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こんな叫び声は、訓練場の中では日常茶飯事だ。壁まで吹っ飛ばされたり、攻撃が当たって思わず叫んだり、毎日そんなものだと思うのだが、その叫び声の『痛てぇ!』のほうがハディの声のような気がしたので、私は訓練場の奥へと向かった。そこにはもう人だかりが出来ている。
「痛てててて・・・。」
覗き込むとその真ん中でハディが、尻餅をついたような格好で頭を抑えていた。隣には模造刀が落ちていた。
(模造刀なんてどうして・・・。)
訓練場で模造刀を使うなんて聞いたことがない。そもそもランドさんの採用試験から、ここでは真剣での立合が当たり前のはずだ。
「どうしたの?」
「あ、クロービス先生。」
ハディの後ろから覗き込んでいた剣士が私に気づいた。この剣士は確か息子のカインと同期の剣士だ。名前は確か、アーディスだったと思う。
「あー痛てぇ・・・。何だよ、訓練でもしに来たのか?」
ハディは頭をさすりながら立ち上がった。
「まさか。君に話があってきたんだけど、扉を開けるなり君の叫び声が聞こえたから、来てみたんだよ。もしかしてこの模造刀が当たったの?」
「ああ、ガツーンと柄のほうがな。」
模造刀と言うだけに刀身にはもちろん刃はないし、そこが当たっても特に痛くないのだが、運悪く柄や切っ先が当たると、確かに痛い。
「変な話だなあ。模造刀なんてここで初めて見たよ。しかも君が避け損ねるとか。」
「ああ、まあちょっと事情があってな・・・。もっとも避けられなかったのは俺がぼけっとしていたせいさ。」
そう言うとハディは、頭にふっ、と『気』を当てた。
「ふぅ・・・これで何とか。」
おそらくだが、ハディは仕事中にリーザのことでぼんやりしていて、飛んで来た模造刀を避け損ねたということか。
「今時間はある?少し話がしたいんだけど。」
この後ぼんやりせずにすむ程度の情報は提供できそうだ。
「いいよ。ただ、どうするかなあ・・・。」
「何があったの?まあ私が聞いてまずいことならあとにしてもいいんだけど。」
「いや、お前の話はぜひ聞きたい。うーん・・・。」
「す、すみません・・・。」
ハディの後ろにいたアーディスが頭を下げている。
「ああいいよ。慣れない武器を使えばこうなる。それはわかったな?」
「は、はい・・・。でもまだ始めたばかりだし・・・。」
始めたばかり?採用試験でランドさんと立合はしているはずだが、なんでこんなことになっているのだろう。落ちている模造刀を見ると、大剣を模したもののようだ。
(あれ・・・?前にカインと3人くらいで町に出ていたことがあったのを見かけたけど、あの時アーディスは細身の剣を持っていたような・・・。)
アスランが未だ療養中のカインと、その他に相方が決まらない剣士が3人で町中の見回りをしていたのだ。遠目に先輩達が見ていてくれるらしく、3人とも緊張しながら歩いていたのを憶えている。
(特に武器についての話はしなかったけど、確か彼だけが細身の剣を下げていたから、何となく憶えていたんだよな・・・。)
「いつもの剣であれだけいい動きをするってのに、何で大剣にこだわるんだ?その理由を、お前団長にも話してないんだよな。」
つまりアーディスは大剣を使いたくて、模造刀で素振りをしていたわけか。そしたらすっぽ抜けてハディの頭に当たったと・・・。
「真剣だったら大変なことになってたね。」
ハディは私を横目で見て、またため息とともにうなずいた。
「今日はもう全然調子が出ない。少し休憩するか・・・。」
「あ、あの、僕の訓練は・・・。」
アーディスが慌てたように言った。
「素振りで武器がすっぽ抜けるような奴と立合出来るか!お前はもうしばらく素振りだ。模造刀とは言え、今みたいに当たったら大変だぞ。そんな調子で表に出せるわけないだろう。相方だって決められないぞ。」
「す・・・すみません・・・。」
「何があっても武器を手放すな。すっぽ抜けなんて言うのは、お前の集中力が途切れた証拠だ。夕方まで素振りを続けろ。ただし休憩はちゃんと取れよ。俺はこいつと話があるから少し出てくるよ。」
「わかりました。」
−−父さん・・・ごめん・・・。でも必ず・・・。−−
聞こえた『声』に気づかないふりをして、ハディと一緒に訓練場を出た。
「アーディスだっけ。前に見た時は細身の剣を持っていたと思ったけど、なんでまた大剣なんて・・・。」
「その何でがわからないんだよな。細身の剣でならいい動きをするし、なかなかの腕前なんだが、急に大剣を使いたいと言い出したのさ。」
「急にって、それじゃ大剣を使いたいと言い出したのは最近なんだね?」
「ああ、それで訓練したいと言うんで、団長が俺に預けたんだよ。少し見てやってくれってな。ところが、あいつは大剣なんて扱えないんだ。あの体格で、今まで細身の剣でそれなりに研鑽を積んできてる。体がもう細身の剣と相性がいいように出来上がりつつあるって感じなんだよな。」
「でも大剣にこだわるって事は、何かしらのきっかけがあったはずだよね。例えば誰か憧れてる人がいて、その人と同じ武器を使いたいとか。」
リーザだってユノに憧れて槍術を教わりたいとリロイ卿に頼んだはずだ。もっとも本心は母親から逃げたいという方が大きかったようだが。
