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35章 すれ違う想い 前編

 
 森を抜けたころには、もう夕闇があたりを覆い始めていた。ローランの入口が遠くに見える。
 
「やっと見えてきたな・・・。」
 
 カインがほっとしたようにつぶやいた。
 
「そうだね・・・。もうひとがんばりだ。」
 
 少しずつローランの入口が近づいて来た頃、前方に人影が見えた。たいまつを持っているが、高く掲げているので顔は見えない。カインが剣の柄に手をかける。
 
「お〜〜い!!」
 
 人影は大声で叫びながら、こちらに向かって走ってきた。この声は・・・。
 
「ドーソンさん達だ!」
 
 カインがほっとして叫んだ時、背中のウィローがもぞもぞと動いた。
 
「なに?」
 
「降ろして・・・。歩けるから・・・。」
 
「無理しちゃだめだよ。」
 
「ドーソンさんとキリーさんでしょ?久しぶりに会うのに、背負われたままなんて恥ずかしいわ。」
 
「それもそうか・・・。」
 
 私はウィローを降ろした。ウィローは何とか自力で立っているが、あたりが薄暗くて顔色まではわからない。
 
「カイン!クロービス!」
 
 ドーソンさん達はまっすぐ私達のところに駆けてきた。
 
「本当に生きてるんだな!」
 
「オシニス達に聞いても自分の目で確かめるまではと思っていたけど、間違いなく生きてる!よかった・・・。」
 
「お前らが死んだと聞いた時は心臓が止まるかと思ったぞ!」
 
 二人とも涙声だ。みんなこんなに心配してくれていたんだ・・・。改めて胸が熱くなる。
 
「そういやオシニスとライザーが、懐かしい顔がもう一人いるって言ってたけど・・・。」
 
 ドーソンさんが言いかけて私の背後に視線を移した。
 
「・・・あれ・・・?」
 
「・・・え・・・?」
 
 キリーさんも同じようにのぞき込み、きょとんとしている。ウィローが一歩進み出た。たいまつに顔が明るく照らされて、それが誰なのかドーソンさん達にもはっきりとわかったらしい。
 
「あの・・・ご無沙汰しています・・・。私のこと・・・憶えていますか・・・?」
 
「・・・まさか・・・カナのウィローなのか・・・?」
 
 ドーソンさんの声はまだ半信半疑といった感じだ。
 
「あ、あの・・・木登りが得意なおてんば娘の・・・?」
 
 キリーさんはもっと首をかしげている。
 
「や、やだ!そんなの昔の話です!」
 
 ウィローが慌てて否定した。木登りが得意だというのは初耳だ。
 
「やっぱりそうだ!ウィロー!久しぶりだなぁ!」
 
「どうして君がこんなところに・・・あ、もしかして・・・カイン!お前が連れてきたのか?」
 
「なんでいきなり俺なんですか!?」
 
 カインは心外だと言わんばかりに口をへの字に曲げてみせた。
 
「だってお前しかいないじゃないか。」
 
 どうやら私は勘定に入っていないらしい。どうにも複雑な心境だったが、知らぬ振りを決め込むのもまずい。だが『違います』と言いかけたところでカインの言葉がそれを遮った。
 
「俺じゃないですよ。ウィローはクロービスについてきたんです。」
 
「・・・は・・・?」
 
「・・・へ・・・?」
 
 ドーソンさん達は、さっきウィローの顔を見た時よりもさらに驚いた顔で私を見た。
 
「・・・クロービスって・・・お前だよな?」
 
 ドーソンさんが妙な質問をする。
 
「・・・私しかいないと思いますけど・・・。」
 
「・・・お前が連れてきた・・・ウィローをか・・・?」
 
「・・・そう言うことになりますね・・・。」
 
「へぇ・・・・。」
 
 ドーソンさんはなぜか感慨深げな声をあげて私を見ている。
 
「クロービスがねぇ・・・。」
 
 キリーさんも同じような声でつぶやき、肩をすくめた。
 
「しかし南大陸ってのはすごいところなんだな。君にそんな度胸がつくなんてね。」
 
「度胸って・・・」
 
 あとの言葉を見つけられずに口をあけたままの私に、キリーさんは大きな声で笑った。
 
「ごめんごめん。だいぶ前に君がエリオンさん達に誘われて歓楽街に連れて行かれた時に、直前で逃げ出してきたって聞いたものだから・・・・。」
 
「だからその、お前は女に関しちゃ超弩級の奥手なんじゃないかと・・・まあ私達は思っていたわけだ。」
 
「・・・あの時は無理矢理連れて行かれたんですよ。ああいうところで遊ぶのはどうにも気が引けたから帰ってきただけで・・・。」
 
「まあそれもそうだな・・・。」
 
 二人ともばつが悪そうに顔を見合わせたが、その途端また二人とも吹き出してしまった。
 
「あ、ああ、いやすまんすまん。笑ったりして悪かった。ウィローはいい子だぞ。カナじゃ人気があったから、もうとっくに結婚しているものだと思ってたよ。縁談だってあったんじゃないのか?」
 
「そんなことないです・・・。私まだそんな気はないし・・・。」
 
「そんな気はないって・・・それじゃなんでこんなところまで来たんだ?こいつが好きだったわけじゃないのか?」
 
「そ・・・そうじゃないけど・・・その・・・。」
 
『そんな気はない』
 
 南大陸を発つ前にも同じ言葉をウィローの口から聞いた。あの時は私も同じ気持ちだった、いや、今だって変わらない。正直なところそこまでは考えられない。でも今ウィローの口からその言葉を聞いた時、心臓がきりきりと締めつけられるような気がした。ほんとうにもうそんな気はないのかも知れない・・・。そんな不安が脳裏をよぎる。
 
