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第3章 故郷との別れ

 
 墓地の中では、ドリスさんが墓をきれいに掃除している。
 
「よお、クロービス。ここを出るんだってな。寂しくなるな。」
 
「はい・・・。今までいろいろと、お世話になりました。」
 
「なぁクロービス・・・。人間、ああいうふうに、苦しまずに死ぬのが一番いいんだ。お前さんが死の間際に枕元にいられなかったのが、少し残念だろうけど・・・お前と最後まで一緒に暮らせて、サミル先生は嬉しかったと思うよ。」
 
「・・・はい。ありがとうございます。」
 
 父の墓に手を合わせ、私はイノージェンの家に向かった。
 
「まあ、クロービス、いらっしゃい。この島を出るそうね・・・。イノージェンはさっきから姿が見えないのよ。」
 
「さっき・・・岬の方で会ったよ。」
 
「そう・・・。行ってしまうのね・・・。今まで・・何人もの若者が、育ててくれた両親を捨てて、王国へと飛び出していったの。だけど・・あなたはお父様が亡くなるまで、一緒に暮らしていた。あなたは意識していないだろうけど、このことはとても意義のあることなの。そして今、あなたをこの島に縛り付けるものはなくなったわ。クロービス、あなたがいなくなるのは寂しいけど、今こそあなたは、この島を出るべきだと思うわ・・・元気でね。」
 
「お世話になりました。おばさんも体を大事にしてね。」
 
「ありがとう。それからこれ、お弁当よ。こっちが今日の分、こっちが明日の分。あんまり先までのを作ったら悪くなってしまうから、あとはほら、干し肉とパンよ。ブロムさんの分まであるわ。ちょっと重いかも知れないけど、持っていってね。急な話だったから、イノージェンと二人で大急ぎで作ったのよ。」
 
「・・・ありがとう・・・。いつも私の母さん代わりになってくれて・・・ありがとう・・・。おばさん・・・元気で・・・。」
 
 イノージェンの母さんの心遣いが嬉しくて、涙が流れる。
 
「ええ。ほらほら泣いては駄目よ。せっかくの門出なんだから。エルバール王国は・・・いいところだわ。私は王国でつらいことがあったけど、でもあなたのような前途ある若者にはふさわしい、とても華やかなところよ。向こうで・・・必ず幸せを見つけるのよ。」
 
 涙が止まらず、私は小さな子供のように一生懸命頷いた。
 イノージェンの家を出たあと、そのほかの島の人達に挨拶をすませて、私はブロムおじさんの家に入った。
 
「おお、クロービス。決心はついたのか。」
 
「うん。みんなに挨拶もすませてきたよ。それからこれ、イノージェンの母さんが弁当を持たせてくれたんだ。今日の分と明日の分と、それから向こうに着くまでもっとかかるようなら干し肉とパンだって。」
 
「エレシアさんが・・・?そうか・・・。最後まで世話をかけるな・・・。あとで私からも礼を言っておくよ。」
 
「うん、それじゃ・・・行こう。」
 
「・・・本当にいいんだな?」
 
「いいよ・・・。もうここにいる・・・理由もないし・・・。」
 
 理由が本当にないわけではない。だがもうここにとどまる気持ちはなくなっていた。ブロムおじさんは黙って私を見つめていたが、やがて自分の荷物を背負うと家のドアを開けた。
 
「・・・よし、じゃあ、村はずれにある古井戸に向かうんだ。」
 
「あの古井戸が?」
 
「そうだ。あれこそがエルバール大陸とこの島を結ぶ海底洞窟への入口だ。」
 
 私たちは村はずれのサンドラさんの家の前に来た。この家の裏手に井戸があるのだ。サンドラさんが家の前に立っている。
 
「クロービス、あんたここを出るって本当なのかい?」
 
「本当だよ。これからすぐに出るんだ。」
 
「・・・後悔しないのかい?」
 
「サンドラさん、あんまりクロービスの気持ちを乱すようなことは言わないでくれないか。せっかくの決心が鈍ってしまっては困る。」
 
 ブロムおじさんが慌てて口を挟む。
 
「うるさいね!あたしの言葉一つで鈍る程度なら『決心』とは言わないよ!クロービスだってもう20歳だろ。自分のことくらい自分で決められなくてどうするんだい!」
 
「そ、それは確かにそうなんだが・・・。」
 
 サンドラさんの勢いに押されて、ブロムおじさんが口ごもる。
 
「・・・多分サンドラさんの言いたいことはわかるけど・・・もういいんだ。私では駄目なんだよ。」
 
「・・・そうかい・・・。ねぇ、クロービス、あたしの楽しみはあの娘の成長と幸せなんだよ。でも仕方ないね。こればっかりは気持ちの問題だからね・・・。」
 
 サンドラさんが、イノージェンの母さんの出産を助けるために、多額の報酬と引き替えにこの島での生活を選んだのだと言うことはイノージェンに聞いて知っていた。その後、島にやってくる女性達の出産をほとんど一人で請け負っている。たとえお金のために不本意にこの島に移り住んではいても、彼女にとって、自分が取り上げた赤ん坊の成長を見るのは楽しみなのだろう。そしてみんなに幸せになってほしい。
 でも・・・私ではイノージェンを幸せに出来ない。彼女の心は私にはない。
 