「うーん・・・あいつ親父さんはかなりの腕前の剣士だったらしいが、もう亡くなってるんだよな。今では王国剣士だってそれなりに稼げるようになってきたから、お袋さんを楽させたいって、採用試験の時に言ってたらしい。」
「お父さんは王国剣士だったの?」
「いや、あいつは南地方の西の方にある小さな村の出身なんだが、親父さんはそこで村の護衛として仕事をしていたらしい。」
「亡くなったのは仕事で?」
「いや、病気だそうだ。親父さんが亡くなって、生活は苦しくなっていたみたいだな。その護衛の仕事ってのは村に雇われての仕事だったらしいから、親父さんが亡くなれば当然ながら金は入らなくなるわけだからな。」
「でも小さな村なのに護衛を雇うなんて、それなりに裕福な村だったのかな。」
「お前がここを出てからの話だが、フロリア様が南地方や南大陸の西部にある小さな村の基幹産業になるようにって、医療機器を作る仕事に大規模な投資を行ったって話は聞いてるか?」
「ああ、ここに来た時に聞いたと思うよ。小さな村でも自分達の力で稼げるようにってことだよね。お金に困って女の子を売らなくてもいいようにっていう考えもあったらしいけど、それはなかなか難しいって話だったね。」
「まあそうなんだよな。いくら王宮から依頼する事業とは言え、暮らしていくのに困らない程度が稼げるってだけだ。確かに飯のために娘を売るって話は昔よりは減ったらしい。でも全然なくなったってわけじゃないからな。」
「フロリア様としては、歓楽街そのものをなくしてしまいたいのかもね。」
「そう言う考えもあるみたいだな。だが歓楽街で働いてる女達は必ずしも売られてきた女ばかりじゃない。自前で稼ぎたいって行く女だっているんだ。それに産業として成り立っている以上、一方的に潰すわけにはいかないよ。」
「そうだろうね。でもアーディスの住んでいた村は、フロリア様の投資でそれなりに潤っていたってわけか。」
「そうだ。医療用機器の精密な手仕事の得意な村人がけっこう多かったらしい。」
ということは、ライラが考えるナイト輝石の平和利用で試作品を作ると言う話が出ているはずだから、その村にも何かしらの製品について発注されているのだろう。
「医療機器の製作は細かい作業がほとんどだからね。」
「らしいな。で、村が潤えば盗賊なんかも湧いて出るから、護衛の仕事は重要だったらしいよ。親父さんは優秀な戦士だったらしい。でもなあ・・・例えばその親父さんに憧れてって言うなら、最初から大剣を使おうとすると思うんだよな。」
「細身の剣でずっと研鑽を積んできたのなら、お父さんのことは関係ないってことになるのかな。そう言えばお母さんはその村に今もいるの?」
「いや、こっちに出てきたらしいよ。村の暮らし自体は悪くないが、息子のそばにいたいって事らしい。引っ越しが大変だったって言ってたっけ。」
「何だか妙な話だね。ま、本人に聞くしかないか。でもせっかく合格したのにそんなことをしていたら、相方も決められないし、いつまでも訓練させておくわけにも行かないんじゃない?」
「問題はそこなんだ。大剣でも細身の剣でも扱える奴はいるから、アーディスがそう言う奴なら問題はないんだがなあ。」
「そう言えばオシニスさんとライザーさんは、2次試験の試験官の時山賊が使うような武器を使ってたって話だしね。」
「そうなんだよ。あれはすっかり騙された・・・。でもそれは、あの2人くらいの腕前になってからの話だ。アーディスがこのまま得意の武器を使って精進して、その上で大剣も極めたいというなら誰も反対しないし、おそらくもっとうまく扱えるだろう。そう言う話もしてみたんだが、今から大剣を使いたいの一点張りだ。脅しになっちまうから団長も黙っているが、本当なら合格取り消しになってもおかしくないんだよ。」
「本人はそこまで気づいてないのかな。」
「もしかしたら。合格しちまえば何とかなると思っているのかもな。」
「それじゃ期限を区切って大剣の訓練をさせてみるのは?今みたいな様子見じゃなくて、いつまでって決めて本格的に大剣での訓練をさせて、それでものにならなかったら元の剣を使うか剣士団を辞めるか、そのくらいの覚悟は持ってもらわないとね。大人なんだからさ。」
「そうだよなあ・・・。だがどうして大剣にこだわるかの理由がなあ・・・。」
「理由を言いたくないなら言わなくてもいいんじゃないかなあ。随分昔、似たような話を聞いたことがあるしね。」
「・・・・・・・・・・。」
ハディがぐっと言葉に詰まった。
「そう言えば、その話うちの息子に聞いたりしてない?」
ハディがうーんと唸った。
「団長としては、まずは本人の気持ちを尊重したいって事で、誰にも何にも聞いてないんだよな。お前の息子以外にも同期の連中に聞けば何かわかるのかも知れないんだがなあ・・・。」
「なるほどね。そういうことなら迂闊に誰かに聞くってのも難しいか・・・。」
「ああ・・・でも奴がいつまでも何も言わず、誰の意見も聞こうとしないで大剣にこだわり続けるなら、聞くしかないなって言ってたな・・・。」
「そんなに頑なじゃ、相方も決められないし本人にとって何もいいことがないと思うんだよね。」