「・・・ウィローは私のことだけで村を出ることにしたわけじゃないんです。」
 
 せめてウィローの決意だけはドーソンさん達にも知っておいてほしかった。長年住み慣れた故郷を出て、見知らぬ土地へ行く心細さは誰よりも私がよく知っている。それでもどうしても、ウィローは故郷を出なければならなかったのだ。デールさんの遺志を継ぐために・・・。
 
「詳しい話を聞きたいのは山々だが、こんなところで立ち話もなんだな。はやく村に入ろう。最近は今までこのあたりでは見たこともなかったようなモンスターが時々うろついているんだ。村の中まで入ってくるような度胸のあるやつはいまのところいないが、夜でも気が抜けないよ。続きは詰所で聞かせてくれ。」
 
 ドーソンさんもキリーさんも妙にうれしそうだ。
 
(ウィロー・・・歩ける?)
 
 私は振り向き小声で尋ねた。ウィローは黙ったままうなずいたが、やはりつらそうなことにかわりはない。
 
「ドーソンさん、キリーさん、ウィローはいま風邪気味で熱があるので、出来れば診療所に連れて行きたいんですけど・・・。」
 
「風邪!?それなら急ごう。そうだな・・・カナに比べればこっちは格段に寒いだろうからな。」
 
 ローランの入口はもう目の前だ。荷物は今まで通りカインに担いでもらい、私はウィローを支えながら歩き出した。ウィローは私の手を振り払おうともしないし、大丈夫だから一人で歩くとも言わない。この調子なら、仲直り出来るかも知れない。ウィローとろくな会話を交わせないことに、私はもううんざりしていた。はやく仲直りして、また笑顔を見せてほしい、この時の私は、そのことばかり考えていた。
 
 ローランに入ってすぐ、私達は詰所に荷物を置かせてもらい、まっすぐ診療所に向かった。この診療所には研修の時以来、近くに来た時に何度か顔を出していた。
 
 扉の取っ手に手をかけようとした時、扉が突然内側に大きく開いて女の子が顔を出した。
 
「うわ!・・・あ、あれ・・・アーニャ・・・?」
 
 この診療所の医師、デンゼル先生の孫娘アーニャだった。
 
「あ!ご、ごめんなさい!あら、あなた達は・・・こんにちは。ずいぶん久しぶりね。遠くに行ってらしたの?」
 
 アーニャはいつもにこにこと愛想がいい。特別美人という顔立ちではないのに、この人なつっこい笑顔がアーニャの顔をもとの何倍もかわいらしく見せている。
 
「うん、ちょっと忙しくてね。それよりどうしたの?そんなに慌てて。」
 
「こらアーニャ!ちょっと待たんか!」
 
 アーニャの後ろからデンゼル先生の怒鳴り声が聞こえてくる。
 
「相変わらず元気だね。今日は何をやったの?」
 
 私達がこの村に来た回数はそんなに多くない。でも毎回必ずと言っていいほど、アーニャはデンゼル先生に怒られて逃げ回っていた。それはアーニャがいたずら好きなせいだ。
 
「あら、今日は何にもしてないわよ。ちょっとお願いしたかっただけなのに、おじいちゃんたらすごく怒るんだもの。」
 
 アーニャは心外だというようにふくれっ面をしてみせた。
 
「何がお願いじゃ!突拍子もないことを言い出しおって!」
 
「あ、それじゃ剣士さん達またね。おじいちゃんのお小言が始まる前にアーニャは逃げまぁす!」
 
 言い終わるよりはやく、アーニャは診療所の扉から飛び出していった。
 
「まったく・・・誰に似たんだか・・・。」
 
 デンゼル先生はぶつぶつ言っているが、その割ににこにこしている。目の中に入れても痛くないほどアーニャをかわいがっていることは、先生の知り合いなら誰でも知っている。
 
「おお、君らか。だいぶご無沙汰だったのぉ。元気にしておったのか。」
 
 デンゼル先生は、以前と同じように笑顔で私達を出迎えてくれた。
 
「はい、おかげさまで・・・。アーニャはどうしたんですか?今日は何もしてないと言ってましたけど。」
 
「確かになにもしてはおらん。だがもっとタチが悪い。いたずらのほうがまだましじゃわい。アーニャの奴、オーロラを見るために漁り火の岬でしばらくキャンプするから、道具一式を買ってくれとぬかしおった。」
 
「オーロラ?」
 
「うむ。どうやら学校でグラニード先生に何か吹き込まれたらしい。確か一年近く前に、漁り火の岬でオーロラが見えたらしいと評判になったことがあったじゃろう?」
 
「ああ、噂は聞きましたけど・・・。」
 
 あの時見たオーロラが脳裏に浮かんだが、見たとは言わないでおいた。
 
「オーロラとは大地の奇跡と言われておる。ところが学校でグラニード先生が、オーロラ自体はもしかしたら一年に何回かは出現するのかもしれないなどと言ったらしいのだ。それで、何度か現れるならしばらく岬で待っていれば見られるだろうと安易に考えて、母親にキャンプ道具を買ってくれと言ったらしい。」
 
「・・・当然断られたでしょうね。」
 
「当たり前じゃわい。それで怒られて、今度はわしのところに来たというわけさ。まったく・・・あんな寒い場所に夜の夜中に出かけて行って、出るかどうかもわからないオーロラをずっと待っているなど、そんなことに使う体力や忍耐力がアーニャにあるわけがない。だいたいいつも寒いの暑いのと、あいつは人一倍うるさいんじゃからな。」
 