「・・・とにかく体に気をつけてね。そしていつかはこの島に戻ってきておくれ。」
 
「ありがとうございます。サンドラさん、あなたも元気で。」
 
 私は笑顔を作り、手を振った。そしてサンドラさんの家の裏手にまわり井戸の前に着いた。
 いよいよ出発だ。もう戻れない・・・。
 
「さっきの話はイノージェンのことか・・・。」
 
 ブロムおじさんがぽつりとつぶやく。
 
「うん・・・。でももういいんだ。」
 
「そうか・・・。さてと、今、ロープを降ろすからな。少し待ってろ。」
 
 そう言うと、おじさんは暗い井戸の底に向かって太いロープを降ろした。
 
「よし、行くぞ。」
 
 注意深く、井戸の中に降りていく。足場もあり、この井戸が通路として常に使われていることがわかる。だからここはいつもきれいに手入れされていたのか。
 底に降りると、空気がひんやりとしている。
 
「ロープはそのまま置いておけ。あとでダンあたりが取りに来るだろう。」
 
 ブロムおじさんが荷物から古びたランプを取り出して火をつけ、私たちは、暗い洞窟の中へと踏み出した。
 
「ここの洞窟は海底をつたってエルバール北大陸まで続いている。ここではモンスターが出るぞ。私が前を歩くことにする。武器はきちんと装備するんだぞ。常に周囲への警戒を怠るな。ほんの少しの気のゆるみが命取りになる。」
 
 私は父の形見の剣を取りだし、腰に下げた。鞘から抜き、いつでも構えられるようにしてブロムおじさんのあとをついていく。
 洞窟の中はしんと静まりかえっている。私達の靴音だけが響き渡っていた。冷気が肌を刺す。厚手の服の上にレザーアーマーを着ていても、体が冷えてくるのがわかった。
 
「寒いか?」
 
「うん・・少し。でも大丈夫だよ。上着も着ているし。」
 
「そうか・・・。だがあんまり我慢するな。つらかったら言ってくれよ。」
 
「わかった。ありがとうおじさん。」
 
 その時、突然何かの羽音が洞窟内にこだました。
 
「くそっ!バットジャイアントだ!」
 
 おじさんが風水術の「慈雨」を使うが、狭い洞窟の中で壁にぶち当たり、私たちの方まで鋭い水滴が飛んでくる。幸いモンスター達は撃退したものの、自分達まで痛い目に遭ってしまった。
 
「クロービス、すまん。ここでは風水はだめだな。余程うまく操れるものでないと・・・。」
 
 おじさんはそう言うと、治療術の呪文を唱え、傷を治してくれた。
 
「あれ、何か落ちてる。」
 
 私は足下に落ちていた妙なものを拾い上げた。
 
「なんか・・・奇妙な・・・腕輪って感じだな。」
 
「ほぉ、それはさっきのコウモリ達が落としたものだろう。どこかから集める習性があるらしい。そう言うものは拾っておけ。城下町に着いたら道具屋ででも売れば、結構な金になるぞ。」
 
「へんなものを持っているんだね、モンスターって言うのは。」
 
 私にはモンスターとの戦闘経験など無い。父に連れられて山歩きをした際に、何度か大型動物に襲われかけたりしたことはあるが、大抵は弓で威嚇すれば逃げていく。もちろん、山の動物達はこんな妙なものを持ち歩いたりはしない。
 
「そうだな・・・。中にはゴールドを持っている奴らまでいるぞ。」
 
「ゴールド?へえ、モンスターがゴールドなんて何するんだろ。」
 
 ピカピカのゴールドを抱えて歩くモンスターを想像して、私は思わず吹き出した。
 
「さてなぁ。買い物に行く訳でもないしなあ。」
 
 ブロムおじさんがめずらしく冗談を言ったその時、足下に何かがしゅっと音をたてて飛んできた。
 
「クロービス!よけろ!」
 
 私は無意識に何かが飛んできたのとは反対方向に飛んでいた。
 
「サソリだ!」
 
 バカでかいサソリが2匹、いつの間にか足下に這い寄ってきて、私の足を刺そうとしたのだ。とっさに私は持っていた剣を振り下ろした。
 
「ギャッ!!」
 
 気味の悪い声を上げてサソリのお化けは暴れる。ブロムおじさんは残りの一匹のしっぽをダガーで切り落とした。モンスター達は逃げていった。
 
「あれは・・・スコピオロードと呼ばれている大型のサソリモンスターだ・・・。危なかったな。あいつに刺されたりしたら大変なことになる。」
 
ブロムおじさんはふぅっと一息つくと、私のほうを見た。
 
「クロービス、お前は毒の中和の治療術は教わったことがあるか?」
 
「大分前に父さんから教えてもらったけど、その時はまだ唱えられなかったんだ。今は・・・どうかな・・・。」
 
「試しに唱えて見ろ。」
 
 私は毒の中和の呪文を唱えてみた。教わったばかりの時はなかなか呪文は出てこない。すらすらと唱えられるようにならないと、効き目はない。素早く唱えられるようになればなるほど、効力も増す。呪文はすらすらと出てきた。以前よりも自分の精神が成長したと言うことなのだろうか。
 
