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第106章 姉妹の確執

 
 ロビーに出てしばらく待っていたところ、ランサル子爵家の使用人が入ってきた。私を見ると慌てて駆け寄り深々と頭を下げた。
 
「申し訳ございません。お待たせしてしまいましたか!」
 
 私は用事が早く終わったのでたまたま早くなっただけだから気にしないでくれと言った。妻とイノージェンはまだ来ていないことも。私達が話をしている間にもロビーに入ってくる人々はどんどん増える。
 
「はい、ここまででーす。」
 
 入り口のほうで声が聞こえ、人の波はいったん止まった。どうやら人数制限がかけられたらしい。
 
「すごい人ですねぇ。」
 
「はい。でもこれは、フロリア様の始められた祭りを楽しむ人々がそれだけたくさんいらっしゃると言うこと、ひいてはこの国が平和であることを表わしております。嬉しいことでございますね。」
 
 ランサル家の使用人は人混みをにこにこと見ている。確かにそうだなと思った。敵対する国家というものがないエルバール王国で唯一の脅威だった「モンスター」がおとなしくなってから、人も物も町同士の行き来が盛んになった。地方から城下町に来るのに、みんな馬車で来る。「モンスター」の危険はなく「けもの」を刺激しなければいい。
 
(そう考えれば・・・この人混みも歓迎すべきものと言うことになるわけか・・・。)
 
 考えようだと思うが、こうして起こる事象を肯定的に捉えるというのは大事なことだ。
 
「お待たせ〜。」
 
 イノージェンと妻が走ってきた。2人とも「相変わらずすごい人ねぇ。」と目を丸くしている。
 
「外に馬車を待たせてございます。皆様どうぞ。」
 
 ランサル子爵家の使用人が先導して、私達はロビーの壁際を通って入り口にたどり着いた。今日は中にも王国剣士がいる。
 
「外に出られますか?」
 
 この王国剣士は内側の門番というところか。
 
「はい、よろしくお願いいたします。」
 
 ランサル子爵家の使用人が頭を下げた。扉は大きく開かれ、私達が外に出るとすぐに閉まった。外にも人が溢れ、王宮見物の順番待ちをしているらしい。私達が外に出たことで、次の見物客が入れると勘違いしたのか、何人かが中に入ろうとして外側にいる王国剣士に止められている。
 
「何だよまだなのか!?」
 
「前の見物の皆さんは入ったばかりですよ。」
 
「もう出てきたじゃないか!」
 
「ここは王宮です。人の出入りは常にあるんです。とにかく次の時間まで待ってください。」
 
 王国剣士と順番待ちの客達の押し問答を後ろに聞いて、私達はランサル子爵家の紋章がついた馬車に乗り込んだ。
 
「今日はパレードの日ではないのね。でもこんなに人がいてはパレードがあってもなくてもあんまり変わらないわね。」
 
 妻が馬車の窓から外を見ながら言った。この町では馬車が走れる道は限られている。王宮を出てすぐに右に曲がり、馬車用に整備された石畳の道を貴族のお屋敷が建ち並ぶ区画へと入っていく。その沿道にもかなりの数の人がいる。本来この道を人が歩くことは出来ないのだが、観光客などはお構いなしに入ってくるらしい。馬車はスピードを緩めて、人に接触しないように慎重に進んでいった。
 
 
「到着しましてございます。」
 
 使用人の声で、私達は馬車を降りた。門の前から屋敷の入り口まで道が延びている。門を開けてもらい、中に入る。道の両脇には花々が植えられている。派手すぎない美しい花が多い。そして花と共に緑の植え込みもきれいに手入れされている。花と緑の対比が美しい。どの季節も美しく見えるよう、気を使っているのですと、使用人が歩きながら説明してくれた。
 
 道の先に見えるランサル子爵邸はそれほど大きくないが、趣味のよい落ち着いた建物だった。入り口に立っているのは、ランサル子爵夫妻と何人かの使用人だ。
 
「ようこそランサル子爵家へ。突然のご招待にもかかわらず、快く受けてくださいましたこと、感謝申し上げます。」
 
 ランサル子爵とチルダさんが礼をした。子爵はさっとあげた右腕をゆっくりと自分の胸元に持って来て礼をする。チルダさんはスカートの端をつまんで優雅なお辞儀をした。
 
(あれって・・・普通は位が上の人にへりくだってやるお辞儀だよなあ・・・。)
 
 チルダさんのお辞儀は貴族の女性がするごく一般的な礼だが、子爵のはどちらかというと、執事が主の命令に従う時のような・・・。
 
 ちらりとイノージェンと妻を見ると、きょとんとした顔をしている。
 
「ほらあなた、イノージェンさん達が驚かれてますわ。」
 
「ははは、いいじゃないか。私は偉そうに上段に構えるのは好きじゃないからね。」
 
 身分というなら当然ながら貴族である子爵が上だ。来てくれてありがとうくらいの礼を言うだけでいいと思うのだが、いかにも自分が上だというのを相手に見せつけるような挨拶の仕方は、この子爵閣下は好きではないらしい。今の礼もちょっとした茶目っ気なんだろう。ここは合わせておこう。
 
「さあ皆様、中へどうぞ。ここから先はこちらの者達がご案内いたします。」
 
 先ほど入り口で出迎えてくれた使用人達が、ランサル子爵が話し終わるのを待って私達を中に案内してくれた。
 
「では後ほど。」
 
 子爵夫妻は私達がお茶会の部屋に通されてから、改めておいでになりますとのことだった。
 
「こちらでございます。どうぞお入りください。」
 
 通された部屋はそんなに広くはない。落ち着いた色合いの家具調度、天井も壁も目に優しい色で塗られている。華美な装飾はない。
 
「もう少ししたら主が参りますので、それまでお寛ぎくださいませ。」
 
 客を部屋に通し、少し落ち着いた頃合いを見計らって当主夫妻がやってくると言うことらしい。
 
「素敵なお部屋ねぇ。派手ではないけど色調や装飾がとてもきれいだわ。」
 
 イノージェンは部屋の中を見回している。私も貴族の家と言えばセルーネさんのところくらいしか知らないが、落ち着いた家具調度という点では共通点がある。
 
(そう言えばガーランド男爵家には入ったことなかったな・・・。)
 