「そうなんだよ。オシニスさんとランドさんもどうしたもんだかって唸ってるよ。せめて外に仕事に行く時は使い慣れた剣で出掛けるっていうなら、空いた時間に中で大剣の訓練をするって言う手もあるんだがな。とにかく大剣を使いたいの一点張りで今まで使っていた剣もタルシスさんに預けちまったみたいなんだよな。」
「へぇ、何となく悲壮感を感じるなあ。」
「それも奴はタルシスさんにこう言ったそうだぜ。『その剣はもう使わないから鋳溶かしてくれ』ってな。」
「ずいぶん乱暴な話だね。」
「誰だってそう思うよな・・・。入ってきた時はもっと素直だったのに、最近相方が決まらない新人同士で昼間の警備をさせたりしてるんだが、その辺りからなんだよな。妙に大剣にこだわるようになったのは。」
「オシニスさんとしては、その理由を自分から話してほしかったんだろうね。」
「そうなんだろうな。それなりの妥協案を飲む気があるなら、団長としてももう少し考えてくれると思うけど、自分に都合のいいようにああしたいこうしたいと言うだけで、実際にやらせてみると全然うまく行ってないんだ。いつまでもあんなこと続けていられないよ。ろくに剣も振れない奴がいるなんて知れたら、さっさとやめさせろとか、最悪団長とランドさんの責任問題になっちまう。」
さきほど不意に聞こえた『声』は、アーディスのものだろう。私達の話は聞こえていただろうから、今後自分がどうなるか、そう考えた時に父親に思いを馳せていたとしたら、何か父親に関して想いというか、こだわりがあるのかも知れない。
(ますますハディの時と似た状況だなあ・・・。)
もっともアーディスはハディほど跳ねっ返りではなく、元々は素直な人物らしいが。
(いずれ話してくれるんじゃないかな・・・。聞こえた事は黙っておこう。)
彼の想いは彼自身の口から語られるべきだ。
「そこまでの事態になる可能性があると、多分本人は考えていないんじゃないかな。もっと踏み込んで話し合いをしたほうがいいと思うよ。団長を辞めさせろとか、ランドさんを採用担当官から下ろせとか、そんな話になるよりはお前を切るぞってくらい言ってもいいと思うよ。」
「ああ、ちょっと甘いってのは俺も感じてる。何かあるのかも知れないから、団長とランドさんと話してみるよ。さてと、俺も落ち着いたし、お前の用件を聞けるぞ。ま、想像はつくけどな。」
ハディが言った。ちょうど医師会の入り口に着いたところだった。リーザの名前を出さないところを見ると、ハディも周囲に警戒はしているのだろう。私達の会話を、誰かが聞いている可能性はある。
「君の想像通りだと思うよ。場所を移そうか。」
若い剣士のことは私が心配することではない。まずはもっと心配なリーザのことで話をしなければならない。私は医師会の研究棟の屋上にハディを連れてきた。ここならば聞き耳を立てられる可能性はないと思う。柵の下の壁に張り付くとか、空を飛んでとか、冒険小説のような事が起きない限りは。
(もっとも・・・気配はすぐにわかるから、大丈夫だろうけどな・・・。)
どこにも何者かが潜んでいる気配はない。
「へー、いいところだなあ。弁当でも作ってここで食べたらうまそうだな。」
ハディはぐるっと屋上を見回して言った。
「ははは、いいかもしれないね。でもそういうことをするなら、ちゃんと医師会に許可をもらってよ。」
「まあそりゃそうだな。それで、話ってのはリーザのことだよな?」
ハディがやっとリーザの名前を口に出した。
「そう、目は覚めたよ。記憶障害も特にないね、話してみた限りでは。」
「そうか・・・。」
ハディがほっとしたように笑顔を見せた。
「今朝から大分我慢してたんだね。」
「ああ、でも結局ぼけっとしてて、さっきのような事態になったわけだがな。まったく、情けねぇよ。」
言いながらハディは、模造刀がぶつかった辺りをさすっている。
「君が今朝どうしてもあそこに残ると言わないでくれて助かったよ。リーザのほうは、まだ君と顔を合わせる勇気が出ないみたいだからね。」
「会いたくないとか言ってたか?」
ハディの顔に不安が滲む。
「言ってないよ。今朝君が仕事をさぼって来てたことを話したんだよ。君の誠意は伝えておきたいと思って。そのあとちゃんと休暇をもらって来るって言って出て行ったんだけど、戻ったきり来なかったから、多分却下されたんだろうなって言ったらね・・・。」
『バカねぇ・・・。仕事をさぼったりしたら・・・。』
そのあと何か言いかけたが、リーザの声は震えて言葉にならず、瞳から涙が流れ落ちた。それきり黙り込んでしまった事を伝えると、ハディは複雑な表情で『そうか・・・。』と小さく言った。
「君のことは気にしていたよ。君をひどく罵ってしまったこともね。」
「それは、"馬の骨"のことでかな・・・。」
ハディがひとりごとのように言った。
「やっぱり君も気になっていたんだね。」
「気になってたというか、お袋さんが俺のことをそう言ってたの、聞いたからな。」
「お母さんとは会ったことないんじゃなかったっけ?」
「会ったことはないよ。俺がリーザの家に行った時、親父さんが俺を家に入れるように言ったらしいんだが、お袋さんのほうは俺を叩き出せって騒いでいてな。家の奥から聞こえたのさ。『そんなどこぞの馬の骨、家に入れるな!』ってな。だから会ってはいないが、そう言われたのは知ってるというわけさ。」