「でもグラニード先生は、確か自然科学や天文学についてはかなりの知識をお持ちですよね?その先生がおっしゃるなら、それなりに信憑性はあるのかも知れませんよ。」
 
「お前さんまでヨタ言わんでくれ。グラニード先生は誠実で教え上手でいい先生なんじゃが、夢想家なのがたまにきずじゃのぉ・・・。奇跡がそうほいほい現れたのでは値打ちもなくなるわい。」
 
「ははは、そうですね・・・。」
 
「めったに見られないものだからこそ、オーロラを見た者は幸せになれるなどと言い伝えられておるのじゃ。聞いたところによると、夜空に光のカーテンが現れてゆらゆらと風に流れるように動くそうだから、その美しさはたとえようもないものなのだろうが・・・。」
 
「きっときれいなんでしょうね・・・。」
 
 ほんとうにあのオーロラは美しかった。
 
「そうだのぉ・・・。わしもあと三十年若かったら、旅支度を調えて出かけていったかもしれんが・・・ま、生きてるうちにもう一度噂でも聞ければ、それでよしとするしかないのじゃろうな。」
 
 デンゼル先生は大声で笑った。
 
「さてと・・・今日はどうしたのじゃ?わざわざ挨拶に寄ってくれたのか、それとも長旅の疲れでも出たか?」
 
「いえ・・・私達じゃないんです。こっちの・・・」
 
 私はウィローをデンゼル先生に紹介して、風邪をひいたらしい経緯についても説明した。
 
「なるほどな・・・。しかしクロービスよ、おぬしの薬草茶でも治らなんだのか?」
 
「今朝飲ませたんですけど・・・昼間は森の街道を抜けるのに歩きづめでしたから作れなくて・・・そのうちに熱が上がってしまったので、先生に診ていただいた方がいいかなと思って連れてきたんですけど・・・。」
 
「なるほど。ではどんな薬を飲ませたのか教えてくれ。」
 
 私は荷物の中から薬草の入った巾着袋を取りだし、中を探って今朝ウィローに飲ませた薬草の残りを取りだした。デンゼル先生は一つずつ薬草をより分けて、何度もうなずきながら私にいろいろと質問をしてきた。
 
「・・・ふむ・・・。しかしおぬしの調合のしかたは見事なものだ。これで医師の勉強など何もしておらぬと言うのだから・・・。」
 
「・・・全部父の受け売りですから・・・。」
 
 故郷の島を出る前に受け取った荷物の中に入っていた薬草の調合表は、私が思っていたよりずっと役に立つものだった。私が島にいる時は、父は私に医師としての仕事は何も教えてくれなかった。私が聞けば丁寧にいろいろと教えてくれるのだが、自分から積極的にあれこれと教えるということは一度もなかったように思う。
 
『お前はお前の好きな道を行きなさい。私の跡を継がなければならないなんてことは考えなくていいよ』
 
 父が口癖のように言っていた言葉だ。以前私は、父は私に自分の跡を継がせる気がないのだろうと思っていたのだが、実は継がせたくなかったのではないかと、島を出てからは思うようになった。私が父の跡を継げば、あの島から出ることなく一生を終えてしまうかも知れない。父は私の将来を案じて、好きな道を選べるようにしてくれたのだ。
 
 でも私は、実は医師の仕事に興味があった。父の跡を継ぐかどうかまではっきりと決めていたわけではなかったが、『好きな道』と呼べるかどうかの判断がつく程度までは知識を広めたかった。その願いは父の存命中はとうとうかなわなかったが、父が遺してくれた調合表のおかげで、図らずも医師のまねごとを出来る程度の知識を身につけることが出来た。まったく皮肉な話だ。
 
「ふぅむ。聞けば聞くほど、おぬしの父上が医者としてはかなりの腕前だったことがわかる。一度くらい会ってみたかったものだが・・・。亡くなられたのが実に惜しいのぉ。」
 
 デンゼル先生は残念そうに首を振った。もしも父がこの先生と知り合いだったら、きっといい友人になっていたに違いないと私も思う。
 
「しかし・・・この薬を飲んでなおこの状態とは・・・うぅむ・・・。」
 
 デンゼル先生はウィローに向き直り、口を開けさせて喉の奥をのぞき込んだり、まぶたの裏を見たりしながらもう一度『うぅむ・・・』と唸った。
 
「森の街道を歩いてきたのか?」
 
「いえ・・・私がおぶって・・・。」
 
「そうか。それならいいが、こんな状態で無理したら、大変なことになるからな。」
 
 先生の口調は厳しかった。実はモンスターを相手に戦ったなどと言ったりしたら怒鳴りつけられそうだ。
 
「肺炎まではおこしてませんよね?」
 
「それは診てみないと何とも言えん。どれ、ちょいと前を開けてもらわねばならんが、おぬしらはそこでぽかんと見ておるつもりか?」
 
「え・・・?あ、すみません!カイン、外に出ていよう。」
 
「あ、そうだよな・・・。」
 
 廊下に出て、カインが小声で囁いた。
 
(別にお前はいてもよかったじゃないか。)
 
(バカなこと言わないでよ。そんなわけにいくもんか・・・!)
 