 リーザが『貴族のお嬢様』という目で見られることを嫌がったので、私達は家に招かれたことはない。でも本当にリーザがいやだったのは、自分の家族を見られることだったのかも知れないと、今になって思う。頑なに夫の昔の恋人とその娘を憎み続ける母親は、多分あの頃からもう精神的に少しおかしかったのではないだろうか。自分が産んだ息子さえ、男であると言うだけで母親としての温かい言葉をかけることはなかったという。そして昔の恋人との楽しかった日々ばかり追い求める夢想家の父・・・。
 
(客に対して酷い対応をするとは思えないけど、リーザの立場からすればあまり私達に紹介したくはなかっただろうな・・・。)
 
 しかも母親は槍を習うことも剣士団に入ることも反対し続けていたというし・・・。
 
 
「子爵ご夫妻がお見えでございます。」
 
 その声と共にランサル子爵とチルダさんが部屋に入ってきた。
 
「改めて歓迎申し上げます。」
 
 私達は立ち上がり、ランサル子爵は私達1人1人と握手を交わした。
 
「今日はおいでいただきましてありがとうございます。急なご招待で申し訳ありませんでした。妻にお会いいただけるのでしたら、早いほうがいいと思いまして。」
 
 ランサル子爵が頭を下げた。
 
「そんなことありませんわ。私も、お会いするなら早いほうがいいと思っていましたから。」
 
 イノージェンが言った。
 
「イノージェンさん、まず謝罪させてください。あなたのお母様に不義の疑いをかけるようなことを姉が申し上げたそうですね。本当に、申し訳ありませんでした。」
 
 チルダさんが頭を下げた。今こんな話をするとは、よほど気にしていたのだろう。
 
「チルダさん、お顔をあげてください。そこまで言われるかもしれないと思っていたので、そんなに腹は立たなかったんです。何を言われようと、それが全くの事実無根であることはわかっていますから。でもこうして謝罪していただけて、嬉しかったです。ガーランド家の皆さんは、私のことを快く思っていない方達ばかりだと思っていましたから。」
 
 イノージェンがチルダさんの手を取った。
 
「イノージェンさん、ありがとうございます・・・。」
 
 チルダさんの瞳から涙が一筋流れて頬を伝った。
 
「ずっと、お会いしたかったんです。イノージェンさんの存在を初めて聞いた時から・・・。」
 
「チルダ、イノージェンさん、皆さんもお掛けください。ゆっくり話をしましょう。」
 
 ランサル子爵が言ってくれたので、私達も椅子に座った。
 
「でも私の存在を知ったリーザさんやラッセル卿は、いい顔をなさらなかったのではありませんか?」
 
 チルダさんがうなずいた。
 
「ええ、でも、まずはお会いして話をしてみてはと提案したのですが・・・。」
 
 家を出た人間が勝手なことを言うなと言われたと言うことらしい・・・。
 
「だから今日は楽しみにしていたんです。相続のことで最近は頭が痛いことばかりでしたので。」
 
「私も楽しみにしていたんです。でも1つだけ、お2人に了解をいただかなければならないことがあります。」
 
 イノージェンはそう言って、オシニスさんとレイナック殿から今回のお茶会で話したことを、教えてくれないかと頼まれたことを話した。
 
「なるほど。確かに団長殿としてもレイナック様としても、ここでの会話は気になるところでしょうな・・・。しかしイノージェンさんとしてはいかがです?既に異議申し立ての裁定は下り、イノージェンさんはガーランド家とはきれいに縁を切ることが出来たのに、まだそう言う話を持ちかけられるというのは、いささかご気分がよくないのではないかと思いますが。」
 
 ランサル子爵が言った。
 
「いえ、逆にきれいに縁が切れたからこそ、今後ガーランド家の方と交流することには、私は胸を張っているべきだと思ったんです。ここで話したことが相続の内容に影響を及ぼすようなことは一切ないという話もはっきりと伺いました。でももちろん、たとえばチルダさんの個人的な悩み事、或いはランサル子爵家に関するお話などが話題として出たとしたら、それは勝手に他人に話すべきことではないと思います。でも団長さんにもレイナック様にも、今回の異議申し立てのことではとてもお世話になったので、私に出来ることはしたいと思ったんです。だから子爵様とチルダさんが了承してくださった部分についてだけは、お話ししてもいいと言うお返事はしてあります。」
 
「なるほど。やはり実際にお会いして話をしてみないと、その人となりというのはわからないものですね。イノージェンさん、あなたはとても優しい方ですね。チルダ、今回のことは君の問題だ。君の決めたことに私は従うよ。」
 
 チルダさんはランサル子爵を見て、にっこりと笑った。子爵は子爵なりに、チルダさんのことを心配していたらしい。イノージェンについてはランサル家にとっても未知の人物だ。ガーランド家のように敵意をむき出しにすることはなくても、ある程度その人となりを確かめたいというのは当たり前のことだと思う。
 
「わたくしはどんなことでも話していただいてかまわないと思っています。話さないでいただきたいことは、予め『これは他言無用で』とお願いすることにして、それ以外のお話についてはイノージェンさんとクロービスさんご夫妻のご判断で話してください。」
 
「わかりました。ねえクロービス、ウィロー、2人ともそれでいいわよね?」
 
「もちろん。君が決めたことだからね。」
 
「私もよ。あなたがそう決めたのなら、私達には異論はないわ。」
 
 
「ありがとうございます。ではここからは、おいしいお茶とお茶菓子をつまみながら話しましょう。お茶会を始めましょうか。」
 
 チルダさんが『お願いね!』と大きな声を入り口のほうにかけると、使用人達が何人かで、お茶道具を持って入ってきた。その中に見慣れないものがある。
 
「これは何ですか?」
 
 テーブルの中央に設えられたそれは、金属の枠で出来ていて背が高い。中は3段ほどに区切られていて、それぞれの段に皿が載っている。その皿にはそれぞれに料理などが盛られているのだが、こんな形のものは見たことがない。一番下にはサンドイッチが、2段目には温かい料理が載っている。小さなミートパイ、スコーンなどだ。そして最上段にはかわいらしいデザート。
 