「そうだったのか・・・。リーザもそれを聞いていたから、記憶の中に残っていたんだろうね。君が怒ってるんじゃないかって心配してたよ。」
「それじゃ俺がいなくてよかったって事か。本当はサボってでも病室に戻ろうかと思ったんだよ。でももしもあの言葉をリーザが憶えているなら、目が覚めた時に俺がいたら落ち着いてはいられないかも知れないなと思ってな。」
ハディはいろいろ考えて、あのあと仕事を続けていたらしい。もっともオシニスさんに休暇を願い出て、却下されたのは確からしいが。
「まずは、リーザについて本人から聞いたことをそのまま伝えるよ。本人からも全部話してくれていいって言われているからね。」
「わかった。全部聞かせてくれ。」
私はリーザが目覚めたところから、順を追って話していった。目覚めたばかりの時は自分の行動はすべて憶えていたものの、なぜ自分がそんな行動を取ったのか思い出せなかったこと、そのためにあの異議申し立ての日、ハディと話したあとのことから思い出してもらい、その流れでリーザとヴェータ夫人のいびつな親子関係が明らかになったことなど、話を聞くハディも、どんどん顔色が悪くなっていった。どうやらかなり思い当たることがあったらしい。
「なるほどな・・・。」
全て聞き終えたハディがぽつりと言った。
「思い当たることはあるみたいだね。」
「・・・いろいろとな。」
「それじゃもう少し話を聞いてもらおうかな。ここからは私の、医師として、そしてリーザの友人として、話を聞きながら見えてきたことをいくつかね。」
そう言って私は、リーザとハディの関係性に踏み込んだ。ずっと昔の訓練の話から、ハディがリーザに自分の気持ちをただぶつけるだけなのではないかと言うこと、そしてリーザはそのことを自分の中でだけ抱え込み、1人で何とかしようとしている。恋人同士に戻るよりも、まずはそのことをきちんと考えるべきではないかと。
「・・・・・・・・・・。」
ハディは今度は黙り込んだ。反論されるかと思っていたのだが、どうも私の言葉はハディにとってかなり痛いところを突いたらしい。
「つまり俺は・・・リーザを苦しめただけって事か・・・。」
ハディはそう言って、肺の中からすべての空気が抜けてしまうのではないかと思えるほど大きなため息をついた。
「そんなこと言ってないよ。リーザは君の気持ちをわかってる。さっき言ったはずだよ?君の気持ちがわかるからこそ君に頼れないと思ったって。ただし今朝のような、リーザの婚約者として振る舞うのは、まだ避けるべきではないかと思うんだけどね。君がリーザに結婚を申込んだってのは聞いたけど、リーザのほうは何も決めてないって言ってるんだから、返事をもらうまで待つべきなんじゃない?それも本人が何も言えない状態なのに、あんな風に2人の仲が深いと受け取られるような言い方までしてさ。」
私の言葉にハディはしばらく黙っていたが・・・。
「なあクロービス。」
「何?」
「リーザの治療に必要だって事で、お前は俺の話を聞きに来たんだよな?」
「そうだよ。」
「それじゃ、俺の話も聞いてくれるか?ま、あんまり人に聞かせたい話じゃないがな。」
「それでも聞かせてくれるって事は、君がこれからする話は、リーザの治療についても役に立つって事?」
「そうだ。ま、もしかしたら今頃はウィローがリーザから聞いてるかも知れないけどな。」
女同士ならもう少し突っ込んだ話が出来るだろうとは思っていたが、ハディがそんな言い方をすると言うことは、もしかしたらこの間2人で会って話をしたときのことだろうか。さっきリーザに話を聞いたときは、今回の家督相続の話以前のことだし、どう切り出したものかと思っていたので何も聞かなかった。でも確かに妻は疑問に思っていたことだろう。妻がリーザから、そして同じ話を私がハディから聞けるというのはありがたい。
「と言うことは、君がしようとしている話は、私がまだ知らない事ってわけだね。」
そう言ってみた。先走らず、ハディの話を聞こう。
「おそらくな。」
「それじゃ聞かせてよ。君が話し終わるまで、私は黙って聞いてることにするよ。」
ハディはうなずいて話し出した。
「俺とリーザは、20年前に別れちまった。俺は好きだから別れたくないって言ったんだ。でも・・・。」
『副団長を死なせてしまったのに、私達が浮かれて結婚式なんて挙げることは出来ないわよ。あの時のことは、間違いなく私達の落ち度だわ。だから・・・あなたと離れて、それぞれが自分に出来ることをするべきではないかと思ったの。』
「そう言われちまったら、俺は何も言えなかった・・・。」
20年前、別れを切り出したのはリーザの方だったらしい。確かに理由は理解できる。私だってカインを死なせてしまったことで、自分達が幸せになっていいものかどうかは悩んだ。でもあの時、もしも妻と別れてしまったとしたら・・・私は1人でなんてとても生きていけなかっただろう。
「そして俺達は別れて、俺は訓練担当官に、リーザはフロリア様の護衛剣士に志願した。2人とも入団して1年と少しだ。当時団長代行として剣士団の指揮を執っていたガウディさんは、荷が重いのではないかと心配したみたいだ。それでもそれぞれの決意の強さを認めてくれた・・・。」