「よし、それなら十分だ。スコピオロード程度のモンスターの毒なら、たちどころに消し去ることが出来る。さてと、先を急ぐぞ。」
 
 私たちはまた歩き始めた。道中、ブロムおじさんがぽつりぽつりと話し始めた。
 
「私とサミルさんには王国で暮らしていけない理由があった・・・。だが、それはクロービス、お前には何の関係もないことだ。」
 
 王国で暮らしていけない理由・・・。それは父の日記の中にあった『昔の大きな罪』のことなのだろうか・・。だが、それをおじさんに訊いたところで、素直に教えてはくれないだろう。
 
 ガシッ!
 
 突然私の腕に何かが当たった。
 
「うわっ!」
 
 足元を見ると錆びた短剣が落ちている。私の腕からは血が流れていた。
 
「クロービス!大丈夫か!」
 
「うん!なんとか!」
 
 前方の闇の中に先ほどと同じサソリのお化けが2匹と、赤い顔の子鬼のような生き物が見える。
 
「インプめ!よくも・・・!」
 
 ブロムおじさんは叫びながら、ダガーで斬りかかった。
 
「キーッ!」
 
 インプと呼ばれた赤い顔の子鬼は奇声を上げながら逃げていく。サソリのお化けは、私が放った矢で2匹とも仕留めることが出来た。
 
「少しは戦闘に慣れてきたようだな。」
 
「そうだね・・・。でもモンスターとは言え、殺すのはなんだか気が重いね。」
 
「仕方ないさ。殺らなければ殺られる。もっとも王国剣士団あたりは不殺が信条らしいがな。」
 
「不殺?」
 
「ああそうだ。どんなに凶悪なモンスターでも殺してはならない、と言うことらしい。それで自分が殺されたらどうしようもないと思うがね、私は。ま、フロリア様のお考えだ。私のような一般庶民には理解できないシロモノさ。それよりお前の傷を見せてみろ。」
 
 そう言うと、ブロムおじさんは血が出ている私の腕をとり、袖をまくると、治療術の呪文を唱えはじめた。傷はみるみる塞がり、痛みは薄れていく。
 
「お前は治療術はどの程度まで使えるんだ?」
 
「自然の恩恵というのと、さっきの毒の中和くらいかな。」
 
「なるほどな。なんの精神修養もなしにそれだけ使えるというのはたいしたものだが・・・。呪文書はあるのか?」
 
「父さんの荷物袋に入ってた。治療術と風水術のが。」
 
「そうか・・・。それじゃ、呪文の憶え方はわかるよな。」
 
「わかるよ。」
 
「よし、それじゃ、憶えたものはできるだけ使って見ろ。」
 
「でもさっきおじさんが唱えた「慈雨」みたいに暴走しない?」
 
「お前が唱えた呪文程度では大丈夫だ。あういうことは、もっと力がついてから心配すればいいことさ。さあ、どんどん行くぞ。」
 
 ひとしきり歩くと、少し広い場所に出た。
 
「おそらくもう夜だ。今日はここで休もう。」
 
「ここで休めるの?モンスター達は来ない?」
 
「ここは大丈夫なんだ。なぜだかはわからない。だがさっきモンスターと出会ったあとしばらく歩いていた間、全然他の奴らが出てこなかっただろ?この辺だけはモンスターが嫌う何かがあるみたいだな。」
 
 私達はそこでイノージェンの母さんが持たせてくれた弁当を広げた。今日の分と言われていた分を、私達は二人できれいに平らげてしまった。とてもおいしかった。食べている最中、イノージェンの笑顔が浮かんできて、思わず涙がこぼれた。ブロムおじさんはそんな私を見ながら、黙々と食べ続けていた。
 洞窟の闇の中では、どのくらい時間が経ったのか判らない。ブロムおじさんの言うとおり、モンスターは現れず、私達は休息をとることが出来た。目を覚ますと、おじさんはもういつでも出掛けられる体勢になっている。
 
「おはよう・・・と言っても今が昼なのか夜なのか判らないがな。さてと、食事するか。」
 
 2日目用の弁当を食べながら、またおじさんが話し始めた。
 
「故郷の集落のことなど、きれいさっぱり忘れてしまうんだ。そして王国で、自由で幸福な人生を謳歌するがいい。それがサミルさんの望み・・・。人生ってのは結局平凡なのがいいもんだ・・私自身つくづくそう思うよ・・。」
 