「ふふふ、実は最近わたくしが考えたんです。」
 
 チルダさんが話してくれたところによると、ここしばらく相続の問題で夕食をとる時間が遅くなることが多かったらしい。男爵は家督相続の意思を示さないまま病気で倒れたことにしようと画策していたようだが、当主が病気となればいずれその先に相続の問題が出てくるのは目に見えている。ラッセル卿としては、相続の手続きを踏む前に実際の財産などがどのくらいあるのか、それを確認しておくために以前から動いていたのだろう。どうやら最初の頃は、チルダさんに連絡をせずに話を進めようとしていたらしいのだが、手続きの時に全員のサインがなければ書類は無効だと言われたとかで、渋々チルダさんに連絡をしたというのが真相らしい。リーザやラッセル卿がチルダさんに対して『お前は家を出た人間だから』と言っていても、必要な手続きは相続人全員が揃ったところでしなければならないし、山のような資料の確認も3人でやるべきことだ。もちろんサインは全員分必要になる。
 
(それにしても酷い話だな・・・。まさか本当に・・・。)
 
 男爵家を建て直すためにチルダさんの相続分を出し渋りするなどと言う話が、現実味を帯びてきた。
 
(チルダさんに対して、ことあるごとに『家を出た人間だから』と言っていたのも、もしかしたら『家を出たのだから自分達と同じ額の相続分は渡さない』という意思表示なのかも知れない・・・。)
 
 私の考え過ぎならばいいのだが、こんなよくない予感は大抵当たるものだ。リーザは相続の手続きと決まり事についてよく知っているはずだ。だとすれば、チルダさんに話をしないで進めようなどと考えたのは、ラッセル卿だろうか。彼はドーンズ先生にいいように言いくるめられていたようだから、ちゃんとした決まりや踏まなければならない手続きについて、よく知らなかったのかも知れない。
 
(いや・・・もしかしたら・・・。)
 
 ガーランド男爵にとっても、ラッセル卿が法律などにあまり明るくない方が都合がいいということか・・・。夫人の実家からの送金などについても、おそらくラッセル卿は何も知らないはずだ。だが彼が法律や決まり事に詳しくなると、もしかしたら男爵にとって不都合なことを知られてしまう可能性がある。でも男爵は、自分が病気で倒れても倒れなくても、相続となればいずれ子供達は全てを知るのだと考えなかったのだろうか。
 
「・・・そんなわけで書類を書いたり内容を確認したりと、夫も一緒に実家に行ったりしていたので、子供達と一緒に食事をする時間もなかなか取れなくて・・・。」
 
「子爵閣下も手続きの場にいらっしゃったのですか?」
 
 私の問いに、ランサル子爵は居心地悪そうに頭をかいた。
 
「えーと・・・クロービス先生、その・・・子爵閣下という呼び方はやめていただきたいのですが・・・。どうもそう言う呼ばれ方をされると居心地が悪くて・・・。」
 
「それは失礼しました。何と呼べばよろしいですか?」
 
「その・・・名前でお願い出来れば・・・。」
 
「ではロゼル卿とお呼びしましょうか。」
 
「ええ、その・・・それだとありがたいです・・・。」
 
 ものすごく言いづらそうなロゼル卿を横目で見て、チルダさんが笑い出した。
 
「クロービスさん、すみません。ロゼルは昔から放蕩息子などと言われてきたので、格式張った呼ばれ方がものすごく苦手なんです。」
 
「いえ、私の方も気軽に呼ばせていただけるのはありがたいです。」
 
「わがままを申し上げてすみません。イノージェンさんもウィローさんも、気軽に名前で呼んでいただけると嬉しいです。」
 
「では私もロゼル卿と呼ばせていただきますわ。」
 
「では私も。」
 
 イノージェンと妻が言ったことで、ロゼル卿がほっとしたように笑った。
 
「話を逸らしてしまってすみませんでした。私がガーランド家に妻と一緒に行っていた件でしたね。何と言っても、妻だけだとどうしても義姉や義兄に言い負かされてしまうのですよ。もちろん私は相続の書類に目を通すことはありませんが、私が後ろに控えていれば、義姉や義兄も妻を蔑ろにするような事は出来ませんからね。」
 
 そんなわけで2人とも家に帰る時間は遅く、夕食はなかなか家族一緒にとれない。そこでチルダさんが考えたのがこの軽食のセットだそうだ。
 
「お茶の時間に子供達と軽く食事をつまみながら、話をすることにしたんです。子供達はこの時間にこのくらいの軽い食事をしても、夕方にはお腹が空きますから、普通に夕食を食べて寝るようにメイド達に頼んでおくんです。わたくし達もこの時間に少しでも食べておけば、夕食が遅くなってもそれほどお腹が空かずにすみますから。この方法だと毎日必ず一度は子供達と話が出来るので、子供達にも好評なんです。」
 
「面白いですねぇ。」
 
 イノージェンと妻は早速見入っている。
 
「一番最初は大きなお皿にいろいろ載せていたんですよ。ところがみんなで手を出すとごちゃっとしてしまって見た目が悪くなってしまうので、お皿を分けたんです。ところが今度はテーブルの上がごちゃごちゃしてしまって・・・。」
 
 そこで家族みんなに意見を聞いて、さらに使用人達にも話を聞きながら、こう言った形になったのだそうだ。
 
「うちの使用人の中に鉄の溶接などが出来る元職人がいましてね。妻が相談したら、こんな形で枠を作って、それに合う皿を載せればうまく行くんじゃないかって、試作品を作ってくれたんですよ。」
 