だが護衛剣士という仕事を、未だに貴族の娘の箔づけ程度にしか思っていない大臣や貴族からは、男爵家の娘がフロリア様の護衛など恐れ多いなどと言う意見も出たのだが、身分の何のという話は、当然ながらレイナック殿が怒り心頭で押さえ込んだ。でも経験不足と言われると、確かに返す言葉がない。それは訓練担当官とて同じ事で、訓練専門の剣士がそう簡単に負けてしまうのは困る。さすがにガウディさんと戦って勝つなんてことは無理だとしても、せめて互角に戦えるくらいでないと、訓練担当官など務まらない。
「そこで、入団して10年以上の先輩達が、俺とリーザを連れて南大陸を廻ることになったんだ。南大陸への赴任が未経験な連中はかなりいたから、そう言う奴らに混じってな。最初は西側、次に東側、本来半年くらいの周期で回る仕事だが、あの時はとにかく急いでたんだ。王国剣士全員に出来るだけ早く、南大陸への赴任経験を積ませる必要があったからな。西側を廻って三ヶ月、次に違う組が西側、別な組が東側、初めて南大陸に足を踏み入れる俺達みたいな奴はもちろんだが、引率の先輩達も相当大変だったと思うよ。それに1回や2回廻ったところで失敗談しか残らなくらいだ。何度も行って経験を積むしかない。最初の何年かはみんなへとへとだったよ。南大陸だけじゃない、南地方も北大陸も、警備をおろそかに出来ないからな。」
リーザもハディも、今の仕事にすんなり就けたわけではなかったのか・・・。
「俺達は元々コンビを組んでいたし、連携もうまく行っていた。連れて行ってくれた先輩達には、コンビ解消をすることもないんじゃないか、なんて言われたけどな・・・。俺もリーザも、曖昧に笑ってごまかすしかなかった。ま、みんな俺達が別れたこともコンビ解消してそれぞれが別々の仕事を希望していることも知っているから、あんまり突っ込んで聞かれることはなかったよ。」
最初は2人で歩くことに対して気まずさやぎこちなさを感じていた2人だったが、何度も出掛けるうちにかなり勘を取り戻すことが出来たらしい。そして自然と会話も増えていったそうだ。
「でもなあ・・・。リーザが何となく俺を拒絶してるって、感じていたんだ。笑顔で話をしていても、どこか壁を作られているような、そんなやりきれなさはいつも感じていたよ。」
でもそれも、遠征の回数が減っていったことで気にすることがなくなっていた。2人の実力が十分であるとガウディさんが認めたことで、少しずつ遠征の回数を減らすことになったそうだ。やがてリーザは護衛剣士として、ハディは訓練担当官として、本格的に仕事をすることになった。食事はリーザもハディも食堂でしていたから、顔を合わせれば話はする。ぎこちなさも少しずつ消えていき、何年も過ぎる頃には自然体で会話出来るようになり、2人が以前は恋人同士だったことを知っている剣士達も少なくなっていった。
(カインは全然知らなかったみたいだしな・・・。)
家に帰ってきた時にそんなことを言っていたような気がする。
「そして・・・別れてから20年が過ぎていたよ。俺は訓練担当官としての仕事に、手応えを感じていた。何と言っても自分が昔いろんな先輩達に鍛えてもらったり、それにお前やカインとも手合わせしたりして、訓練がいかに大事なものかってのは身に染みていたんだ。昔の突っ張ってた俺を思い出すと顔から火が出そうだよ。」
黙って聞いていると言ったのに、思わず吹き出してしまった。
「ご・・・ごめん、昔のことを思い出しちゃって・・・。」
真面目な話をしているというのに吹き出してしまうとは、我ながら情けない・・・。
ハディは曖昧に笑って言った。
「仕方ないさ。今思えば、自分がどれだけマヌケ野郎だったか、情けない限りだよ。誰だって1人で強くなれるわけじゃない。たくさんの先輩達と切磋琢磨して、現場で場数を踏んで、そうやって少しずつ強くなれるんだって、今ではそう思ってるから、そういうのが新しく入ってくる連中に伝わればなと、そう考えながら仕事をしてるよ。」
一方リーザは、食堂で顔を合わせたりする時、フロリア様の護衛の仕事が楽しいと言うようになったそうだ。独身の女王陛下の話し相手も兼ねているが、もちろん楽しい楽しいだけでは務まらない。常にまわりに気を配り、神経を研ぎ澄ませていると、充実感を感じることが出来ると、そんな話をしていたらしい。
「そんな時、団長から極秘に医師会の医師がフロリア様の診察を兼ねてお茶会を開くという話を聞いた。その時はリーザにも退席してもらおうと思っていると。本当は、その話は俺まで降りてくるはずのない話だった。フロリア様の体調に関する事なんて、極秘中の極秘事項だからな。でも団長は、これを機会に俺がリーザと話し合う機会を作ろうと、レイナック殿に掛け合ってくれたらしいんだ。医師会から派遣される医者というのがお前なら、フロリア様の護衛はこれ以上ないくらい完璧だ、その日はリーザも気兼ねなく、フロリア様のお側を離れられるんじゃないかってな。」
「そう言ってくれるのはありがたいね。」
信頼されているのは確からしい。
「だから団長に頼んだのさ。出来ればゆっくり話したいから、俺の家に招待したいと。話が終わったあと、リーザが実家に泊まるならそれもよし、でももしもうちに泊まってくれるなら、ちゃんと客用の部屋を用意するから、のんびり泊まってくれていいと伝えてくれってな。」