 平凡な人生・・・。私は、父が亡くなった時から、すでにそんなものとは無縁の人生を歩みだしている、そんな気がしていた。でも自由で幸福な人生とは、人によって様々だろう。私にとっての自由で幸福な人生があればそれでいいのだ・・・。
 
ズルッ・・・ピチャッ・・・
 
 しばらく歩いた頃、どこかから何かが聞こえてくる。何だ、これは・・・。
 突然前方から赤い水がほとばしり、私達に襲いかかった。
 
「全く・・・今度はなんだ!」
 
ブロムおじさんが怒鳴る。奇妙な赤い固まりがこっちにやってくるのだ。
 
「あいつか・・・。」
 
 ブロムおじさんはそうつぶやくと私に向かって叫んだ。
 
「クロービス!炎樹だ!」
 
 私は言われるままに覚えたての呪文『炎樹』を唱えた。赤い固まりの前で突然火花が散り、炎が現れた。炎は見る間に赤い固まりを焼き尽くすと、すうっと消えていく。
 
「やったな!」
 
 ブロムおじさんが嬉しそうに叫ぶ。
 
「どうだ、クロービス。うまくいったじゃないか。あとはコントロールできるようになるまでがんばることだ。」
 
 どうやら私は、風水術『炎樹』を会得出来たらしい。
 やがて洞窟は登り坂になり、ひときわ大きな出口を抜けると、周りの風景が少し変わった。少しずつ地表に近づいているのだろうか。
 途中、突然ブロムおじさんが立ち止まる。
 
「どうしたの?早く行こう。」
 
 私は不思議に思っておじさんの顔をのぞき込んだ。おじさんの顔には苦悩の表情が表れている。
 
「クロービス・・・。すまない・・・。実は私は理由あって王国まで一緒に行ってやることができないんだ・・。ここで・・・お別れだ・・・。元気で暮らすんだぞ・・クロービス・・。」
 
「おじさん・・・。」
 
 この先の道のりを思うと、不安は数え切れない。だがいつまでもおじさんに頼ってばかりでもいられない・・・。
 
「わかったよ。今まで色々ありがとう。島に戻ったらみんなによろしくね。」
 
 おじさんは持っていたランプを黙ったまま私の手に握らせ、くるりと背を向けると今来た道を戻っていった。一緒に戻りたい衝動に駆られたが、あの島にはもう私の居場所はない・・・。
 
 私は気を取り直して先へと進みはじめた。途中何度かモンスターには遭遇したものの、風水や剣や弓を総動員して、なんとか凌ぐことが出来た。
 やがて、洞窟内を流れる空気が変わった。出口が近いのだろうか。その時突然大きな風が巻き起こり、あやうく私は後ろにひっくり返りそうになった。
 
「な、なんだ??」
 
 その風は頭の上から来たようだ。見上げると、天井いっぱいに巨大コウモリの群がびっしりと止まり、今にも急降下してこようとしている。
 
「うわ!」
 
 数が多すぎる・・・!しかし逃げるに逃げられない。
 
「クロービス!!」
 
 振り返るとブロムおじさんだ。追いかけてきてくれたのか・・。
 
「大丈夫だ!下がっていろ、クロービス!!」
 
 出口に近かったこともあって、運良く広い場所だった。おじさんの唱える『慈雨』の鋭い水滴が容赦なくコウモリ達を襲う。やがてきれいさっぱりモンスターをなぎ払うと、おじさんは大きく一つため息をついた。
 
「ふぅ・・・やれやれ。やっぱり私もエルバールまでついていくことにするよ・・。」
 
 そう言って先に立って歩き出した。嬉しかった。一人での旅が心細いということももちろんあったが、それよりもおじさんとまだしばらく一緒に歩けることのほうがもっと嬉しかった。
 やがて洞窟の出口が見えてきた。
 
「そこを出て南西に行くとエルバール城下町だ。さっさと行くぞ。」
 
 やっと私達は地表に出ることが出来た。外は眩しかった。空の色は故郷の島と大差なかったが、一面に覆われた雪に陽の光が反射してキラキラと光り輝いている。
 
「・・・さっきはすまなかったな。旅などしたことのないお前を一人で行かせようなんて・・私の頭はどうかしてたよ・・。」
 
 ブロムおじさんがぽつりとつぶやく。
 
「そんなことないよ。でもおじさんが戻ってきてくれて、すごく嬉しかったよ。」
 
「クロービス・・。」
 
 私は素直に感謝の言葉を述べた。おじさんは眼の辺りをゴシゴシとこすると、黙って歩き出した。
 
「さてと、ここら辺なら誰もいないな。クロービス、お前、さっき私が唱えた『慈雨』をここで唱えて見ろ。」
 
「ここで?」
 
「ああ、そうだ。試しにな。」
 
 私は『慈雨』を唱えてみた。瞬く間に鋭い水滴がバラバラと降り、あたりの地面に突き刺さっていく。
 
「よし、合格だ。」
 
 どうやら私は『慈雨』も使えるようになったらしい。少しずつ自分の中に自信が生まれてきた。そして父の教えどおり、それが『慢心』とならぬよう、心を引き締めようと思った・・・。
 道の途中に石碑を見つけ、ちょうど疲れてきたこともあって、私たちはそこで一休みした。もう夕方だった。私は立ち上がり、石碑を読んでみた。
 