 ロゼル卿が言った。
 
 
『旦那様、奥様、お茶の時間に軽食を載せるのにこんな形のものはいかがでしょうか。』
 
『まあ、これは。』
 
 驚いたチルダさんがどう使うのか聞いたところ、3段になっている枠に大きな皿を載せて、それぞれに軽食やデザートを載せたらどうかという提案をしてくれたのだそうだ。
 
『これならばそれぞれの皿に置かれた食事が混ざったりすることはありません。いかがでしょう。』
 
『ほお、なるほどな。横に広げるとお茶などを置くのが難しくなってしまうが、縦の空間を利用すると言うことか。』
 
『これは盲点だったわね。』
 
 
 さっそくそれを他の使用人達や家族にも見せたところ、これは楽しそうだという話になり、どの段にどんな食べ物を載せるかでまたいろいろと意見を出し合い、この形になったのだそうだ。
 
「一番下には軽食を載せてあります。ほとんどがサンドイッチのような軽いものですね。2段目は温かいものも食べたい時があるので、小さなミートパイやスコーンなどを置いてみました。そして一番上にはデザートです。この形にしてから初めて出した時には下と上が逆だったんですけど、それだとうっかりミートパイの中身をこぼしたりした時に、せっかくのデザートに油がついてしまったりして、それでデザートは一番上になりました。」
 
 チルダさんは楽しそうに説明してくれる。そう言えば、料理もお菓子作りも好きだという話は昔していたことがあったと思う。ただそれを教えてくれたのは、母親ではなく厨房のメイドやシェフだったらしい。チルダさんとしてはリーザと一緒に料理を教わりたかったらしいのだが、リーザは槍の稽古に夢中で、一緒に教わるという夢は叶わなかった・・・。
 
 
『お姉様ったら全然お料理に興味を持ってくださらないんですもの。』
 
『そんなこと言われても・・・細かい作業って苦手なのよ。』
 
『なるほどな。それでお前はごった煮も作れないまま大人になったと言うことか。』
 
 呆れたように肩をすくめるハディに、リーザが怒っていたっけ・・・。
 
 
「でも特に何段目はこれ、と決めているわけではありません。その時によって全部の段がデザートになったり、2段分軽食にしたり、その時いらっしゃるお客様によっていろいろと変わります。大事なのは決まり事を作ることではなく、おもてなしですから。」
 
「ではお茶は私が淹れましょう。」
 
 ロゼル卿が立ち上がってお茶を淹れ始めた。
 
「ロゼル卿がお茶を?」
 
「ええ、最近はレイナック様や剣士団長殿がお茶をうまく淹れる練習をされていると聞きましてね。これからの時代、男といえどもおいしいお茶くらい淹れられなければ、妻に嫌われてしまうのではないかと危機感を持ちまして。」
 
 隣でチルダさんが笑い出した。
 
「もうあなたったら!わたくしはそんなことであなたを嫌いになったりしませんわ。あなたは、あの家からわたくしを連れ出してくれた、いわば恩人なんですもの・・・。」
 
「連れ出して・・・?」
 
 イノージェンが不思議そうに聞き返した。チルダさんは少しだけ「しまった」と言う顔をしたが、すぐに元の笑顔に戻った。
 
「クロービスさん、昔、外で兄と一緒に姉やクロービスさん達を巻き込んでお茶を飲んでいた頃、わたくしが『家を出てからの方が自由にしている』と申し上げたことがあったこと、覚えていらっしゃいます?」
 
「・・・覚えていますよ。リーザから少しだけお家の事情を伺っていたので、大変だったんだろうね、なんて相方のカインやハディと話していたことがあります。」
 
 
『貴族のお姫様って言うのは大変だな。自由に外にも出られないなんて。』
 
 カインが気の毒そうに言った。
 
『でも男爵家だからなあ。可能性としては普通の一般人と結婚するかも知れなかったのに、外にも自由に出られないってのもおかしな話だよな。一般人と結婚することになれば、ある程度町の中のこともわかってなくちゃならないじゃないか。』
 
 ハディが首をかしげる。
 
『でも結果として子爵家に嫁いだわけだからね。』
 
『でもどうやらその子爵家は割と開放的な家らしいな。だからあんな風に自由に外歩きが出来るんだろうな。』
 
『仕事中だからそんなに頻繁には無理だとしても、わかることはいろいろ教えてあげられるといいなあ。』
 
 城下町を遊び場にして育ったカインは、町の中の地理に詳しい。チルダさんとラッセル卿に会った時は、町の中の情報をいろいろと教えていたのを覚えている。
 
 
「ええ、そう言えばカインさんにはいろいろと教えていただいたんですけど、お店とかの情報と言うより、あの角を曲がったところに寝ている犬は実は凶暴だとか、路地の奥ではうまく行けば猫の集会が見られるとか、そう言う話が多くて。」
 
 チルダさんが笑い出した。
 
「あー、その話は憶えてるよ。2人で覗きに行ったことがあったね。猫の集会を見られたのはいいんだけど、うっかり猫のしっぽを踏んづけて追いかけられる羽目になったなあ。」
 
 なんとロゼル卿とチルダさんは、カインから聞いた話を確かめようと実際に教えてもらった道を歩いてみたらしい。これにはみんな笑い出してしまった。
 
「ふふふ、わたくしあの時、この方と結婚してよかったわって、心から思いましたわ。」
 
「では結婚するまではほとんど外出出来ずに?」
 
 イノージェンがチルダさんに尋ねた。
 
「ええ、母の方針で、結婚するその時までは花嫁修業をして、身持ちの堅い真面目で立派な殿方に嫁ぐようにと毎日言われておりましたから・・・。」
 
(リーザからもそんな話を聞いてような気がするなあ・・・。)
 
 何をもって『身持ちの堅い真面目で立派な殿方』なのかはわからないが、そんな話を毎日されるというのは、ある意味呪いのようなものだ。チルダさんも辛かっただろう。
 
「私には義母に当たる人物でしたが、いやー、チルダ嬢を妻に迎えたいと話を持っていった時の剣幕は凄まじかったそうですよ。」
 
 ロゼル卿が苦笑いをした。
 
「では反対されたのですか?」
 
 イノージェンが驚いて尋ねた。目の前にいる子爵閣下はとても誠実そうに見える。何が気に入らなかったのだろう。
 
(この方も今では落ち着かれたみたいだけど、あんまり素行のよくない方だって言う噂があったからなあ。)
 