「黙って聞いてると言っておいてなんだけど、質問していい?」
「ああ、もちろんだ。」
「君はリーザと話すために家に招いた時、リーザと一晩一緒にってのは考えなかったの?」
ハディは頭をかきながら照れくさそうに笑った。
「そりゃ考えなかったわけじゃないよ。俺はずっとリーザのことが好きだ。そこまでの関係に戻れるなら、戻りたいと思ってる。でもな、20年ぶりに話をしたいと言っているのに、いきなり押し倒すってわけには行かないじゃないか。お互いもう40過ぎてるんだ。そんな若い時みたいにがっつくってわけには行かないよ。」
実際オシニスさんには『それでいいのか?』と聞かれたらしい。だがハディは決めていた。『今回はこの先のことを話し合いたいだけだから、そういうのはまた次の段階に』そう言ってオシニスさんに伝言を頼んだのだそうだ。
「なるほどね・・・。それじゃ会って話をして、リーザは君の家に泊まって、そのまま朝別れたって事か。」
「そうなるはずだったんだがな・・・。」
「・・・え?」
ハディはどうやら待ち合わせをしたらしいのだが、待っているのも何となく落ち着かなくて、リーザを迎えに行ったらしい。そう言えば妻がリーザと話をしていたらハディが来たと言うことを言っていた。リーザは少し照れくさそうな様子だったが、それじゃ行きましょうかと2人で外に出たと言うことだ。
「歩きながら、俺はその日の予定をリーザに話した。家でメシを食って、話がしたいと。実家に帰るなら送っていくし、うちに泊まるならちゃんと客室を用意してるってな。」
リーザは笑っていたらしいが、ハディが自分のためにいろいろと用意してくれた事に礼を言ったそうだ。家について、2人で食事を作った。と言ってもリーザの料理の腕はそれほど上達しているわけではなく、ほとんどハディが作ったらしいが。
「あいつは南大陸を廻っている時でも、どっちかというと薪拾いやテント張りの方をやっていたんだよな。相変わらず料理は出来ないんだなあ、なんて思ったが、何となく、そこまで軽口を叩ける雰囲気ではなかったというか。で、あいつはそのあと乙夜の塔に入っちまったから、自分で食事を作る機会なんてなかったんだろう。ほとんど何も作れないのは今でも変わらないらしいな。ま、フロリア様の侍女達がお菓子作りを教えてくれたりしたらしいから、クッキーは焼けると言っていたがな。」
ハディが笑いながら言った。
そうして食事を作り、軽めの酒を飲みながら、ハディは『2人のことをもう一度考えてみないか』そう言ったのだそうだ。
「俺はリーザのことがずっと好きだった。別れてしまえば誰か他の女に心が動くかも知れないと思ったが、そんなことにはならなかったんだ。この20年お互い頑張ってきたんじゃないかって。だからこの先の人生を、茶飲み友達でもいいから、もう一度一緒に過ごせる時間がほしい、もちろん結婚できればいいが、それはお互いの気持ち次第だから、いきなりそこまでは考えなくてもいいって。」
なるほどハディのほうは、かなり落ち着いて考えていたらしい。でもそれが何でまた、あんなに結婚を焦るような話をするようになったものか。だがとにかく今は先走らず、黙って話を聞くことにした。
「リーザは考えてみると言ってくれた。」
『あの頃・・・グラディスさんは私達のことを応援してくれていたわよね。結婚式が楽しみだって言ってくれた・・・。私も前に進みたい。今すぐに答えは出せないけど・・・つまらない意地を張ったりはしないわ。もう一度きちんと向かい合って、やり直せるとお互いが思ったら・・・またこうして話しましょう。いつまでも昔のことを引きずるのも、きっとグラディスさんに失礼なんだわ・・・。』
リーザもハディとの結婚については前向きだったようだ。オシニスさんのところに話しに来た時もまだ何も決めてないとは言っていたが、いずれ結婚に至る事は充分に考えていたはずなのだが・・・。
「ま、多少酒が入ってはいたが、2人とも酔っ払うほどじゃなかったからな。俺は風呂も沸かしておいたから先にリーザに入れって言ったんだ。」
『うちの風呂はそこそこ広いから、ゆっくり入れるぞ。まあ泳げるほどではないがな。』
『いやねぇ、お風呂で泳いだりしないわよ。』
そんな会話で笑い合いながら、リーザが風呂に入っている間、ハディはお湯があまり熱くなりすぎないよう、風呂の焚き口で火を調整していた。ちょうどいい湯加減で、リーザに少しでも寛いでもらおうと考えてのことだ。リーザのあとで自分も風呂に入り、それぞれが部屋に引き上げて、この日は終わるはずだった・・・。
「俺が自分の部屋に戻って、さて寝ようとしたところで部屋の扉がノックされたんだ。『鍵なんてかかってないから入れよ』と言ったら、リーザが入ってきた。しかもパジャマでだぜ?こいつは何を考えているんだと思ったけどな、話の続きでもしたいのかと思ったから、とりあえず部屋に置いてある椅子に座れよと言ったんだが・・・。」
ベッドの端に腰掛けているハディに向かってリーザが抱きついてきた。その拍子にハディがベッドに仰向けに倒れ、そこにリーザが覆い被さってきたらしい。
『おい、何をやってんだよ。もう寝る時間だぞ。』
『ここで寝る。あなたのそばにいたいの。』
