積み忘れはねぇか!今日はクロービス先生ご夫婦がお乗りだぞ!座れる場所をちゃんと空けろよ!」
 
「了解!」
 
 船員は笑って船室へと姿を消した。
 
「せ、船長!そんな大声で叫ばなくても・・・。私達も他のお客さんも同じなんですから。」
 
「ぶわっはっはっは!遠慮するなって。今日の乗客はそんなにいないんだ。先生達が座る場所は一番いいところをあけてやるよ。今日の夕方まで、ゆっくり船旅を楽しんでくれよ。」
 
 ファーガス船長はニッと笑ってきびすを返し、待っている客達に向かって叫んだ。
 
「さぁ!みんな乗船してくれ!昼の鐘と同時に出発するぞ!」
 
 ぞろぞろと乗り始めた人々のあとについて、私達は一番最後に船に乗り込んだ。数日前にカインを見送った自分が、こうして見送られる側になるのは何となく妙な気分だ。甲板に立つと、船着場から島の中へと続く道が見渡せる。その道から、誰かが走ってくるのが見えた。何人かいる。
 
「先生〜!」
 
 あれはアローラだ。ティートもいる。その隣には・・・シンスとエディもいた。
 
「間に合ったわぁ!先生〜!おばさまぁ!いってらっしゃぁい!こっちのことは心配しないでねぇ!」
 
「ゆっくりしてきてください!僕もアローラと一緒に出来ることは手伝いますから!」
 
 ティートとアローラはしっかりと寄り添って、もう夫婦みたいに見える。その二人を横目で見ているラスティの顔は渋い。その対比がなんだかおかしかった。
 
「先生〜!がんばって勉強しておくからねぇ!帰ってくるの待ってるよぉ!」
 
 エディが笑顔で両手をふりながら、ぴょんぴょんと跳び上がってみせた。
 
「学校のこと聞いてきてねぇ!」
 
 シンスも負けじと大声で叫ぶ。
 
「こら!どさくさに紛れて妙なこと叫ぶな!」
 
 グレイが慌ててシンスをどつく。
 
「いいじゃないか!僕楽しみにしてるんだから!」
 
 『まったくもう』とでも言いたげに、グレイはシンスを睨んでみせたが、その目は優しい。やっと息子がやる気を起こしてくれたことがうれしいのだろう。少し微笑んで、グレイは私達に視線を向け、手をあげて大きく振った。
 
「二人ともゆっくりして来いよ!こっちのことは心配しなくていいぞ!」
 
「ブロムさんのことは俺達も気をつけておくから、お前らはなんにも心配しなくていいからな!」
 
 ラスティも手を振りながら叫んだ。
 
「行ってきます!みんな、あとのことはよろしくね!」
 
「おみやげ買ってくるわよ!楽しみにしててね!」
 
 私達も笑顔で手を振った。朝起きて、診療所にやってくる患者達の相手をして一日を過ごし、夜になれば医学書を開いて勉強したり、妻と他愛のないおしゃべりをしたり、そんな日常ともしばしの別れだ。この旅で、しっかりと過去に決着をつけよう。そしてまたこの島で、妻と二人で生きていこう。この賑やかな人達に囲まれて・・・。
 
 
−−カーン・・・カーン・・・カーン−−
 
 昼の鐘が鳴った。船長のかけ声と共に舫綱が外された船は、ゆっくりと船着場を離れだした。みんなずっと手を振ってくれている。その姿が小さくなって、やがて船が旋回して南へ舳先を向けると、もう船着場は見えなくなった。
 
「とうとう島を出たのねぇ。」
 
 妻が感慨深げにつぶやく。
 
「私も船着場から島を出るのは初めてだからね。なんだか変な気分だよ。」
 
「最初に出た時はあの洞窟からだったんだものね。」
 
「うん・・・。」
 
 サンドラさんの家の裏手にあるあの井戸は、相変わらず手入れされている。今では井戸の中にはっきりとわかるような足場も設置され、誰でも通ることが出来るようになっている。洞窟の中には相変わらずけもの達がいるが、彼らはもう人間を襲ったりはしない。とは言え、今では洞窟を通る人はめったにいない。この島はもう世捨て人の島ではないし、犯罪者ばかりが住んでいる島でもない。でもなぜか、誰もあの井戸を埋めてしまおうとは言わないのだった。
 