 もちろん実際のところはわからない。当時私達だってロゼル卿に会ったことなんてなかった。
 
「ええ、当時私は子爵家の放蕩息子として名を馳せておりましたからね。あんなバカ息子にうちの娘はやれんと、うちの使者が叩き出されそうになったものです。義父のおかげで何とか中に入れてもらえましたがね。」
 
 ガーランド男爵はランサル子爵家からの申し込みの書状を受け取った。チルダさんは父親に『本当にロゼル・ランサル殿と結婚したいのかね?』と尋ねられたそうだ。
 
「わたくしの心は決まっていましたから、ぜひにと返事しました。母は怒って私を部屋に閉込めようとしましたが・・・父が間に入って、嫁ぎたいというのであれば、親がどうこう言えるものではないと言ったのですが・・・。」
 
 男爵夫人は夫に対して『あなたは親の意に沿わぬ結婚をして後悔していますものね!』と吐き捨てるように言い放ち、自分の部屋に籠もってしまった。
 
「わたくしが小さな頃は、とても仲が良かったのですが・・・。」
 
 その仲に亀裂が入ったのはチルダさんが5歳くらいの頃、嫡子のリーザが10歳になり、そろそろ家督相続の話が持ち上がった頃のことだったらしい。
 
「わたくしはそんなに詳しく憶えていないのですが、祖父が突然父のところにやってきて、すごい剣幕で書斎に引きずるようにして連れて行ったんです。」
 
 その理由は、どうやら紙幣にガーランド家の印を勝手に押していたことが原因らしかった。イノージェンの母さんのところに送られてきた、あの紙幣だ。そもそもその印を使うことが出来るのは当主だけなので、当時ならその祖父君しか使えないはずのものだった。
 
「その印をこっそり持ち出して、たくさんの紙幣に印を押していたことが祖父に知られてしまって、その理由を聞かれたそうですが・・・。」
 
 家のために別れた昔の恋人に送って、娘の養育費に充ててもらうつもりだと、チルダさんの父親ははっきりと言ったらしい。そして祖父君の剣幕に、心配になったチルダさんの母親が夫の後を追い、その話を聞いてしまった・・・。
 
「結婚前に恋人がいたことは、母は聞いていたみたいです。でも結婚してからは誠実な夫として振る舞っていた父が、まさかその恋人との間に出来た娘の養育費を送るために、勝手に印を使って紙幣に押していたと聞いて、母はショックで寝込んでしまいました。」
 
 泣き暮らす母親が気の毒で、リーザは父親に詰め寄ったこともあるらしい。もしかしたらそれは、遠い昔、南地方への遠征の時に私が野営地で見た夢なのかも知れない。
 
「父は今では母のことを愛しているけど、母が信じてくれないと言っていたそうですけど・・・。でもそれまでは仲のいい夫婦だったのに、それが壊れた原因は両親のどちらにもあると私は思ってます。」
 
 紙幣の一件以来、顔も見たことがない娘を気遣う夫に対して、チルダさんの母親は信じることが出来なくなった。でもその頃はチルダさんの父親は、妻と仲直りしようと話し合いを試みたことはあるらしい。だが、その娘にお金を送ったり、昔の恋人に手紙を送るのをやめてくれと言っても、それだけは父親が頑として受け入れなかった。その言い分は『北の島という極寒の地で2人は苦労している。せめて私が手を差し伸べてあげなければ』と言うことらしい。それは2人のためではなく、男爵が家のために恋人と生まれてくる子供を捨てたという自責の念を、少しでも薄めるためだろう。つまりは自分のためだ。本人がそれに気づいていたかどうかはともかくとして。
 
 北の島は確かに寒いが、暮らしにくいと言うほどではない。昔から島に住んでいる人々が、外からやってきた人達に寒い場所での暮らしのコツを教えたり、イノージェンの母さんとサンドラさんのように技術がある場合はその技術の提供を頼んだりと、共存共栄でずっと暮らしてきたのだ。ガーランド家からの援助など、イノージェン親子には必要のないものだった。
 
 だからイノージェンの母さんは送られてくる『必要のないお金』を使わずにとっておいた。そしてそれはイノージェンの手でガーランド家に返却するために、城下町に持って来たのだ。お金と一緒に今まで男爵が送った手紙も全て含めて。
 
「それ以来、母は私達子供に対する接し方が変わりました。姉とわたくしには『身持ちの堅い真面目な男性と結婚するよう』くどくどと言い聞かせ、行動を制限するようになりました。兄は『男など皆同じね』と冷たい目で見られるようになって、家族はばらばらになってしまったのです・・・。」
 
 と言うことは、ラッセル卿も小さな頃には母親の愛情を受けていた時期があるのだろう。それがいきなり冷たくなられたのでは悲しかったと思う。
 
「父と母は寝室も別々にして、ほとんど口をきくこともなくなりました。姉は何とか両親の仲を取り持とうとしたこともありましたが、父は自分から積極的に母と話し合おうとしなくなり、母は自分の部屋からほとんど出ようとしなくなりました。」
 
 チルダさんが流れ出た涙を拭った。
 
 
 その後、ガーランド男爵家では家督相続が行われた。祖父君としては今のまま息子に地位を譲るのは心配だったらしいのだが、以前一度体を壊してからはずっと本調子ではなく、領地運営についてはほとんど息子を頼っていたらしい。それでも家督相続後に息子がバカなことをしないようにと出来る限り目を光らせておこうと思ったらしいのだが、家督を譲ったあと数年して亡くなってしまった。
 