ハディとしては、今日は話だけ、絶対に手は出さないと考えていたのだが、この状況で我慢するのは難しかったと言うことだ。そりゃそうだ。その時のハディの気持ちは、手に取るようにわかる、そんな気がした。
『おい、ここで寝るったって、そういうことなら俺もただ寝るだけじゃすまないぞ。』
ハディは少し脅かすつもりで、そんな言い方をしてみたがリーザはますますハディにしがみついてくる。
『いいわよ。私だってあなたとただ手を繋いで寝るためにここに来たんじゃないわ。女に恥をかかせないでよ。』
ハディにしがみつくリーザの腕が震えている。ハディは必死で考えたらしい。今日リーザが無理して自分の部屋に来る必要はないはずだ。そういうのは無しと心に決めて、リーザはゲスト用の寝室へ、自分は自分がいつも使っている部屋で寝ることにしたのだから。
『恥をかかせる気はないけどな。そんなに急がなくていいんだぞ?さっきの話はお互いちゃんと考えてそれから・・・。』
話の途中で、リーザの唇がハディの唇を塞いだ。
『あの時別れたこと、ずっと後悔していたのよ。確かに私達はグラディスさんのことで取り返しのつかない事をしてしまったわ。だけど・・・あなたと一緒に、自分達が出来ることを探すことだって出来たんじゃないかって・・・。』
『本当にいいんだな?途中でやっぱりやめたなんてのは無しだぞ?』
『そんなことするくらいなら、最初からここに来ないであっちの部屋で寝てるわよ。』
結局ハディが押し切られる形で、2人は同じベッドで一晩を過ごした。
「押し切られた気はするが、あの時のことはお互いが合意の上でのことだ、リーザのせいにする気なんてないよ。リーザはあの時、すぐにでも俺とよりを戻したいと思っているようだった。次の日も2人とも和やかに話が出来ていたし、お互い後継者のこともこの機会に本格的に考えてみよう、なんて話もしていたよ。」
ところが家を出る時になって、リーザの『気』が少しだけ歪んで見えた。そしてリーザが玄関を出る時、肩を抱こうとしたハディの手を、ほんのわずかリーザの肩が避けたように見えたのだ。だがハディの手を拒絶するまでは至らず、抱き合って『それぞれが団長のところに話をしに行こう』と言って別れた・・・。
「あの夜は俺にとっては最高の夜だった。リーザもそれは同じだったと思いたい。実際家の玄関で別れるまではそうだったと信じてるよ。だがあの時感じた妙な『気』の流れが何なのかわからなかったが、もしかしたらそれが、リーザの心の奥底にあるお袋さんの影なのかも知れないな・・・。」
「おそらく本人はそこに気づいてなかったと思うよ。でももしかしたらだけど、君と一晩過ごしたことに罪悪感みたいなものを感じて、戸惑っていたかも知れないね。」
その後、約束したようにリーザとハディはそれぞれオシニスさんのところに後継者の話と結婚するかも知れないという報告をしに行った。
『昨夜久しぶりにいろいろと話をして、もうそろそろ前に進むことを考えようって。もう一度きちんと向かい合って、やり直せるとお互いが思ったら結婚しようって・・・だからまだ、何も決めてないんです。ただ、いきなり結婚しますなんて言い出したら、仕事にも支障がでると思って。』
私は以前リーザから聞いた話を思い出していた。
『いつ一緒になるとか決めているのか?』
そう尋ねたオシニスさんに、リーザが返した言葉がこれだ。
(でもあの時は・・・妙な『気』の流れも感じなかったし、リーザ本人も嬉しそうだった。多分あれが・・・リーザ本来の感情なんだろうな・・・。)
だが事がうまく運びそうになると、心の奥底に居座っている母親の影が顔を出す・・・。付け足したように言った『何も決めてない』という言葉はその現れだろう・・・。
「ところがそのあと、話がちっとも進まないでいるうちに家督相続の騒動になってしまったというわけか。」
「ああ、俺としてはさ、あの時の話し合いで結婚の約束をしたと思っていたよ。でも異議申し立てのあと、リーザは俺とろくに話をしなくなった。俺としては焦っちまったわけだ。だから、本人の承諾を得ない状況で婚約者のなんのと触れ回るようなことを言ったことは悪かったと思ってる。リーザにもきちんと謝るよ。」
「事が貴族の家督相続でなかったら、リーザも君を頼れたかも知れないけどね・・・。」
ハディは大きなため息をついた。もっともさっきから話している間も、ため息ばかりだったのだが。
「そうだな・・・。貴族の家督相続なんて、俺が首を突っ込めるような話じゃない。それを無理につっこうとすればどうなるかなんて、頭が冷えた状態だったらすぐにわかったはずだ。情けないよまったく・・・。」
「まあリーザだけでなく、ラッセル卿も頭に血が上っていたようだからね。ただイノージェンを相続人に加えるとか言う話を聞いたら、そりゃ冷静ではいられないだろうし、難しいところだね。」
「よく考えれば、一番引っかき回したのは親父さんだよな・・・。」
「そうだね。目は覚めたみたいだけど、まだ話も何も出来ないみたいだよ。」
「・・・目が覚めたのか?」
ハディが驚いて私を見た。そう言えば朝その話を聞いて、私がオシニスさんに伝えたのだから、ハディが知っているはずがない。