「それより、船酔いは大丈夫?」
 
 妻はふふっと笑った。
 
「大丈夫だと思うわ。ここに来てからイノージェンに誘われて船遊びをしたことも何度かあるし。一度慣れてしまえばそんなに酔わなくなると思うわよ。」
 
「ならいいけど、もしも気分が悪くなったりしたら、すぐに言ってよ。」
 
「わかってるわよ。心配性ねぇ。」
 
 妻が笑い出した。
 
「酔い止めの薬ならあるぜ。」
 
 野太い声に振り向くと、ファーガス船長がなんとブランデーの瓶を片手に立っている。
 
「確かに酔い止めになるけど、かえってアルコールで酔っ払いそうですね。」
 
「だからいいのさ。酔っ払っていれば船酔いなんぞどっかに行っちまうぜ。」
 
 船長は大声で笑った。
 
「ははは。船酔いがひどいようなら分けてもらいに行きますよ。ローランに着くのは夕方ですよね。」
 
「そうだなぁ。今日は波も穏やかだし、適当に風もある。順調にいけば、真っ暗になる前にローランの西の港に入れると思うぜ。それまでゆっくりしていてくれよ。この船は近場をまわる時の船だからちゃんとした宿泊施設はないが、毛布とかはそろえてあるし、船室にも座ってくつろげる程度の広さはあるからな。なんなら着くまで中で寝ててもいいぜ。ちゃんと起こしてやるよ。」
 
「ありがとうございます。」
 
 でも船室に入ってしまうのはもったいない。明るい陽射しと青い海。心地よい海風がほほを撫でて、いくら眺めていても飽きそうにない美しい景色がどこまでも広がっている。
 
「気持ちいいわねえ。」
 
 妻は本当に気持ちよさそうに大きく伸びをし、楽しそうに景色を眺めている。これなら船酔いの心配はないだろう。もっとも昔、北大陸へと向かうために船に乗った時に妻があれほど酔ったのは、カインと私の操船がまずかったからに他ならない。実際、そのあと私達の操船が慣れてきてからは、そんなにひどい船酔いはしなくなっていた。そして今乗っているこの船は、ベテラン航海士が操っているのだ。甲板に立っていても、地面の上にいるのとさほど変わらない。あまり心配しすぎるのはやめておこう。つらいならつらいと、妻は言ってくれるはずだ。そう考えて、私も一緒にこの船旅を楽しむことにした。
 
 
 
 船は海岸沿いを南へと、順調に進んでいる。こんな角度から北大陸の海岸線を見たのは、もしかしたら初めてかも知れない。島での船遊びではこんな遠くまでは来なかったし、昔船に乗ってあちこち歩いていたころも、このあたりまでは来たことがない。
 
「思ったより切り立った崖なのねぇ。」
 
 そびえ立つ岸壁を前に、妻がため息をついた。
 
「向こう側に立っていると全然気にならないんだけどね。」
 
「そうよねぇ。でもこうして見ると、あの岸壁のてっぺんに立っていたことがあるなんてなんだか恐いわね。」
 
 今船が通っている場所は、多分島の岬から見える北大陸の島影のあたりだ。極北の地と呼ばれる、一年中雪に覆われている土地だ。当然ながら誰も住んでいない。盗賊だってあんな寒い場所に根城を構えようとは思わないだろう。しばらく進むと、崖の高さが少しずつ低くなってきた。てっぺんに見えていた雪もだんだん少なくなってきている。他の乗客達も一緒に崖に見とれ、また、反対側に広がる海の美しさに賞賛の声をあげている。見覚えのある顔がいないところを見ると、観光で島にやってきた人達が祭りに合わせて王国に帰るところなのだろうか。島には宿屋もあるが、なぜか東の村と川向こうの村にしかない。観光客の利便性を考えて、うちの集落にも宿屋を作ろうという動きはあるのだが、客商売というのは難しい。今はまだ準備段階と言ったところで、グレイが何度か川向こうの村の宿屋に話を聞きに行ったりしている。最近その話を聞かないが、多分ナイト輝石の一件でそれどころじゃなかったんだろう。
 