「・・・わたくしは、あの家から逃げ出したかったんです。父の元恋人が旅立ったという北の地よりも、あの時の我が家のほうがずっと冷え切っていただろうと思います。母は槍の稽古に明け暮れる姉を嫁がせることを諦めたのか、わたくしを積極的に様々な家のサロンや舞踏会に送り出していました。そんな時舞踏会で夫と出会い、何度か話をするうちに好意を持つようになりました。それで、夫に頼んだんです。『あの家からわたくしを連れ出してください』と。」
 
 リーザが槍の稽古に明け暮れていた理由の1つには、家の中の冷たい空気から逃げたかったと言うこともあるのかも知れない。母親から見れば、本来ならば家督を相続する長子は全くその気がなく、結婚しようとは思ってないらしい。2番目は男の子で、家族を裏切った夫と同じ血が流れていると思うと腹立たしい、それで3番目の娘に、自分の思い通りの人生を送らせようとしたのかも知れない。
 
 子供の人生を親の思い通りになんて出来ないし、するべきではないと思う。でもそんなことをちゃんと考えられるような精神的余裕なんて、その時の男爵夫人にはなかったとも思う。今聞いた話だけで決めつけることは出来ないが、それでもやはり男爵がもう少し家族を思いやっていたらと考えてしまう。
 
「その話をされた時には驚きましたよ。それでよくよく話を聞いてみれば、確かに早く連れ出してやりたいとは思いましたが・・・何と言っても私は『身持ちの堅い真面目で立派な殿方』の対極にいるような人間ですからね。父君はともかく母君には気に入られないだろうなあとそれが心配でしたね。」
 
 ロゼル卿が話しながら肩をすくめた。それでも、放蕩息子として悪名を馳せる息子に縁談が持ち上がるとはありがたいと、先代のランサル子爵夫妻がチルダさんに会ってくれて、こんなにかわいらしいお嬢さんならばぜひうちにと言うことで話が決まったらしい。そして結婚の申し込みの書状を携えたランサル子爵家の使者殿は、危うくガーランド男爵夫人から門前払いを食うところだったと、そこに繋がると言うことか。男爵夫人としては、『身持ちの堅い真面目な殿方』に縁づくよう願って様々な舞踏会などに娘を送り出していたのだろうが、まさか真逆の男性と知り合うとは考えていなかったのだろう。だが世の中とはそうそう思い通りにはならないものだ。今のチルダさんはとても幸せそうなので、これでよかったのだと思うのだが、何もかも思い通りにならないことで、男爵夫人は余計にふさぎ込んでしまったのかも知れない・・・。
 
 イノージェンも妻も頷きながら聞いている。かなり酷い話もあるが、2人とも黙っている。チルダさんがこんな話をしているのは、別に妻やイノージェンにいかに自分が酷い目に遭ったかを知ってほしいわけじゃなく、ガーランド男爵家で起きた事をイノージェンにも知っておいてほしいからだろう。辛いことがたくさんあったとしても、今チルダさんはとても幸せそうだ。そこに恨み辛みのような負の感情は感じられない。
 
(本当は、イノージェンとウィローがいればよかったんだろうなあ。)
 
 女同士のおしゃべりというのは、内容がどんなものであっても楽しいらしい。だが最初にイノージェンと会いたいと私に頼んだために、私も一緒に招待を受けたのかも知れない。まあここは黙っておこう。
 
「でもロゼル卿がそんな放蕩息子だったなんて、全然思えないですね。」
 
 イノージェンが尋ねた。それは私も同感だ。
 
「いや、うちの両親の教育方針だったんですよ。『どんなことにも興味を持って体当たりしてみろ』という。」
 
 それで本人の言葉を借りれば『調子に乗ってやりたいことをやっていた』らしい。気づけばランサル子爵家の長子は放蕩息子だバカ息子だとさんざんな言われようになっていたというのだ。先代の子爵夫妻はそれも自分達の教育方針の結果だと受け止めていたらしいが、それでも嫁の来手がないことにはいささか気を揉んでいたらしい。
 
「私もまあ、そんな悪い噂ばかりの男に、嫁いでくれると言われて嬉しくなりまして・・・。」
 
 2人は無事に結婚したのだが、チルダさんがほとんど外に出たことがないと聞いて、これから家督を継いで子爵家を切り盛りして行くにはもっと見聞を広めた方がいいという両親の勧めもあり、2人は結婚当初から外を歩いてカフェに入ったり食事をしたり芝居を見たりしていたらしい。公爵家やある程度家柄の古い伯爵家のご令嬢ならともかく、一般的な貴族の娘が普通に経験するようなことだが、チルダさんにとっては見るもの聞くもの全てが新鮮で、驚きに満ちていたということだ。そして姉のリーザが剣士団に入ってからは、兄のラッセル卿と2人でリーザの仕事の見学に行きたいというチルダさんを、先代の子爵夫妻もロゼル卿も笑顔で送り出してくれた。
 
「わたくし、結婚してからはとても自由で充実した日々を送れていました。姉が剣士団に入り、1人あの家に残ることになった兄が心配でしたけど、父と一緒に領地運営を担うことになったと聞いて一安心していました。あの頃は兄弟3人が一番仲が良かったのじゃないかと思います。」
 
 リーザは王国剣士として、チルダさんはランサル子爵夫人として、そしてラッセル卿は家督を継ぐべく結婚し、子供にも恵まれて優しい夫人と共に領地運営を父親と一緒に担ってきた。その幸せがそのまま続けば、何事もなかっただろうに。
 
 領地運営を担うといっても、実際にお金の管理をしていたのは父親である男爵だ。本来領地運営を共に担ってくれるはずの男爵夫人は、夫が爵位を継いでも一切家のことには関わろうとしなかったらしい。
 
 だが男爵としては夫人の助けを当てにしたい。どこの家も夫婦が力を合わせて領地を運営し、家を切り盛りしているものだ。そう言って妻を説得しようと男爵は話し合いをしようとしたらしいのだが・・・。
 
『あなたの恋人でも連れてくればいいでしょう。』
 
 母がそう言って父を冷たい目で見ていたと、ため息とともに話してくれたのはラッセル卿だったそうだ。その後も男爵夫妻の間に入った亀裂が埋まることはなく、男爵夫人は命の尽きる最後の瞬間まで、夫の昔の恋人とその娘を呪いながら亡くなった。その恋人本人はとっくに亡くなっていたというのに。そして・・・
 