 診療室の中からは、デンゼル先生がウィローにいろいろと尋ねている声が聞こえてくるが、内容までは聞き取れない。ぼんやり二人で立っていると、どこかから槌音が聞こえてきた。
 
「・・・鍛冶屋なんてこのあたりにあったっけ?」
 
「前に来た時はなかったよ。・・・もしかして・・・。」
 
「タルシスさんかな・・・。」
 
 槌音はすぐにやんだ。そしてもう聞こえてこなかった。
 
「おい、もういいぞ。」
 
 扉が開いてデンゼル先生が顔を出した。中に入ると、ウィローはちょうど薬の器を口に持って行くところだった。いかにも苦そうな顔で飲んでいる。
 
「肺炎までは起こしておらん。今ならまだ薬で何とかなる。娘さんが今飲んどる薬は、さっき似たような症状の患者が来た時に作っておいた薬の残りじゃよ。うまい具合にあってよかったわい。これから煎じていては時間がかかるからな。さてと、同じ薬を処方してしんぜよう。クロービスよ、煎じ方はおぬしに教えた方がいいだろうな。」
 
「はい。私が全部やりますから。」
 
「うむ・・・。えーと、ま、おぬしの作った薬とだいたいは同じ組み合わせなんだが、まずはこれとこれをはずして、それから・・・こっちのこの黄色い奴、これを合わせる。こいつは今はずした奴と同じ熱を下げる効果があるが、体への影響が少ない。それからここに吐き気止めは少し加えても大丈夫だが、量が多すぎると逆効果だから気をつけてな。それから・・・」
 
 デンゼル先生は棚から出してきた薬草の束をテーブルの上に広げ、組み合わせや煎じ方を丁寧に教えてくれた。やはりここに連れてきてよかった。説明を一通り聞いてウィローを振り返ると、やっと薬を飲み干してため息をついている。きっと苦かったんだろう。
 
(でも治ればオシニスさん達と訓練か・・・。)
 
 そう考えるとまた気が重くなった。
 
「よしよし、全部飲んだな。あとは出来るだけ胃に負担のかからないものを食べられるだけ食べて、あったかいふとんでゆっくり眠ることだ。今日の夜は風呂も入ってはいかんぞ。薬は2日分出しておくから、それは全部飲んでくれ。それでも治らないようならもう一度ここに来なさい。」
 
 デンゼル先生はウィローから受け取った器をのぞき込み、満足そうにうなずきながら言った。
 
「ありがとうございました。」
 
 礼を言って診察料を支払い、私はさっきの槌音のことを尋ねた。
 
「槌音?ああ、王宮鍛冶師のタルシスじゃよ。王宮の鍛冶場から武器防具類を洗いざらい持ち出して、隣の空き家に潜伏しておるわい。聞いておらなんだのか?」
 
「ここにいるっていうのは聞いていましたけど、隣の家にいるんですか?」
 
「うむ。まったく大胆な男じゃわい。明日にでも訪ねてみてはどうだ?今日はもう遅いし、その娘さんを早く休ませることが先決だぞ。」
 
 改めて礼を言って私達は診療所を出た。扉を開けながらカインが、私にしか聞こえないくらい小さな声でつぶやいたのがわかった。
 
(オーロラを見たら幸せになれる・・・か・・・。)
 
 とても小さな声だったのに、とても悲しげに、苦しげに聞こえた。
 
 
「さてと、一度詰所に戻るか?」
 
 診療所の前でカインが尋ねた。
 
「そうだね・・・。本当はタルシスさんにも会いたいし、モルダナさんの家にも寄りたいんだけど・・・ウィローにこれ以上歩かせたくないから、もう宿屋に行こう。」
 
「私なら大丈夫よ。さっきの薬が効いたみたい。」
 
 確かにさっきよりは顔色もいいし、足取りもしっかりしている。でも・・・。
 
「無理しないようにって言われたばかりなの忘れたの?」
 
 さっきウィローが飲んだ薬の中には、すぐに効く体力回復の薬が含まれていた。これは普通に薬草を煎じるだけでなく、その煎じた汁にさらに加工をして抽出する、いわゆる『薬物』に相当する。その薬だけは他の薬と分けて、一包だけ手渡された。さっきのように一人でまともに歩けないくらいひどい時しか使ってはならないと念を押されて。別に危険な薬ではないのだが、いわば弱った体を薬で無理矢理動かすようなものだから、何度も使えば結局は体に負担をかけることになって風邪はいつまでも治らなくなる。
 
「でもモルダナさんて、フロリア様の乳母だった人よね?会いたいわ。それに、タルシスさんのところで鎧を買わなくちゃ。」
 
「モルダナさんにもタルシスさんにも明日会えるよ。」
 
「明日は海鳴りの祠に連れて行ってくれるんでしょう?それなら今のうちに用事は済ませておかないとね。」
 
「明日海鳴りの祠に行っても訓練なんて出来ないよ。風邪がちゃんと治らなければ、オシニスさんもライザーさんも相手にしてくれないよ。体調の悪い相手とは訓練出来ないって言っていたのをちゃんと聞いたんだからね。」
 
「そうやってまた先延ばしにするつもりなの?」
 
 ウィローの口調がとげとげしくなる。また同じことの繰り返しにしたくないと思っているはずなのに、今の言葉に私の頭の中がカッと熱くなった。
 
「私が言いたいのは、今自分がどんな状態なのか、君がちゃんと理解してないってことだよ。肺炎の一歩手前なんだよ?一晩寝たって全快するわけじゃないんだ。まずは体調を万全にして、それから訓練に臨むのが相手に対する礼儀じゃないか!」
 
 同じことの繰り返しに結局なってしまった。夜の往来で思わず大声を出した私を、道行く人が怪訝そうに見ていく。
 
「待った待った!ちょっと落ち着けよ二人とも!それじゃ俺が進路を決める。まずはとにかく詰所に戻る。そして荷物を持って宿屋に行く。ウィロー、そんなに早く訓練がしたいと思っているなら、こんなところで喧嘩している暇だってないはずだぞ。クロービス、ウィローの風邪を早く治したかったら、こんなところに突っ立っているより早く移動することだ。さあ行くぞ!」
 