「ねえ、少し船室も見てみたいわ。」
 
 妻の提案で、私達は船室に降りてみた。なるほど、乗客全部が横になって寝られるほどの広さはないが、座ってくつろぐ程度なら充分な広さだ。中にいた船員が私達に振り向き、
 
「こちらにどうぞ。先生方の座る場所は取ってあるんですよ。」
 
と、声をかけてくれた。
 
「どこでもいいよ。気を使わないでくれないか。」
 
「でも言われた通りにしないと、俺が船長に叱られますからね。俺を助けると思って、そこに座ってくれませんか。」
 
 船員はすまなそうに頭を下げた。船長にも困ったものだが、ここで私達がここには座らないという理由もない。他の客達はまだみんな甲板にいるようだし、私達はありがたくその船員が用意してくれた場所に腰を下ろした。
 
「お弁当、食べちゃいましょ。」
 
 島を出たのが昼だから、もう昼食の時間は大分過ぎてしまった。でもせっかく作ってきた弁当だし、言われてみれば腹も空いているような気がする。二人で弁当をほおばっているところに、乗客の一人が入ってきた。
 
「おや、診療所の先生ではございませんか。お食事のところに失礼しました。」
 
 身なりの立派な、物腰の柔らかい紳士だが、最近観光客が診療所に運び込まれたことはない。この紳士はなぜ私の顔を知っているのだろう。長年感じたことのなかった、本能的な警戒心が頭をもたげる。この船の上はもう、私達の家がある島ではない。乗り合わせている人達もみんな見知らぬ人達ばかりなのだ。そんな私の心の中を見透かしたかのように、紳士は笑顔を作った。
 
「いや、いきなり失礼いたしました。先生は私の顔などご存じないでしょうな。私はエルバール城下町のガリーレ商会で経理を務めております、ジャラクスともうします。」
 
 私達も簡単に自己紹介をした。
 
「実は先生に折り入ってお話がございましてな。本当なら島にいらっしゃるうちにうかがうべきところだったのですが、いろいろと事情がございまして、それで今になってしまいました次第なわけで・・・。」
 
「かまいませんよ。用件をおっしゃってください。」
 
 紳士の心に邪悪な意図は感じられない。ただなんとなく、こちらを警戒しているような、心配しているというか怯えているというか、そんな妙な感情が感じられる。
 
「いやいや、実は仕事の話でございますので、せっかくのお食事中にするような内容ではございません。それで提案なのですが、先生方は今日の夜はローランにお泊まりですか?」
 
「その予定です。」
 
「おお、それは好都合。それではローランに着いてから、夕食をごちそうさせていただけませんでしょうか。食事のあとで少しお時間をいただければありがたいのですが・・・。」
 
「夕食は自分達でなんとか出来ますから、ご心配は無用です。でも食事のあとの時間なら少しとれると思いますから、それではその時にでも。」
 
「ありがとうございます。それでは私は、また外の美しい景気を眺めに行くとしましょう。本当にこのあたり景色は美しい。この景色を切り取って、額に入れておきたいほどでございますな。」
 
 ジャラクス氏は笑顔を崩さないまま、甲板へとあがっていった。
 
「・・・なんの話かしらね。」
 
 足音が遠ざかるのを待って、妻が小さい声でつぶやいた。
 
「さぁ・・・。仕事の話だって言ってたけど、ガリーレ商会って言うと確かセディンさんが昔勤めていた店だなぁ。あのころは雑貨全般を扱う店で、一部では武器防具の卸も手がけていたらしいけど、どちらもうちには関係がなさそうだね。」
 
「医療用具を扱うから買ってくれなんて言う話だったりして。」
 
「それはありそうだけど・・・あれ・・・?」
 
「どうしたの?」
 
 妻と話しているうちに思い出した。島の船着場で乗船を待っている時、あの紳士が他の乗客達と話していることを聞くとはなしに聞いていたのだ。
 
『この島には1週間ほど滞在しましたが、いいところですよ。人々は温かく、空気もいいし食べ物もうまい。冬の寒さは並ではないそうですから、夏の間避暑に訪れるには絶好の場所でしょうな。』
 
 その話を妻にすると、そう言えば私も聞いたわと言う話になった。
 
「となるとおかしいな。売り込みなら、島にいるうちに訪ねてくればすむ話じゃないか。」
 
「そうよね。一週間もいたのに今になってこんなところで話があるなんて、何か人に言えないような話なのかしら。」
 
 妻が不安げに眉根を寄せた。
 
「まあ気をつけておくとしよう。何か悪いことを考えている様子はなかったしね。」
 
「そうね・・・。」
 
「大丈夫だよ。潮騒亭のフロアででも話をすれば、おかしなことは出来ないだろうし。」
 
 妻はまだ不安そうな目を私に向けた。大丈夫だよと妻の肩を叩き、私はまだ残っていた弁当を食べ始めた。
 
 
 少し休んだあと、私達はまた甲板に出てみた。船室にいる間に大分船は進んだようで、北大陸の岸壁はもう大分低くなり、雪はすっかりなくなっている。かわりに崖の上に生い茂る草が、船からも見ることが出来た。空ももうオレンジ色に染まりつつある。
 