  この地エルバールは、200年前のサクリフィア聖戦で滅びし大地。
  聖戦で生き延びた者達の手により、
  その後エルバール王朝が成立。
  その時を以てエルバール暦1年とした。
 
「サクリフィアか・・・。」
 
 私のつぶやきにおじさんは、
 
「昔のことだよ、聖戦なぞ。我々のあずかり知らぬ事さ。・・・ここで少し休んだら、キャンプできそうな場所を探そう。」
 
「そうだね。」
 
 その時、道の遙か向こうから、誰かがやってくる音が聞こえる。おじさんははっと身構えると、急いで荷物を担ぎ、いつでも立ち上がれる体勢をとった。やがてやってきたのは、深紅の鎧に身を包み、美しいプラチナブロンドの髪をなびかせ、細身の体に似合わぬような長剣を腰に下げている剣士だった。
 
「どうなされた、旅の方。」
 
 声はなんと女性の声だ。
 
「あ、少し休んでいたのです。疲れていたもので。」
 
 私は答えたが、剣士はしばらく私たちを見つめると、
 
「私は王国剣士セルーネと申す者。詮索するつもりはないが、こんな時間までこの極北の地を旅するとは、ちと酔狂が過ぎませぬか?ここから城下町に向かう途中に山小屋がある。今夜はそこで過ごされるがよい。へたに野宿などしようものならば、明日の太陽は拝めないと思っていてよいだろう。」
 
 剣士はそう言うと、私たちから離れていった。夜が近くなるにつれて、寒さが増しているのは私にもわかっていた。
 
「おじさん、その山小屋に行こう。」
 
 山小屋に着くと、誰もいない。いくつかの棟があるが、元々こんな辺鄙なところを旅するものなど滅多にいないのだろう。あたりはもう闇に覆われていた。私たちは中にはいると、暖炉に火をいれて一息ついた。
 
「エルバール王国というのもたいしたものだな。通るかどうかもわからない旅人のためにこんなものまで用意するとは。」
 
 ブロムおじさんが部屋を見回しながら感心したようにつぶやいた。
 
「そうだね・・・。さっきの人は王国剣士って言ってたけど、このあたりを見回っている人なんだね、きっと。」
 
「ああ、そうだな・・・。女のようだったが、かなりの手練だな・・・。私は動けなかったよ・・・。」
 
 もし動けたら・・・、おじさんは逃げるつもりだったのだろうか・・・。父が犯したという大きな罪、そのことにおじさんも関わっているのか・・・。
 
「とにかく食事だ。食べたらもう寝るぞ。明日吹雪にでもならない限り朝早くから出かけないと、明日のうちに城下町に着けなくなる。」
 
 そう言うとおじさんは、荷物の中から持ってきた食料をテーブルの上に並べた。弁当はほとんど食べ尽くしていたので、あとは干し肉やパンなどしかなかった。私たちは食事を終えると、ベッドの中に潜り込んだ。
 
「クロービス・・・明日はもう少し風水を教えてやろう。せめて基本元素の呪文くらいはすべて教えないとな・・・。」
 
「基本元素?」
 
「ああそうだ。お前が今日唱えた『炎樹』は火、『慈雨』は水、そのほかに雷の呪文がある。これらの基本を覚えておけば、やがてもう一つランクが上の呪文なども少しずつ憶えられるだろう。」
 
「おじさんは風水も得意なんだね。」
 
「私のは・・・みんなサミルさんの受け売りさ・・・。さ、もう寝るぞ。お休み。」
 
 そう言うとおじさんは布団をかぶってしまった。
 島にいた時は、父から教えてもらった治療術をたまに使うことがあるくらいだった。モンスターもいなかったし、風水も呪文を教えてもらっただけで、実際に使うのは今回が初めてだった。父について山に薬草を採りに入ったり、時たまダンさんの手伝いをして材木を切り出す仕事を手伝ったり、それ以外はほとんどイノージェンや、グレイやラスティと島の中を散歩したりおしゃべりしたり・・・。
 
(あの日々にはもう戻れないんだな・・・。)
 
 振り切ったはずなのに涙が込みあげる。
 父の死顔が脳裏に浮かんだ・・・。安らかな死顔・・・。自分の人生に悔いがないから安らかだったのか、それとも・・・死ぬことで安らぎを見いだしたのか・・・。そして、1年前に父が戻った日の不思議な夢。私に気づかれないように、罪をあがなう・・・。それが今回の父の死だとしたら、父はどうやって死んだのか・・・。そしてなぜあの楽譜を遺したのか・・・。謎は深まるばかりだ。だがこの日一日の旅の疲れが、やがて私を深い眠りへと誘い込んでいった。
 