 カインの一喝でウィローも私も黙り込んでしまった。そして無言のまま3人で詰所に戻った。
 
「ウィロー、調子はどうだ?少しはよくなったか?」
 
 ドーソンさんもキリーさんもウィローのことをとても心配してくれていた。ハース鉱山での出来事については、オシニスさん達から一通りのことは聞いていたらしく、二人ともただ『つらかったろう。ご苦労だったな』とだけ言って、私達の肩を叩いてくれた。カインは剣士団長の話が出てももう涙ぐみはしなかった。今はやるべきことがある。私達はまず、モルダナさんの最近の様子を二人に尋ねることにした。
 
「モルダナさんか・・・。あの人には多分誰も今回の騒動なんて教える人はいないだろうな・・・。」
 
 ドーソンさんがため息をついた。
 
「知らぬが花ってこともありますからね・・・。」
 
 キリーさんの声も沈んでいる。
 
「それじゃ・・・モルダナさんは何もご存じないんでしょうか・・・。」
 
「そこまではわからんが・・・何日か前に会った時は相変わらずだったよ。『フロリア様はお元気にしておられますの?』なんてにこにこして聞いてたな・・・。」
 
「そうですか・・・。それじゃ私達は行かない方がいいんでしょうか・・・。」
 
「いや、それも不自然だろう。それに、お前達が南大陸に行ったことは知っているからな。」
 
「え、それじゃ私達は死んだことに・・・。」
 
「いや、そこまでは伝わってないらしい。この間会った時はお前達のことも聞いていたよ。『お帰りはまだですのね』ってな。だから顔を出してやれよ。きっと喜ぶよ。」
 
「そうですか・・・。」
 
「それより・・・お前達はディレンに会ったそうだな。」
 
「はい。南大陸に入ってすぐの休憩所で。」
 
「元気だったんだな・・・?」
 
「はい。自分なりのやり方でこの地を守っていくと・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
 ドーソンさんの隣で、キリーさんは涙を滲ませている。
 
「無事なら・・・いいさ。生きてさえいればきっとまた会える。あいつなら、南大陸でだってきっと立派にやっていくよ・・・。」
 
「キリーさんにすまないって言ってましたよ。」
 
「僕に・・・?はは・・・ははは・・・バカだな・・・。そんなことを考えるより・・・自分が生き延びることを考えなくちゃならないのに・・・。」
 
 キリーさんは泣きながら笑っている。
 
「ディレンらしいな・・・。」
 
 ドーソンさんが感慨深げにつぶやいた。
 
「正直なところ、あの時は複雑な心境だったよ。私の相方が死に、あいつが剣士団をやめたことで私とキリーは組むことになった。あいつが今もここにいれば私はずっと一人だったか、別な誰かと組んでいたかも知れん。まったく人の運命などわからぬものだな・・・。」
 
「でも僕はドーソンさんと組んでよかったと思ってますよ。」
 
「ははは・・・。おだてても何も出んぞ。」
 
 キリーさんの言葉に、ドーソンさんは照れたように笑った。
 
「おだててるんじゃないですよ。本当にそう思ってるんです。だから僕にとっては・・・ディレンのこともそうだけど、フェイさんのことも、複雑です・・・。」
 
「フェイか・・・。もしもあいつが健康な体だったら・・・あの二人はうまくいっていたのかもしれないなぁ・・・。いつも一緒に仕事をしていた私が、あいつの病気に気づいてさえいれば・・・助かる道もあったかもしれないと思うと、今でも悔しいよ・・・。」
 
「フェイさんてディレンのこと好きだったんでしょうか。」
 
「・・・そうだったんじゃないかと私は思うよ・・・。でもあいつはそれを絶対に口に出して言ったことはなかった・・・。それは自分がディレンよりずっと年上だからなのかと思っていたんだが・・・自分が病気で、もう助からないかも知れないとわかっていたからなのかも知れないな・・・。」
 
「フェイさんて言うんですか・・・。」
 
 思わず口を挟んだ。ライザーさんが話してくれたディレンさんの好きだった人とは、いったいどんな人だったんだろう。
 
「・・・誰かに聞いたのか?」
 
「ええ、すこし・・・。」
 
「そうか・・・。」
 
「どんな人だったんですか?」
 
「そうだなぁ・・・。見た目のことならなかなかの美人だった。でもそのほかは取り立てて言うほどのこともないような、ごく普通の女だったと思うがな。ま、剣の腕はかなりのものだったから、それが女として普通かどうかと言うことになると何とも言えんが・・・。」
 
「とても優しい人でしたよね。」
 
 キリーさんが感慨深げにつぶやいた。
 
「そうだな・・・。あいつが入ってくるまで女性剣士と言えばセルーネだけだったから、あの二人のあまりの違いに最初は驚いたものな・・・。」
 
 ドーソンさんはクスリと笑った。
 
「へえ・・・それじゃフェイさんというのは女性剣士第二号ですか。ドーソンさんと同期だったんですか?」
 
 カインはフェイさんという人に興味を持ったらしい。いや、もしかしたら、フェイさんの話を通して、ディレンさんの人となりを推し量ろうとしているのかも知れない。南大陸でカインは、ディレンさんの力量と考え方を認めながらも、フロリア様に不信感を抱く彼を信じ切ることが出来ずにいた。
 
「いや、女性剣士第二号は確かだが、入団したのは私より一年ほどあとだ。その次に入ってきたのがティールの女房のキャスリーンとポーラで、そのあとはもうぞろぞろ女性剣士が増えていったよ。」
 