「よお先生、ゆっくり休めたかい?」
 
 ファーガス船長が操舵室から出てきた。
 
「おかげさまでゆっくり出来ました。そろそろ着くんですか?」
 
「そうさなぁ。かなり順調に来たから、もうそろそろだな。手回りの荷物は忘れないように持っていてくれよ。」
 
 船長はそう言うと甲板の一段高いところにあがり、
 
「そろそろ到着だ!忘れ物がないように、手回りの荷物をまとめておいてくれ!」
 
そう叫び、その声で他の乗客達もばたばたと荷物をまとめ始めた。
 
「ローランの港は穏やかだからな。港にはいるのは難しくないんだが、接岸するまでは何があるかわからない。ぼんやりして海に落ちたりしないよう、あんまり手すり近くにはいないでくれよ。」
 
 笑いながらそう言うと、船長は操舵室に戻った。程なくして船の速度が落ちた。まっすぐに南に向いていた舳先が、ゆっくりと左側に向かって旋回していく。
 
「港に入るぞ!全員接岸の準備に入れ!」
 
 操舵室から怒鳴り声が聞こえる。それに合わせて船員達が一斉に動き始め、船の上は一気に慌ただしくなった。
 
 
 やがて見えてきたローランの港は、昔より遙かに広く大きくなっていた。他にも船が何隻か停泊していて、船員達が荷物を運び出している。その隣の船は逆に荷物を運び込んでいる。これからどこかへ向かうのだろう。私達の乗った船は滑るように港に入った。接岸した時にもなんの衝撃もなかったほどだ。
 
「ローランに到着!降りる時は順番に!荷物を忘れないようにしてくださいね!」
 
 若い船員が岸壁に板を渡しながら、声を張り上げる。乗客達はぞろぞろと降り始めた。
 
「先生方のお宿はどちらですか?」
 
 ジャラクス氏が近づいて声をかけてきた。
 
「潮騒亭に取ろうかと思っています。」
 
「おお、それでは私がお二人の分も・・・。」
 
「いえ、それには及びません。先ほどのお話ですが、夜にでも潮騒亭に来ていただけますか?私はこの町に知り合いがいるので、宿を取ったあとは少し町の中を歩いてみる予定なんです。」
 
 実はそんなことはまったく考えていなかった。でもそうでも言わなければ、この紳士は私達にべったりとくっついて、離れてくれないような気がしたのだ。
 
「そうですか・・・。それではあとで潮騒亭にうかがいます。では。」
 
 ジャラクス氏は少し残念そうに一礼して船を降りていった。
 
「先生!俺の船の乗り心地はどうだ?」
 
 ファーガス船長だ。
 
「快適でしたよ。接岸の時もまったく衝撃がなかったし、さすがですね。」
 
「いやぁ、先生にそう言ってもらえるとうれしいぜ。こっちにはしばらくいるんだろう?」
 
「祭りの後南大陸にも行く予定なんですよ。だからここから島へ帰る船に乗るのはもうしばらくあとですね。」
 
「ほお、するとウィロー先生の里帰りってわけか?」
 
「ええ、だから楽しみにしているんです。」
 
 妻が笑顔を船長に向けた。
 
「なるほどな。そういや何日か前に薬草園の旦那が夫婦で乗ったんだが、一緒には来なかったんだな。」
 
 薬草栽培のための場所は、今ではライザーさんの家の庭では間に合わないので、島の何ヶ所かに土地を確保し、ビニールハウスを建てたりして行っている。園と言うほど大規模にはなっていないのだが、島に新しく来る人達にとってはかなり大きな薬草畑に見えるらしい。ライザーさんはその『薬草園』の経営者と思われているようだ。訊かれもしないのにいちいち詳細を説明するのも面倒なので、たいていは聞き流してしまっている。おかげでライザーさんはすっかり『薬草園の旦那』になってしまった。そう言われるたびに、イノージェンは不満そうだ。
 