『一目でいいから娘に会わせてほしい』
 
 男爵がそう言い出したのは、妻である男爵夫人が亡くなって一年ほど過ぎた頃のことだった。昔の恋人はもう亡くなっている。でも娘は健在だと言うことなので、自分の命があるうちに一目会って話をさせてほしいというのが、男爵の言い分だった。この話に真っ先に異を唱えたのはリーザだったらしい。母親との確執は3人の子供達の中で一番長いわけだが、母親の苦しみを見続けてきた時間も、3人の中では一番長かった。イノージェンの母さんの不義を疑った時だって、リーザの言い分はほとんど言いがかりのようなものだった。それも母親を思うあまりのことだ。
 
 そしてその次に反対したのはラッセル卿だ。彼が気にしたのは『自分の命があるうちに』という男爵の言葉だった。命があるうちに婚外子である娘と会いたい、それは何を意味するのか。
 
『父上はまさかその娘を、相続人の1人にするつもりじゃないだろうか。』
 
 その頃にはガーランド男爵家の領地運営はラッセル卿夫妻が担っていた。父親である男爵本人はあまり手を出さなくなっていたらしい。だがその頃には男爵家の台所事情はかなり悪くなっており、家としての体面を保ち、使用人や運営している事業の中で働く人達の生活の面倒を見るだけで、ぎりぎりの状態が続いていたらしい。父親である男爵に万一のことがあれば、相続の問題は必ず出てくる。その前にその娘と会えば、夢想家の父のことだ、必ずその娘に相応の相続分を与えると言い出すだろう。それだけは避けなければならないと、ラッセル卿は考えたのだろう。
 
 だがガーランド男爵家の3人の子供の中でただ1人、チルダさんだけはその女性に会えるのが楽しみだった。父親の昔の恋人とその娘の存在を最初に知った時から、自分にもう1人姉と呼べる存在がいると聞いて、ぜひ会ってみたいと思っていた。でも姉と兄の反応を見て、楽しみだなどと言ったらどれほど2人が怒るかわからない。そして姉も兄も最初からその女性を悪であると決めつけるような言い方ばかりする。だから出来る限りやんわりと『せめてお会いして話をしてから判断してもいいのではありませんか』そう言ったのだが・・・
 
『あなたはもう家を出た人間よ。余計な口出ししないで。』
 
 冷たい姉の言葉。
 
『お前は気楽でいいな。うちはお前の家ほど金はないんだ。余計なことは言うな。』
 
 兄もバカにしたようにチルダさんを見た。
 
 
(リーザがお母さんのことでかなり感情的になっていたのは理解出来るけど、ラッセル卿についてはあの「ハーブティ」の量が増え始めた頃よりも大分前の話のはずだ。ということは、ラッセル卿は領地運営や家の事業の運営がうまく行ってなくて、それなのにそんな話が出たことで、腹を立てていたのかも知れないな。2人とも普通の精神状態じゃないとはいっても、酷い話だな・・・。)
 
 聞けば聞くほどチルダさんが気の毒になってくる。
 
「母のことは・・・気の毒だと思います。姉の気持ちもわからないわけじゃありません。でも父も母ももう少しお互いに歩み寄ろうとしていたら、あそこまで決定的に亀裂が入ってしまうことはなかったと思うんです。」
 
 お互い自分の主張ばかり繰り返し、相手の気持ちを思いやろうとしなかったように、チルダさんには見えたらしい。実際そうだったんじゃないだろうかと、話を聞く限り思える。
 
「結局父と母は和解しないまま、母は亡くなりました。最後の最後まで、イノージェンさんのお母さんと、イノージェンさんを呪うような言葉を言い続けていました・・・。」
 
 そんな母親を見て、チルダさんは情けなくなったのだという。
 
「ほんの少し相手を思いやるだけで、今生の別れだって穏やかになるのではないかと思うのですが・・・。」
 
 小さな頃はごく普通の優しい母親だったと言うが、その頃のことをチルダさんはあまり憶えていないらしい。だが父親からただひたすら頭を下げられてしまうと、リーザもラッセル卿も何が何でもだめだとは言いにくかったのか、イノージェンの元に手紙を出した。こちらに来ることがあったら顔を出してくれないかと。
 
「あの手紙は、どうやらリーザさんもラッセル卿も、いやいやながら出したってことなのね・・・。」
 
 つぶやくようなイノージェンの言葉に、チルダさんがうなずいた。
 
「手紙を出しても、イノージェンさんがこちらに来なければそれまでですから。」
 
 実際、イノージェンはその話を断っている。今回は祭りに行くことになったのでそちらの都合がよければと返事を出したらしい。リーザとラッセル卿にとっては想定外のことだったかも知れない。
 
「姉は『優しい母』の記憶が一番あるから、同情的になってしまうのはわかるんですが、だからといって、それがイノージェンさんのお母様を侮辱する理由にはなりません。」
 
(男爵としても、子供達に反発されるとイノージェンに財産分与をしたいという話を進めにくくなるから、遺言書も書かず、ひたすら頭を下げて会わせてくれるように頼んでいたんだろうな・・・。)
 
 イノージェンに会ってその話をして、イノージェンがはいと言えばそれで相続人として迎えることが出来る。それを狙ったのだろうが、子供達はイノージェンに会わせてくれない。しかも間接的に本人が相続人になる気はないと言っているという話ばかり聞こえてくる。それでドーンズ先生に頼み込み、一芝居打つことにしたのだろう。その芝居が成功すると考え、ラッセル卿にイノージェンを相続人に加えたいという話をしたのが、あの話し合いの日だったと言うことか・・・。
 
 男爵本人はイノージェンのためにはそれが最善だと信じて疑わなかったのだろうが、男爵家の子供達がどう考えるかは計算に入れていなかったのだろうか。
 
(そこまで考えていたら、あんなバカな企みをしたりしないよな・・・。)
 