 翌日は幸いにも晴れていた。
 私たちは早い時間に起き出すと簡単に食事を済ませ、山小屋を出た。しばらく歩いたところでおじさんが「百雷」という呪文を覚えるようにと私に言ってきた。父の荷物袋の中にある呪文書を見て、私はその呪文をすぐに覚えることが出来た。少し不思議だった。初めて読む呪文がこんなにはっきりと頭の中に入っていくとは。
 
「よし、唱えて見ろ。」
 
 おじさんに言われるまま私は呪文を唱えた。突如雷鳴が響き渡り、稲妻が地面に炸裂する。あまりの威力に唱えた私のほうが驚いてしまった。
 
「・・・たいしたものだな・・。これだけの力があるとは・・・。さすが、サミルさんの息子だな、お前は。」
 
 おじさんはそう言うと、感心したようにふぅっと大きくため息をついた。
 
「だが、これからだ。今まで憶えた呪文をコントロールして、自在にエネルギーを操れるようにならないと、次のステップには進めない。お前なら出来る。がんばれよ。」
 
「ありがとう、おじさん。」
 
 そして私たちは、先を急いだ。王国の北の大地を抜けると、突然目の前に緑の草原が拓ける。そこで道は二手に分かれていて、右側の道の遠くに町の影のようなものが見えた。
 
「あれがエルバール王国の城下町だ。」
 
 おじさんはそう言って町の影を指さした。
 
「こっちの道は何?」
 
 私は左側の道を指さして尋ねた。
 
「こっちは・・・確か、漁り火の岬へと通じているはずだ。私は行ったことがないがな。さあ、私たちの目指すのは城下町だ。さっさと行くぞ。」
 
 やがて城壁が見えてくる。
 どうやらこの町は、王宮を中心に、南側に向かって扇状に開けているらしい。私たちは、3つあるという町の門のうち、西の門の近くまで来ていた。ここから見ると、門の前には見張りの剣士が立っているのがわかる。
 そこまで来ると、ブロムおじさんはぴたりと立ち止まった。私はどきりとした。今度こそ本当におじさんと別れなければならないのか・・・。
 おじさんは城門を眺めて指さしながら、
 
「ここが、この世界の中心地であるエルバール王城の城下町だ。」
 
 そう言ったが次の瞬間、
 
「・・・ムッ!!?」
 
突然おじさんは辺りを油断なく見回すと、驚いている私に気づき、
 
「・・ああ、い、いや、別に何でもないんだ。いろいろと昔を思い出してな。」
 
そう取り繕って見せたが、私の心にはまた新たな不安が広がっていた。
 
「あのな、クロービス。この城下町に、私の古い知り合いがいる。彼を訪ねてこの手紙を渡せば、当面の住居の面倒などは見てくれるだろう。彼は教会の隣の家に住んでいるはずだ。訪ねてみなさい。いいな、教会の隣だぞ。」
 
 そう言ってブロムおじさんは、裏に自分の名前が書いてある封筒を私に渡した。
 
「うん、わかったよ。」
 
 私は努めて明るく返事をした。おじさんとの別れが近づいている・・・。
 
「それじゃ・・何か・・よい仕事を見つけて・・、そして・・、幸せな人生を送ってくれよ・・・。今度こそ本当にお別れだ・・。」
 
「おじさん・・・。」
 
 かける言葉が見つからない。独りになる心細さと不安と・・・。
 
「今まで・・私もお前のことを、息子のように思っていたよ・・。・・元気で・・な。」
 
 そういうと、ブロムおじさんはくるりと踵を返し、今来た道の方へ駆け出した。
 
「おじさん・・・!ありがとう!!元気でね!」
 
 私はそれだけをやっと叫ぶと、走り去るブロムおじさんの後ろ姿をただ黙って見送った。私にとっては肉親同様の人・・・。もう会えないのだろうか・・・。
 私はそのまましばらくそこに佇んでいた。やがてあたりには夕闇が漂い始める。前に進まなければならない。私は勇気を奮い起こして振り返った。すぐそこにそびえる城下町の城壁。
 
(私はここで生きていくんだ。いや、いかなければならないんだ。)
 
 そう自分に言い聞かせ、今度こそ本当にたった独りで、エルバール城下町への門に向かって歩き始めた・・・。
 
 門の前まで来ると、見張りに立っていた剣士が私に声をかけてきた。
 
「ようこそ。エルバール城下町へ。おひとりか?」
 
「はい。今着いたばかりです。」
 
「そうか。ここはエルバール城下町の西門だ。ここから入ると城下町の住宅地区にでる。真ん中にある大きな通りを抜けていくと商業地区への入口につくから、買い物や宿泊などはそちらへ行かれるがよい。この町は国王フロリア様のお膝元であり、我々王国剣士団の本拠地のある場所。治安は他の町や村とは比べものにならないくらい良いはずだが、そうは言っても万全ではないというのが現状だ。裏通りには近づかれるな。それと、大通りを歩く時にも懐の中や荷物には気をつけられよ。」
 