『旦那だなんて、なんだかすごいおじさんみたいだわ。』
 
『すごいおじさんなんだからいいじゃないか。』
 
 ライザーさんが笑う。
 
『おじさんなんて言われるのはあと30年くらい後でいいわよ。』
 
『その頃にはおじいさんだよ。』
 
 そんな会話を何度も聞いた。そのたびに笑っていたものだ。
 
「私達が島を留守にするとなると準備が大変ですからね。一緒に出てくることは出来なかったんですよ。」
 
「そうか・・・。なるほどな。おっと、無駄話しちまったな。忘れ物はねぇか?」
 
「大丈夫です。お世話になりました。」
 
「おぅ!楽しんできてくれよ。」
 
 
 船を下りて、私達はローランに向かった。港からローランまでは一本道だ。もうかなり暗くなってはいたが、道の両側にはかがり火が焚かれ、王国剣士達が道の入口に一組、道の中程にまた一組いる。暗くなってからも安全に歩けるようにしてあるらしい。この国の発展は、王国剣士団なくしてはあり得なかったと思う。その剣士団を率いるオシニスさんの肩に掛かる責任は、どれほど重いものか・・・・。
 
「昔はこの道もなんにもなかったのにね。」
 
 妻が感慨深げにつぶやく。
 
「そうだなぁ・・・。こんな広い道ができて、暗くなっても安全に通れるなんて、あのころには思いもしなかったね。」
 
「そうね。」
 
 ローランに着いた。町の中も明かりが灯され、通りはどこも明るい。そして賑やかだ。のどかな海沿いの村が、こんなに活気のある大きな町になっているなんて思いもしなかった。その中で、『潮騒亭』の看板と建物は変わらない。なんだかうれしくなった。扉を開けると、中は思ったより静かだ。最もまだ暗くなったばかりだから、賑やかになるのはこれからなんだろう。それにしてもこんなに賑やかでは、部屋をとれるかどうかわからない。少し不安になったが、とにかく聞いてみるしか道はない。フロアの奥にあるカウンターをよく見ると、見覚えのある顔がある。昔ここの看板娘だったケイティだ。すっかり落ち着いたおかみさんらしくなっている。
 
「こんばんは。部屋は空いてますか?」
 
「はい、いらっしゃいま・・・」
 
 振り向いたケイティは、私の顔を見て一瞬ぽかんとして黙り込んでしまった。
 
「ケイティだよね?私のことは忘れちゃったかなぁ。」
 
 ケイティの顔にぱっと笑顔が広がった。
 
「忘れるわけないじゃないの!クロービスよね!?それにあの時の・・・え〜と、ウィローさんだわ!久しぶりじゃないのぉ!剣士団を辞めたって言うのは聞いたけど、そのあとぜんぜん顔を見せてくれないんだもの!今までどうしてたの!?」
 
 最後にこの宿に寄ったのは、いつだっただろう。とにかく20年以上も前のことなのは確かだ。
 
「あのあといろいろあってね。私は剣士団を辞めてふるさとに戻ったんだよ。父の仕事を継いで、今は小さな島で診療所の医師だよ。」
 
「島の診療所・・・?あら・・・?」
 
 ケイティがなぜか怪訝そうに首をかしげた。
 
「どうしたの?」
 
「う〜ん・・・そんな話をどこかで聞いたような・・・。ちょっと待って、今思い出すから。」
 
 ケイティはしばらくの間考え込んでいたが、突然顔を上げ、パンと手を叩いた。
 
「思い出した!あのね、何日か前にうちに泊まって行った若い王国剣士の男の子が、同じような話をしてたのよ。知ってる子かしら?」
 
「・・・カインて言う名前じゃなかった?」
 
「えーと・・・あ!そうそう!一緒にいた女の子がそう呼んでたわ!知り合い?」
 
「知り合いって言えば確かにそうだなぁ。生まれたときから知ってるよ。ねぇウィロー?」
 
 私は後ろにいた妻に振り向き、笑ってみせた。妻はうなずき、
 
「そうねぇ。私はあなたよりもっとよく知ってるわよ。なんといっても、生まれるまではこの中にいたんですもの。」
 
そう言って、自分のお腹のあたりをポンポンと叩いて見せ、ケイティに向かってニッと笑ってみせた。
 
「・・・え・・・?」
 
 一瞬だけぽかんとしたケイティが、笑い出した。
 
「え〜〜!?それじゃあの男の子はあなた達の息子さんなのぉ!?あ・・・そういえば、あなたとコンビを組んでいた人の名前がカインだったわよね!?それじゃ息子さんの名前はカインからとったのね?」
 