 それがドーンズ先生につけいらせる隙を作ることになり、彼はラッセル卿までも自分の支配下に置こうと「ハーブティ」を渡した。だがラッセル卿はあの薬の影響からは抜け出ているだろう。今の時点で服用を止めることが出来てよかった。依存性の高い薬ではないが、長い間飲み続ければどんな副作用が出るか、今の研究ではそこまで進んでいない。ハインツ先生があの「ハーブティ」の中身を分析してみると言っていたので、あとで聞いてみよう。それにドーンズ先生の供述書もいずれ牢獄から届くだろう。あの「ハーブティ」についての話が出ているかも知れない。そこの部分だけなら教えてもらえると思う。
 
「父がイノージェンさんに会わせてほしいという話をした頃から、わたくし達兄弟の間にも少しずつ亀裂が入っていくような気がしました。姉がイノージェンさんを悪く言う理由と、兄が悪く言う理由は違います。姉のほうは感情的で、母に申し訳ないと言う気持ちがほとんどだと思いますが・・・兄のほうはお金の問題に由来しています。でもわたくしは、イノージェンさんという方がどんな方かもわからないのに、決めつけてしまうのはよくないと思っていましたが・・・。」
 
 チルダさんは一度言葉を切り、小さくため息をついた。
 
「わたくしは・・・姉と兄にとって厄介者だったようです。相続についての手続きからも外されるところでしたが、行政局の方にそれでは手続きが出来ないと言われて仕方なく声がかかったくらいですから。」
 
「でも法律に則って手続きをするなら、チルダさんの存在を無視することは出来ませんよ。」
 
「そうですね。でも最初に兄から言われました。お前の取り分が私達と同じだと思うなと。」
 
「・・・そうはっきり言われたのですか?」
 
 私は驚いて尋ねた。
 
「ええ、それで、その日家に帰ってから夫にその話をしたんです。」
 
「驚きましたよ。それは明らかな法律違反です。もちろん事前に財産の分割についてきちんと協議した書類があれば別ですが、その時はそう言った書類を作る以前の段階でしたからね。なのにいきなりそんなことを言い出すのはおかしいと思いまして、それで次の集まりからは私も同行することにしたんですよ。もちろん義兄には嫌な顔をされましたがね。」
 
 ロゼル卿が呆れたように言った。
 
「・・・その話は、レイナック殿に話してもいいことですか?」
 
 ここは確認しておかなければならない。明確な法律違反をそのまま話してしまっていいものかどうか。
 
「・・・・・・・。」
 
 チルダさんはしばらく考えていたが・・・。
 
「ええ、話していただいてかまいません。隠したところで兄が今でもそのつもりでいるとしたら、いずれ知られてしまうでしょう。それに、レイナック様を相手に兄がとぼけ通せるほど肝が据わっているとも思えませんし。」
 
 チルダさんが小さくため息をついた。
 
「わかりました。」
 
 あの穏やかな風貌からは想像もつかないくらい、レイナック殿という方は「タヌキじじい」だ。失礼な言い方だが、オシニスさんがよくそう言う言い方をしているのを耳にしていたので、何となく私の頭の中でも、レイナック殿が胡散臭いタヌキに見えることがなくもない。もっともレイナック殿がタヌキでもタヌキでなくても、ラッセル卿がうまく騙し通せるような相手でないことは確かだ。
 
「リーザは何も言わなかったんですか?」
 
 妻が尋ねた。
 
「ええ・・・その話を聞いていても何も・・・。」
 
 妻は複雑な顔で話を聞いている。リーザがそんなことを平気で聞いていることが信じられないのだと思う。私だって信じたくはないが、リーザは自分が継ぐわけではなくともガーランド男爵家の嫡子だ。財政状態がよくない家の事情を考えれば、外に出た妹が自分達と同じだけの財産を受け継ぐことにいい気持ちがしないのだろうけど、それは法律で決まっていることなので、決まり事を守らなければガーランド男爵家が罰せられる。
 
(その頃からイノージェンに悪い感情を持っていたとしたら、以前剣士団長室で話を聞いた時は、相当無理していたのかも知れないな・・・。)
 
 ガーランド男爵家とイノージェンの関係を最初に話してくれた時、リーザはイノージェンに財産分与に口を出されるのは困るという言い方をしていた。実際には、困ると言うより『冗談じゃない』と言いたいくらいだったのかもしれない。でも私達にとっては大事な友人だと言われてしまっては、リーザとしてもイノージェンを悪し様にも言えない。しかもあの時、リーザはイノージェンの顔も見たことがなかったのだから。もっともあの時は、リーザとハディの新婚旅行で北の島に来てはどうかという話になってしまったので、元の話がどこかに行ってしまった。あの時はあれでよかったと思う。
 
「わたくしは、別にお金が欲しいわけではありません。男爵家の台所事情が悪いから、一度もらったお金を返してくれとでも言われたら、返してもいいんです。でも最初からわたくしをまるでいない者のように扱うのが悲しくて・・・。父がそんなことを言い出す前まではみんな仲がよかったのに・・・。」
 
 チルダさんが涙を拭った。
 
「これで本当に父が強制的に隠居などと言うことになったら、またどんな騒ぎになるか・・・。」
 
(・・・あれ?)
 
 私達がその話を聞いたのは午前中だ。その時点でガーランド家には話が伝えられているはずだが・・・。
 
(男爵もラッセル卿も入院中、ラッセル卿の家族は実家に帰ってしまっているという事は、今ガーランド家には使用人しかいないって事か・・・。)
 
 主宛の書状が届いても、誰も中を開けられない・・・いや、執事なら開封して中身を確認するだろう。でも開封したとしても、ではどこにその緊急の知らせを持っていくか。
 
(・・・今持って行けるのはリーザのところだけか・・・。いや、でも実家に帰っているとしても、まずはラッセル卿の夫人に知らせるべきことだと思うが・・・。)
 
 本来ならばラッセル卿の夫人が指揮を執って対応しなければならないはずだが、夫人は実家からまだ戻ってこないのだろうか。
 

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