「あれ?ドーソンさん、それまでは誰と組んでいたんですか?」
 
「誰とも組んでいない。ずっと一匹狼さ。」
 
「で、でも、仕事は・・・。」
 
 カインは驚いている。無理もない。カインは一ヶ月の間、相方がいないという理由だけでまともな仕事が出来ずに苛立たしい日々を送っていたのだ。
 
「私が入団した頃は、モンスターの被害はもっとひどかったんだ。ナイト輝石が発見される前だからな。王国剣士が二人ひと組なのは今と変わらなかったが、遠出する時は3人から4人でパーティを組んで出かけたのさ。だから相方がいなくても仕事は山ほどあったよ。」
 
「へえ・・・うらやましいなぁ・・・。俺なんて一ヶ月もろくな仕事が出来なかったのに。」
 
「何を言ってる。その一ヶ月をお前は訓練三昧で過ごせたんじゃないか。まったく贅沢なやつだよ。」
 
「そりゃまあそうですけど・・・それに一年は長いですよね・・・。」
 
「過ぎてみれば短かったよ。時間なんてのはそんなものだ。」
 
「過ぎてみればですか・・・。」
 
「そんなに深刻な顔をするな。それより、診療所の隣の建物にタルシスさんがいるんだが、デンゼル先生から何か聞いたか?」
 
「聞きましたけど、明日にした方がいいと・・・。とにかくウィローを早く休ませるようにってことだったので、明日にでも覗いてみます。」
 
「お、そうだったな。引き留めてすまん。はやくウィローを寝かせてやってくれ。」
 
「それじゃ、明日また来ます。ウィローの具合によってはあと一日くらいいることになるかも知れないので・・・。」
 
「明日一日?私聞いてないわよ。」
 
 ウィローがぎょっとして顔を上げ、私を睨んだ。
 
「だからそれは明日の朝、君の具合を見てから決めるよ。私の見立てが納得出来ないのなら、またデンゼル先生に診てもらえばいいじゃないか。」
 
「・・・でも明日はタルシスさんのところには絶対行くわよ。」
 
「・・・なんでウィローがタルシスさんのところに行くんだ?知り合いだったのか?」
 
 ドーソンさんが怪訝そうに尋ねた。
 
「私ね、オシニスさん達に戦用舞踏の訓練をしてもらうことになっているの。だから鎧を買いに行くのよ。」
 
「・・・は・・・?」
 
「君が・・・訓練・・・?」
 
 ドーソンさんもキリーさんも、ぽかんとしてウィローを見ている。
 
「そうよ。昨日城下町の詰所で会った時に、ちゃんとお願いして了解をもらっているの。本当は今日、一緒にここに着いて鎧を買って、すぐに海鳴りの祠に向かう予定だったのよ。でも私が風邪をひいてしまったから・・・。」
 
「へぇ・・・。なぁんだ。やっぱり木登りの得意なおてんば娘のままじゃないか。さっき会った時はすっかり大人の女性の雰囲気だなぁなんて思ったけど、やっぱり君は変わらないね。」
 
 キリーさんはおかしそうに笑った。ドーソンさんは『笑っちゃ悪い』と言いながらも、やっぱり声を殺して笑っている。
 
「あ、あら、もう木登りはしないわ・・・。それに・・・もう22歳だし・・・そんなに笑わなくても・・・。」
 
 ウィローが泣き出しそうになる。同じことを私が言ったら、きっと泣くより先に怒るくせに・・・。
 
「ごめんごめん。君が変わらないのがうれしくてね。」
 
「私もだ。久しぶりに君に会えて懐かしくてなぁ。私がカナに赴任していたのはもうだいぶ前だから・・・。」
 
「そうね・・・。私フェイさんていう人のことはよく知らないわ。カナに一緒に来たことがあったかしら?」
 
「う〜ん・・・。もしかしたらなかったかもしれんなぁ。あのころは今ほどコンビ主体での活動にこだわっていなかったからな。特に南大陸へ渡る時は、その時だけのパーティで行動したりすることもあったんだ。それに入団年数が一年違うと言うことは、私が南大陸に赴任出来るようになってもその時点でフェイはまだ向こうには行けないわけだから、どこに行くにも二人で行動出来るようになるまではだいぶかかったよ。そのあと私達はこの村の常駐剣士になってしまって、それ以来カナには行ってないからな。君がフェイを知らなくても無理はない。」
 
「そう・・・。南大陸は危険なところだって、住んでいた頃はそんなこと考えなかったけど、外から見ると確かにそのとおりよね・・・。私は、この大地に一刻も早く本当の平和を取り戻したいの・・・。」
 
「それがデールさんの願いだったのか・・・?」
 
「私はそう思ってるわ。」
 
「なるほどな・・・。それでオシニス達に頼んだのか。」
 
「そうよ。あのお二人に相手をしてもらえたら、きっともっと強くなれるわ。」
 
「それなら、薬を忘れず飲んでぐっすり眠って、体調を万全にしてから訓練に臨むことだな。クロービスが薬草に関して造詣が深いことは君のほうがよく知っているだろうから、ちゃんと彼の言うことを聞くんだぞ。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 ウィローは黙っている。それほど私の言うことを聞きたくないらしい。でも今の私は、もっと別なことが気になっていた。
 