「そうだよ。あんなふうに、強くて優しい奴になってくれたらなあと思ったんだけど、どうなんだかなぁ。」
 
「そうだったの・・・。あ〜ぁ・・・全然気づかなかったわぁ。あなた達仲がよかったものね。きっとカインも喜んでいるわよ。」
 
「だといいけどね・・・。こんな情けないやつに俺の名前をつけるな、なんて怒ってたりして。」
 
「まっさかぁ!」
 
 ケイティはまた大声で笑った。見た目は落ち着いたおかみさん風だが、やはり中身は変わっていない、明るい宿屋の看板娘のままだ。おかげで、カインの話が出たことでほんの少し胸が痛んだことも、すぐに忘れてしまえた。
 
「ここで何か騒動を起こしたりしなかった?」
 
「ふふふ。騒動なんて起こしてないわよ。カインはね、行きと帰りの二回泊まってくれたんだけど、行きはなんだかすごく盛り上がってたみたいで、部屋を取るときも一部屋にするか二部屋にするか、なんてここで本気で悩んでたわよ。一緒にいた女の子が困ったような顔でため息をついてたわ。結局別々の部屋を取ったんだけどね。」
 
 どうやらカインは、すでにここから一人で盛り上がっていたらしい。いや、もしかしたらフローラを連れてくるところから、あの調子ではしゃいでいたのかもしれない。
 
「ところがねぇ、帰りに泊まったときはすごく静かだったのよ。行きとあんまり違うもんだから、どうかしたのって訊いたら、何か思うところがあるとか言って、さっさと二つ部屋を取って、後はずっと自分の部屋にいたみたいよ。一緒にいた女の子を連れて里帰りしたんだから、あの女の子とは恋人同士かと思ってたんだけど、違うのかなあなんて思ったこと覚えてるわ。」
 
「まだカインは子供だよ。恋人のなんのと騒ぎ立てる前に、少しは落ち着いてもらわないとね。いつまでもあの調子で浮かれていたら、うまく行くものも行かなくなっちゃうからね。」
 
「あら、お父さんは結構厳しいのねぇ。もっとも、以前のあなたと同じ仕事ですものね。厳しさは誰よりもわかっているんでしょうね。」
 
「そうだね。」
 
「あらやだ、長話しちゃったわ。えーと・・・」
 
 ケイティはハッとしたように手元の宿帳らしきものをめくり始めた。
 
「あなた達運がいいわよ!本当はね、今夜は満室のはずだったんだけど、一組キャンセルが出たの。海の見えるいい部屋がひとつ空いてるわ。そこでいい?」
 
「いいよ。それじゃ・・・今日と明日も泊まれる?」
 
「大丈夫よ。一週間の予定がキャンセルされちゃったから、その間いてもらってもいいくらいだわ。」
 
「ははは。ゆっくりしたいとは思うけど、祭り見物に来たからね、そんなに長くここにはいられないなぁ。」
 
「そっかぁ。城下町の中でこれから宿を探すのは大変かも知れないわよ。」
 
「そしたら町の外でテントでも張るよ。」
 
「そう言う人達もいるみたい。でも祭りの間テント生活者を狙った盗賊も出るみたいだから、万一そんなことになったら気をつけてね。もっとも、あなた達なら大丈夫そうだけどね。」
 
「へぇ、そんなこともあるんだね。まあ出来れば町の中に宿をとりたいけど、どうしてもテント生活になるようなら気をつけるよ。」
 
「そうね。そのほうがいいと思うわ。それじゃ、今夜と明日の夜の二泊ですね?」
 
 ケイティが仕事の顔に戻った。
 
「それでお願いするよ。」
 
「はい、かしこまりました。それじゃお部屋にご案内します。」
 
 ケイティがそう言った時、奥からたくましい若者が出てきた。
 
「はぁ〜・・・いつになったら母さんの長話が終わるのかと思ってうんざりしたよ。」
 
「あらいいじゃないの。20年ぶりに会ったのよ。積もる話もあろうというものだわ。」
 
 ケイティが口を尖らせる。どうやらケイティの息子らしい若者は、私達に向き直って丁寧に頭を下げた。
 
「母の長話につき合わせてしまってすみません。潮騒亭へようこそ。私がご案内します。お荷物をお持ちしますので。」
 
 若者は私達の荷物を二つとも軽々と持ち上げ、階段に向かって歩き出した。
 
「お部屋は3階になります。海の見えるいい部屋なので、ごゆっくりどうぞ。」
 
 この宿屋の3階にあがるのは初めてだ。案内された部屋はなるほど広めのいい部屋だった。窓の外は今は暗いが、朝になれば美しい海が眺められるのだろう。若者が部屋を出たあと、妻が不思議そうに尋ねた。
 