 その剣士は丁寧に教えてくれる。これも剣士団の仕事なのだろうか。
 
「ありがとうございます。」
 
 礼を言って町の中に足を踏み入れる。たくさんの人が往来を行き交う。住宅地区と言うだけに、子供達が家の前で思い思いの遊びをして歓声を上げている。子供達の母親らしき女性達があちこちでおしゃべりをしている。きれいに敷き詰められた石畳。美しく塗られた家々の壁や屋根。私がいた島とは比べものにならない賑やかさだ。これで商業地区に行ったら、どれほど煌びやかな町並が広がっているのだろう・・・。
 私はこのまま、まっすぐこの通りを抜けて商業地区に行ってみたいと思ったが、ブロムおじさんが紹介してくれた家にまず行かなければならない。教会の尖塔が遠くにひときわ高くそびえている。私はそこを目指して歩きはじめた。
 
 その家はすぐにわかった。私は家の前で深呼吸すると、ドアを開けて声をかけた。
 
「こんにちは。」
 
「はーい。」
 
 中から出てきたのは、50年配の男性だった。体ががっちりとして、肉体労働者と言った雰囲気だ。
 
「どちら様?」
 
「あの・・・初めまして。私はクロービスと申します。ブロムさんからこちらを聞いて、これを・・・。」
 
 私はブロムおじさんの手紙を渡した。
 
「ほう、なるほど、ブロムさんの・・ね。ずいぶんと懐かしい人の名前だなぁ。・・・ふむふむ・・・故郷から出てきて、当面住む場所や仕事のあてがないから、しばらく世話をしてほしい、か・・・。」
 
 その男性はしばらく考え込んでいたが、やがて大きなため息をついた。
 
「うーむ・・・言いにくいのだが・・今の我が家には、食い扶持を増やす余裕は無いんだ。それにブロムはなぜ直接挨拶に来ないんだ?そもそも彼は、一切の連絡もなしに20年前に行方不明になってしまった。何かに追われていたとも言われているが・・それで、ずっと音沙汰がなかったのに、突然手紙でこういわれても困るなぁ。」
 
 20年前に行方不明に・・・。ブロムおじさんにいったい何があったのだろう。
 
「わかりました。突然お伺いしてすみませんでした。それじゃ失礼します。」
 
「うーむ、どうにも申し訳ない。解ってくれたようでうれしいよ。君のような若者ならば、必ずどこかで職に就けるだろう。このエルバールで色々探してみるといい。あと、これはささやかだけど、持っておくといい。」
 
 そう言うと、その男性は私の手に薬草を握らせてくれた。
 
「ありがとうございます。失礼します。」
 
「あ・・・うむ。すまんな。ハース鉱山の出稼ぎが終わったんで、しばらくは、休養して暮らすつもりなんだ。かなりハードな仕事だったんでね。だからしばらくはうちは収入がないんだよ。それじゃ元気でやってくれ。」
 
「ハース鉱山ですか?」
 
「鉱山は南大陸のハースという場所にあるの。ハース城で生産された、銅、鉄、ナイト輝石などが、エルバールをはじめとする各地に運ばれるのよ。」
 
 私達の会話をずっと黙って聞いていた奥さんらしい人が初めて口を開いた。私がすんなりと引き下がったので安心したらしい。考えてみれば、いきなり見知らぬ人間が訪ねてきて泊めてくれと言っても、はいそうですかと言う気にはなれないだろう。私がいた島のように、すれ違う誰もが顔見知りというわけではないのだから・・・。
 
「最近ますます仕事が厳しくなってきたんでな。給金をもらってさっさとやめてきたんだ。南大陸はモンスターの動きが活発になっていて、ここまで辿り着くのも大変だったんだよ。」
 
 ハース鉱山・・・。そこなら多分仕事もあるのだろうが、南大陸までなど行くことはできないだろう。私はもう一度礼を言ってその家をあとにした。
 隣には教会があり、その裏手にはきれいな泉があって、そのほとりに白い石碑が建っている。近づいてみると『無名戦士の墓』と刻まれていた。
 
『エルバールの平和に命を尽くした
数多くの勇者達の鎮魂を祈って・・・』
 
 この王国がここまでになるまで、数え切れない命が失われたのだろう。私は思わず石碑の前で手を合わせた。
 
「あの・・・。」
 
 振り向くと若い娘が立っている。
 
「無名戦士の墓に手を合わせてくださってありがとう。あなたはエルバールの方?」
 
 人なつっこく話しかけてくる。
 
「いえ・・・私は、さっきここに着いたばかりなんです。」
 
「まあ、そうなの。この石碑はフロリア様のお父上であられる先王ライネス様がお建てになったそうよ。王女フロリア様は、とても聡明なお方なの。しかも優しくて、国民みんなから人気があるのよ。いつも王宮暮らしだし・・・あーあ、私もああいう人生だったらいいのになぁ・・。」
 