「あの・・・二人とも驚かないんですか?」
 
「なにを?」
 
 ウィローがオシニスさん達の訓練を受けようとしていることを、ドーソンさん達は平然と受け止めている。
 
「ウィローが・・・オシニスさん達の訓練を受けるなんて・・・。」
 
「いや、驚いたさ。驚いたけど・・・君達と一緒にずっと旅して来たなら、いつそう言い出してもおかしくないと思ったからさ。まあその・・・いきなりオシニス達にと言うのはいささかレベルが高すぎやしないかと思わないわけじゃないけど・・・どうせウィローのことだから、向こうで君達と訓練していたんだろう?」
 
「ええまあ・・・。」
 
「それならあいつらと手合わせしても大丈夫だよ。なんだか楽しみだな。」
 
 キリーさんは楽しそうだ。私はそのことでずっと心配のし通しだというのに・・・。
 
「そうだなぁ・・・。ウィローは後ろに控えて守ってもらうのが一番苦手だったからな。いつだったか・・・私がカナに赴任していたころだからもう何年前かなぁ・・。イアンやロイ達と遊んでいてけんかを始めたのは・・・。」
 
「あ・・・そ、それは・・・。」
 
 ウィローは赤くなっている。
 
「あのころ流行っていた冒険小説をまねて、ウィローをお姫様に仕立ててロイとイアンが助け出すわけだったんだが、待っているだけなんてつまらないとウィローが怒り出してなぁ。あまりの剣幕にイアンとロイが私のところに仲裁を頼みにきたくらいだ。私も困ってしまったよ。ウィローは怒って木に登ったきり降りてこないし、イアンとロイは半べそだし、一緒にカナに赴任していたほかの連中は、ああなったウィローの機嫌を直せる自信がないと逃げ腰だし・・・。」
 
「だって・・・あの時は・・・二人とも剣で戦っているところがすごく楽しそうで・・・なのに私だけ『牢屋』の場所から出られないんだもの・・・。」
 
 ウィローは口を尖らせている。なるほど、ウィローの頑固さが筋金入りだということがよくわかった。
 
「ははは。すっかり大人になったと思っていたが、そうやって口を尖らせるところなんかは昔のままだな。しばらくぶりに会えてうれしかったよ。さあ、もう遅いから、宿屋に行け。部屋はさっき頼んでおいたからな。」
 
「え?部屋を取っておいてくれたんですか?」
 
「ああ。風邪をひいている者がいるから部屋をよく暖めておいてくれと言っておいた。もう暖まっているころだろう。ここに泊めてやれれば一番いいんだが、こんな狭いところではなぁ・・・。」
 
 ドーソンさんは詰所の中をぐるっと見渡し、肩をすくめてみせた。
 
「わかりました。ありがとうございます。明日また来ます。さあ、行こう。久しぶりに乾いたベッドに寝られるな。」
 
 ドーソンさん達に別れを告げて、私達は宿屋『潮騒亭』へと向かった。
 
「ここは宿酒場なんだよな。うるさくなきゃいいけど・・・。」
 
 カインが心配そうにつぶやいた。温かくしてゆっくり眠らなければならない病人がいるのに、酔っぱらいの嬌声などが聞こえてきたのでは、よくなるものも悪くなりそうだ。でも扉の前に立っても何も聞こえてこない。
 
「このご時世では、酒を飲んで騒ぐ気にもなれないってことか・・・。」
 
 カインがつぶやきながら扉を開けた。中には客が何人かいて、ビールを飲みながら話をしている。だが、以前来た時とは比べものにならないくらい静かだ。
 
「こんばんは。さっきドーソンさんから部屋を頼まれていると思うんだけど・・・。」
 
 カインの声にカウンターにいた宿屋の主人が顔を上げた。
 
「おやいらっしゃい。久しぶりだね。何でも遠くの仕事に行っていたらしいけど、いつ帰ってきたんだい?」
 
「昨日だよ。」
 
 カインが答える。この村の人達は、私達が遠いところへの任務に赴き、ずっと留守にしていたと言うことしか知らないらしい。
 
「そうか。疲れたろう?剣士団のことはいろいろ噂を聞いたけど、俺は剣士団を信じてるよ。この村の常駐剣士には世話になっているからな。だから宿代は、今まで通りただでいいよ。いい部屋を用意しておいたから、ゆっくりしていってくれよ。」
 
「でももう王宮から補助は出ないんだろう?赤字になっちまうじゃないか。」
 
「このご時世だ。王宮から補助が出たって赤字だよ。それでも何とかやっていけてるんだから、あんたらが気にする必要はないさ。それより、あんたらの部屋にお客さんが待ってるよ。」
 
「・・・客・・・?」
 
「ああ。この村の学校のグラニード先生の姪だそうだが・・・名前はなんて言ったかな・・・。」
 
 宿屋の主人が首をかしげた。いやな予感がしてきたところに、当の『グラニード先生の姪』が二階から駆け降りてきた。
 
「クロービス!お疲れ様。やっとついたのね。待ちくたびれたわ。」
 
 エミーはカウンターの前で私に抱きつき、そのままひょいと顔を上げてウィローを見た。
 
「あらウィローさん、ずいぶん顔色がいいわよ。よくなってよかったわ。これでもうクロービスの手を煩わせずにすみそうね。」
 
 顔は笑顔だが、その言葉から千本ものとげが突き出ているような気がした。
 
「エミー、私は別に煩わしいなんて思ってないよ。そんな言い方しないで。それに、君はグラニード先生の家に泊まるんだろう?どうしてこんなところにいるんだ?」
 
 それでなくてもさっきウィローと言い争いをしたばかりだというのに、これ以上こじらせたくない。でもすでにウィローが今の言葉にカチンときていることはすぐにわかった。
 
「だってあなたに会いたかったんだもの。本当はずっとあなたと一緒に歩いてきたかったけど、ロゼさんのことも心配だったし、それに、あなたには大きなお荷物があったみたいだしね。」
 