「ねえ、どうして明日も泊まるの?」
 
「ん?だって海鳴りの祠に行くんじゃなかった?」
 
「連れて行ってくれるの?」
 
「君の行きたいところにどこでも行くって言ったじゃないか。海鳴りの祠の次は、歩いて城下町に向かって、東の森のキャンプ場所だよね?」
 
「そうよ。本当に行っていいの?」
 
「いいよ。あと、せっかくここまで来たんだから、デンゼル先生のところとか、モルダナさんのところとか、あちこち行ってみたいところもあるしね。それにここの南に出来た集落にも行ってみたいんだよね?いろいろまわりたいから明日一日はローランの散策にあてようと思ったんだよ。東の森でキャンプするなら、こっちを朝出ないと夜までにあそこまでたどり着けないからね。森の中の道がどうなっているのかわからないけど、歩いて夜通るのは避けたほうがいいと思うんだ。」
 
「そうね。でもうれしい。ふふっ、海鳴りの祠なんて久しぶりだわ。あの本物の海鳴りの祠はまだあるのかしらね。」
 
「どうかなぁ・・・。あるといいね。」
 
「そうね。あの裏の浜辺にも行ってみたいわ。」
 
 仲直りの思い出の場所はまたあるのだろうか。ここまで来てみると、やはり懐かしさが募る。一目くらいは見てみたいものだ。
 
「失礼しまぁす。」
 
 扉がノックされてケイティが入ってきた。
 
「お食事はどうなさいますか?そろそろ下のフロアが混む時間だから、こちらにお持ちしましょうか。」
 
「そうだね。お願いするよ。あとね、頼みがあるんだ。」
 
「はい、なんでしょうか。」
 
 ケイティは相変わらず、仕事となると絶対に砕けた言葉遣いはしない。仕事とプライベートの区別はきっちりとつける。だからこそ信頼できる。私は、夕食が終わるころの時間を見計らってジャラクス氏が訪ねて来るだろうことと、彼が着いたら絶対に部屋には案内せず、下で待たせて私達を呼んでくれるよう、ケイティに頼んだ。
 
「・・・何かよくない人とか・・・?」
 
 ケイティの顔に不安がよぎる。
 
「そうじゃないよ。でも私達はその紳士をよく知らないんだ。たぶん仕事の売込だろうとは思うんだけど、簡単に信用するわけにはいかないからね。」
 
「かしこまりました。ではあとで食事をお持ちしますね。」
 
 丁寧にお辞儀をして、ケイティは部屋を出て行った。彼女は必ず頼んだとおりにしてくれるだろう。
 
「・・・何の話なのかしらね・・・。」
 
 妻も不安げだ。
 
「さてねえ・・・。仕事の話ってのが本当かどうかもわからないよ。もっとも、ガリーレ商会の経理担当者が、仕事以外で私達に接触を試みるってのも考えにくいんだけどね。」
 
「そうよねえ・・・。」
 
「まあいいじゃないか。後で本人が来ればわかるんだから。万一何かしようとしたら、気功で固めてやるよ。」
 
「固めるって・・・いゃあねぇ、きっとみんなびっくりするわよ!」
 
 妻が笑い出した。気功の技を覚えるには、特に適性は必要ない。あれば当然熟練の域に達することが出来るが、簡単な回復と相手を麻痺させることが出来る程度の技なら誰でも覚えられる。私も実はずっと昔、カインに教わったことがあるのだ。私達が追われるように海鳴りの祠を出て、クロンファンラに向かう途中だっただろうか。日に日に落ち込んでいくカインを少しでも元気づけたくて、気功を教えてくれと頼み込んだ。呪文があるのに今さら覚えなくてもと、最初カインは消極的だったが『お前も麻痺の気功を使えれば便利かもな』と言って一番簡単な気功を二つほど教えてくれた。気の流れを操るという点では呪文も似たようなものだが、その操り方やまとめ方が全然違った。思ったよりスムーズに行かなくて、冷や汗をかいたことを覚えている。でもその時覚えた気功は今でも自在に操れる。これもまたカインの形見なのだと思う。
 