 国王としての暮らし・・・果たしてそんなに楽しいものなのだろうか。その時、黒いローブに身を包んだ男性が近づいてきた。その男性は墓の前にひざまずき、詠うように語りはじめる。
 
「サクリフィア聖戦・・・。200年前、エルバール以前の王朝、サクリフィアが滅ぼされた戦いをこう呼びます。その後、廃墟には、やがてエルバール王国が生まれ、繁栄を築きました。だが、どんな時でも・・人々は常に不安に思っていたのです。サクリフィアを滅ぼした、あの邪悪かつ巨大なドラゴン達が復活するのではないかと・・・・。」
 
 この人は・・・もしかして『語り部』なのだろうか。
 こんな風に昔語りを話して歩くことを生業とする人達がいることを聞いたことはあるが、実際に見るのは初めてだった。『世捨て人の島』には語り部どころか、吟遊詩人も見せ物小屋も何一つ来はしない。昔エルバール王国で暮らしていた島の人達は、そんな華やかな催し物のことを島で育った私達によく聞かせてくれた。遠い目をしながら・・・。
 私は好奇心に駆られ語り部に近づいた。
 
「なにか・・・?」
 
 落ち着いた瞳。この瞳で昔を語り未来を予言するという語り部・・・。
 
「いえ・・・ドラゴンて言うのは・・・どんな生き物なのかと思って・・・。」
 
 昔イノージェンの母さんからおとぎ話を聞かせてもらったことはある。でも子供向けの話は至って単純なものだ。ドラゴンの弱点に気づいた勇者によって、必ずドラゴンは退治され、世界には平和が戻るのだった。だが実際のドラゴンとは・・・いったいどんな生き物なのか・・・。
 
「ドラゴンとは・・・モンスターの中では格段に知能が高いと言われています。その中でも聖戦の指揮を執ったとされている3匹の聖戦竜は、その高い知能をフルに生かして、栄華を極めた古代サクリフィアを完膚無きまでに焼き滅ぼしたと言われているのです。一説には、彼らの咆哮を聞いただけで人々は取り乱し、震え上がり、武器を取り落とし逃げ出したとも言われています・・・。それは『ドラゴンフィア』と呼ばれ、サクリフィアの生き残り達の語り草になったと言うことです。」
 
「そんなに恐ろしい生き物が・・・また復活するかも知れないと言うことですか・・・?」
 
「それは判りません・・・。恐れを現実のものにするのもしないのも、その時々の人々の心次第ですから・・・。」
 
「ありがとうございます。色々教えていただいて。」
 
「いえ・・・。これが我ら語り部の務め・・・。お気になされますな・・・。」
 
 私はその場を離れ、商業地区へと入っていった。住宅地区とはまた違ったざわめきが私を圧倒する。人、人、人・・・・。大きな荷物を抱えた商人が行き交い、荷馬車が走り過ぎていく。もう夜になるところだった。とにかく今日の宿を探さなければならない。
 私は商業地区の大通りをまっすぐに歩いていった。やがて大きな宿酒場の看板が目につく。ドアを開けると、夜を迎えて酒場は活気に満ち満ちていた。カウンターに行き、声をかける。
 
「あの・・・食事と、あと部屋は空いてますか?」
 
「あいよっ!うちのモットーは安い、きれい、早い、うまい、だからな。清潔なベッドとおいしい食事!『我が故郷亭』にようこそ!にいさん、まだ若いな。このエルバールで一山あてようってのかい?気をつけた方がいいぜ。儲け話はどこにでも転がっているが、まさに玉石混淆だからな。一つ間違えばどん底さ。何もかもなくして世捨て人の島にでも流れていくのが関の山だ。」
 
「世捨て人の島?」
 
 思いがけないところで聞く故郷の名前に私は複雑な思いだった。
 
「ああそうだ。北の果てにあるって言う噂だ。俺は行ったこともないし、行きたいとも思わないがね。」
 
 マスターはリズミカルに動き回りながら、手早くトレイの上に食材をのせていく。
 
「でも案外、そんなところの暮らしも悪くないのかも知れないよ。」
 
 懐かしい故郷があまりよく言われないのはやはり悲しい。思わず私は弁護していた。
 
「ふむ、なるほどな。そうかも知れねぇな。幸せなんて人によって様々だからな。にいさん、若いのになかなか達観してるじゃないか。気に入ったぜ。はい、一丁あがり!『我が故郷亭』特製のスペシャルディナーだ。それと、これはサービスだ。うちの特製ビールだぜ。食べ終わったら部屋に案内するから声をかけてくれよ。」
 
 マスターはそう言うと、食事をのせたトレイの上に、ジョッキに注いだビールをどんとのせてくれた。
 
「ありがとう、マスター。」
 
 私はカウンターから離れ、近くに空いていた席に座った。食事もビールもおいしかった。マスターの言葉は単なる宣伝文句ではないらしい。

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