 言いながらエミーはまたウィローを横目でちらりと見る。そしてすぐに目をそらす。エミーがウィローを貶めたいのか挑発したいのか、意図がよくわからない。でもここで私が黙っていてはまずいことだけはわかる。
 
「とにかく離れてくれないか。ウィローの具合が悪いのは変わらないんだよ。君とここで話している時間はないんだ。」
 
 出来るだけ抑揚のない声で話すことを心がけて、エミーの肩をつかんで押し戻し、体を離した。
 
「それならウィローさんを寝かせてくればいいわ。それからゆっくりお話し出来るじゃないの。」
 
 エミーは一歩も譲ろうとしない。やはりこんな穏やかな物言いではエミーを遠ざけることは出来ないらしい。腹をくくって冷たく突き放す言葉を考えようとした時、宿屋の扉が開いた。
 
「やっぱりここにいたのね。」
 
 入ってきたのはパティだった。エミーは振り向き、いたずらが見つかった子供のような顔でパティを見つめている。
 
「いきなりいなくなるんだもの、心配するじゃないの!」
 
「だって退屈だったんだもの。買い物なんて明日だっていいじゃないの。」
 
「そうはいかないわ。グラニード叔父さまの家だって特別余裕があるわけじゃないのよ。そこに私達が3人もお世話になることになってしまったんだから、身の回りのものくらいちゃんと自分でそろえるのが礼儀じゃないの。ロゼも心配しているわ。さあ帰るのよ。」
 
「それなら気を使わなくてすむ方法があるわよ。」
 
 エミーがニッと笑った。
 
「どういうこと?」
 
 パティが怪訝そうに尋ね返す。
 
「この宿屋に泊まればいいのよ。そうすれば叔父さまに迷惑をかけなくてすむし、気を使わなくていいし。ね?そうしましょ。」
 
「バカ言わないでよ。ずっと宿屋に泊まり続けられるほどお金は持ってないわよ。それに、叔父さまは私達が自分のところに来ずに宿屋に泊まっているなんて聞いたらどう思うでしょうね。当然父さまにも連絡が行くわ。私はそんなことで父さまを怒らせるのはごめんよ。」
 
「父さまかぁ・・・。」
 
 エミーがうんざりしたように眉をひそめた。『カタブツエヴァンズ』の異名をとるエヴァンズ管理官は、娘達のしつけにも厳しいようだ。それは無論親としての愛情から来ているのだろうが、どうやらエミーにはその思いがちゃんと伝わっていないらしい。
 
「さあ帰るのよ。カイン、クロービス、ウィローさん、お騒がせしてごめんなさいね。」
 
「クロービス、また明日ね。」
 
 怒ったパティの顔と対照的にニコニコと笑顔のエミーは、私に手を振りながら宿屋を出て行った。
 
「ふぇ〜・・・やっと引き上げてくれたか・・・。」
 
 扉が閉まると同時にカインがため息をついた。
 
「君にも迷惑かけてるね・・・ごめん・・・。」
 
「別にお前のせいじゃないさ。それより、まずは部屋に案内してもらおうぜ。クロービス、お前はウィローの部屋まで荷物を持ってやれよ。」
 
 カインと私の部屋についてから、私はウィローの荷物を受け取り、ほどよく暖められたウィローの泊まる部屋へと案内してもらった。
 
「何か必要なものはありますか?あったら遠慮なく言ってくださいね。」
 
 案内をしてくれた宿屋の看板娘ケイティが、笑顔でウィローに声をかけた。
 
「あの・・・手足を洗いたいんですけど、お湯とかはここに持ってきてもらうわけにはいかないかしら・・・。」
 
 ウィローが遠慮がちに尋ねる。風呂に入ってはいけないというデンゼル先生の注意を、どうやらちゃんと守るつもりらしい。
 
「大丈夫です。えーとね、こっちの扉が・・・ほら、ここでお湯を使えるようになってるんです。」
 
 ケイティは微笑んで、部屋の奥にある扉を開けた。そこは風呂場のように木で出来たすのこが置いてあり、たらいなどを置く土間もあった。人が一人、しゃがんで体を洗ったりする程度の広さは充分にある。
 
「へぇ・・・こんな作りになっていたなんて知らなかったな・・・。」
 
 この宿屋には何度か来たが、泊まったのは研修の時一度きりだ。その時はこんな扉があったなんて気づかなかった。
 
「全部の部屋にあるわけじゃないのよ。それに普通はこんなところは使わないもの。ここに大きなたらいを持ってきてお湯を入れれば、体を洗ったりするくらいのことは出来るの。ここを使うのは、ほとんど女の人ばかりよ。」
 
「なるほどね・・・。」
 
 この宿屋には何人かまとまって入れる大きなお風呂があるが、そこに入れないような時に使うと言うことらしい。確かに男には縁のないことだ。
 
「それじゃ、お湯は食事のあとにお持ちします。えーと、食事はどこでするの?風邪をひいているなら、下のフロアよりもここでとった方がいいかしら。もう少しするとけっこううるさくなるから・・・。」
 
「それじゃ、私達の部屋にみんな運んでもらえるかな。そこで3人で食べるよ。」
 
「わかりました。それじゃ私は準備してくるわ。少し時間がかかりますのでお待ちくださいね。」
 
 明るい声と笑顔を残して、ケイティが部屋を出て行った。私はウィローの荷物を肩から降ろし、ベッドの脇に置いた。
 
「それじゃ行こうか。カインが待ってるよ。・・・歩ける?」
 
「大丈夫よ・・・。」

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