「あの時は二人で大騒ぎだったわよね・・・。おかげで全然進めなかった日もあったけど・・・でもカインが元気になってくれて、ホッとしたの覚えてるわよ。」
 
「あれは原生林に入ってどのくらい過ぎた頃だったかなあ。」
 
「そうねぇ・・・・。」
 
 妻も首をかしげている。こんな些細な記憶さえあいまいになっている。少ししっかりと思い出しておかなければならない。妻と二人、あのころ起きた出来事についてこれはいつだったか、あの出来事はそのあとだったか前だったかなど、お互いの記憶のあいまいな点を上げて確認してみた。結構覚えていたものだが、思ったより覚えていなかったこともたくさんあった。
 
「起きたときは一生忘れないと思っていたことでも、今になってみるとかなりぼんやりしているのねぇ・・・。なんだかやだわ。そんなに歳をとったのかしら。」
 
「今までが幸せすぎたのかもしれないよ。何もかも忘れたふりをして・・。」
 
 そう言ったとたん、脳裏にはまた血まみれのカインの姿が浮かんだ。
 
「仕方ないわ・・・。今まではそうするしかなかった・・・。もう過ぎてしまったんだから、これからのことを考えなきゃね。」
 
「そうだね・・・ごめん・・・・。」
 
 久しぶりに昔話をして、少し気分が悪くなっていた。今からこの調子で、オシニスさんとちゃんと話が出来るのだろうか。
 
 
「失礼します。お食事をお持ちしました。」
 
 明るいケイティの声に、救われた思いで扉を開けた。ケイティが押してきたワゴンの上には、おいしそうな食事が並んでいる。
 
「さあ、温かいうちにどうぞ。潮騒亭の主人が心をこめて作った特製ディナーでございます。」
 
 そう言えばケイティのご主人は、あの当時この宿屋の厨房を仕切っていたシェフだったっけ。
 
「ありがとう。それじゃ食べ終わったら廊下に出しておくよ。」
 
「はい。ごゆっくりどうぞ。」
 
 部屋の中に立ち込めた料理のいい香りが、忘れていた空腹を思い出させた。
 
「わぁ、ここの料理も久しぶり。でもケイティさんのご主人が作っているなら、きっと昔と同じ味ね。」
 
「そうだね。いただこうよ。」
 
 香ばしく焼けた肉を一口ほおばると、肉汁がジュッと口の中に広がる。添えられたにんじんも甘くて、口の中でほろりととけた。
 
「おいしい〜!」
 
 妻が感動したように声を上げた。ケイティのご主人は、どうやら20年の間にかなり腕を上げたらしい。肉料理も魚料理も、みんなおいしかった。パンはどうやら自家製らしい。焼きたてでまだ温かい。あまりのおいしさに夢中で料理を平らげ、ワゴンの上に乗せられたデザートをとった。ひんやりとしている。大きめの器に氷水を張って、その上に浮かべた小さな器の中にはアイスクリームが乗っていた。これもたぶん自家製。バニラの香りがふわりと鼻をくすぐる。
 
「あ〜おいしかった。」
 
 妻のは機嫌はすっかりよくなったらしい。満面の笑顔で食後の紅茶を飲んでいる。
 
「こんな料理を食べられるなんて、ここに泊まれてよかったね。」
 
「ほんとね。運がよかったわ。」
 
 どこの誰だか知らないが、予約をキャンセルしてくれた人にお礼を言いたいくらいだ。
 
「このお湯熱いわねぇ。えーと・・・この裏地に何か秘密があるのかしら・・・?」
 
 妻は立ち上がり、ポットにかぶせられたティーコゼーを裏返して首をかしげている。アイスクリームが溶けない工夫、ポットのお湯を、食事を終えるまで熱々にしておく工夫の秘密を探り出そうとしているらしい。島に帰ったら、妻はすぐにでもここで覚えたことを実践しようとするだろう。きっとイノージェンも家にやってきて、ライザーさんと私は実験台にされる。
 
「・・・何よ、ニヤニヤして。」
 
 妻が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。家の台所で大騒ぎの妻とイノージェン、その二人を呆れ顔で眺めるライザーさんと私を想像して、思わず一人で笑ってしまったらしい。その話をすると、妻は図星をさされたらしく肩をすくめて笑った。
 

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