「うん、今朝の話みたいだよ。ちょうどリーザの見舞いを終えてラッセル卿夫妻とチルダさん達が病室から出たところに連絡が来たんだ。だからラッセル卿達は会いに行ったと思うよ。私はまだ会ってないけどね。ラッセル卿には、相続に関する話は一切しないで、声だけかけておく程度に留めておいてくれるように頼んだよ。今イノージェンが相続人から外れたなんて話を聞いたら何をやらかすかわからないからね。」
「本人は、うまく行ったと思っているんだろうな。」
「おそらくはね。」
もっとも・・・自分が生きていることは、もしかしたら想定外だったかも知れない。命をかけた大芝居のつもりだったのだろうから・・・。
「ある程度元気になってからだな。ラッセルもチルダも、リーザだって言いたいことは山ほどあるだろうしな。」
「そうだと思うよ。」
ハディはしばらく考えていたが・・・。
「俺はもう少し、自分が言ったことについて反省するよ。頭を冷やして、冷静になって、それからまた考える。リーザが男爵家から出る時に、俺のところに来てくれるのが一番いいんだが、どうだろうなあ・・・。」
「わざわざ名字を作る必要はなさそうだしね。」
この国の名字、特に一般庶民が使う名字はかなり少ない。貴族の家の名字は唯一無二だが、庶民となるとそこいら中に同じ名字があるので、この国では名前で呼び合うのが一般的なのだ。貴族の家から一般人になると言うと男爵家の跡取りの兄弟姉妹しかいないが、男性がたまに新しい名字を届け出ることがあるくらいで、女性はほとんどが結婚して相手の名字を名乗るようになるらしい。
「焦らないことにするよ。俺の頭が冷えて冷静に考えられるようになったら、改めてリーザと話をしようと思ってるって、それだけ伝えてくれるか。」
「わかった。伝えておくよ。あとオシニスさんが話せることだけでいいから報告してくれってさ。」
「団長にも心配かけたからなあ・・・。わかった。この後話しに行くよ。」
2人で一緒に階段を降りた。私はここからベルウッド先生のところに行かなければならないからと、そこでハディと別れることにした。ハディは穏やかな笑顔で、手を振ってロビーへの廊下を歩いて行く。リーザのいる病室の方に行こうとは考えていないらしい。頭を冷やすという言葉は、ハディの本心だと思っていいだろう。
「一安心かな・・・。」
あとはもういい方向に向かうことを祈るしかない。私はその足でハインツ先生の部屋に行き、ベルウッド先生がどこにいるか聞いた。どうやら彼はラッセル卿の問診を行っているあの部屋で、薬について調べ物をしているらしい。
「彼はまだ自分の研究室を持っていませんからね。診療室や研究棟の空き部屋を借りたりしていますよ。」
医師会の医師がすべて部屋と助手を与えられるわけではなく、主任医師、主席医師の他には、マレック先生のようにある程度実績を積み、学会に論文を発表したりしているという、評価の基準があるらしい。
『会長はマレック先生にも主任医師としての打診をしたんですがね。逃げられたそうですよ。そんな器じゃないと。』
ハインツ先生が以前そんな話をしてくれたことがあったっけ。その時他の主任医師の話が出なかったのが少し不思議だったが、その主任医師に会って納得した。あれではとても紹介する気になんてなれないだろう。
(もっとも、2人とも肚の中で悪態をつきながら笑顔で挨拶、くらいのことは難なくやってのけそうだけどな・・・。)
ただし私には肚の中の悪態もしっかり聞こえてしまうのだが。
「ここだな。」
部屋に着いて扉をノックした。中にはベルウッド先生が1人でいて、机の上には本が山になっている。私は剣士団長の伝言を伝え、必ず明日の朝来てくれるようにと頼んだ。
「わかりました。では忘れないように書いておきますね。」
ベルウッド先生は紙に大きく「ラッセル卿、薬を飲んだら団長室へ」と書き、机の上に置いて文鎮で押さえた。
「ずいぶん大きく書くんですね。」
「ははは、私は実は忘れっぽいんですよ。こうして見えるようにしておけば、私が忘れても本人が気づくでしょうからね。」
あれならば間違いなく本人に伝わるだろう。いやそもそもベルウッド先生本人だって忘れないに違いない。
「これでやることは終わりかな。あとは病室で夜勤の先生達が来てくれるのを待つか。」
リーザの目が覚めているので、医師も看護婦も今夜はそんなに忙しくないだろう。私達は宿に戻り、リーザとハディの話について、妻と答え合わせをしなければならない。
リーザの部屋に着いて、ノックすると開けてくれたのはセーラだった。中にはいい匂いが漂っている。そう言えば医師会の廊下でも、看護婦達が調理場の方に歩いて行くのを見た。食事を配る時間になっていたらしい。
「君が持って来てくれたのかい?」
尋ねるとセーラは、一番おいしそうなところを持って来ました、と笑っていた。
「お疲れさま。それじゃあとはアスランのところに戻ってもらっていいよ。また明日来てくれればいいからね。」
「セラフィさん、いろいろありがとう。また明日ね。」
リーザが笑顔で言った。今のところは落ち着いているようだ。
「はい、それではまた明日伺います。」
セーラは笑顔のまま挨拶をして病室を出て行った。
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