考え込んでいるところに、ハインツ先生が戻ってきた。夜勤の医師も一緒だったので、ラッセル卿のほうは寝息が大分穏やかになったので、逆に目が覚めるなり家に帰るなどと言い出さないように止めてくれと頼んで、病室を出た。部屋の前には、昼間ラッセル卿をここまで運んできてくれた組から引き継いだ、夜勤の剣士が護衛に立っている。彼らにも後を頼み、私は東翼の宿泊所に戻ることにした。

　

　

「まだそんなに遅い時間じゃないけど・・・。あ、そう言えば食事をしてないな。みんなはどうしたんだろう。」

　

　東翼の宿泊所では、もう王国剣士達は引き上げたあとのようだ。管理人に声をかけると、妻とイノージェンは夕方部屋に戻ってきたらしい。

　

　

「ただいま。」

　

　私達が泊まっている部屋に声をかけると、妻もイノージェンも、ライラとイルサも全員いた。どの顔も、あまりすっきりとしない表情をしている。

　

「遅かったわね。ラッセル卿はどうだった？」

　

　妻が尋ねた。私は３人がかりで胃の中のものを全てと言ってもいいくらいに吐き出させたあとは、大分穏やかになったことと、胃の内容物から察するにラッセル卿はおそらく昨夜あたりからろくにものを食べてなかったと思うと付け加えた。

　

「ドーンズ先生という人は、酷い人なのね。リーザはとてもいい先生だと言っていたのに、患者の信頼を裏切るなんて許せないわ。」

　

　妻はかなり怒っている。

　

「ハインツ先生も似たようなことを言っていたよ。それはおそらく、ドーンズ先生が何をしたのかを知った人達みんな、そう思うんじゃないかな。」

　

「そうよねぇ。さっき申し立てが終わってラッセル卿が運び出されていったあと、剣士団長さんが紙の束でテーブルをバシッて叩いて怒ってたわ。」

　

　イノージェンが言った。さっきオシニスさんが怒鳴っていた時のことだろう。

　

「申し立ての内容はライラとイルサに話した？」

　

「ええ、ちゃんと話したわ。怖かったけど首を絞められそうになったこともね。」

　

　イノージェンがため息交じりに言った。

　

「ねえクロービス、ラッセル卿のあの行動は、やっぱり薬のせいなの？」

　

　妻が尋ねた。

　

「本人に全く責任がないとは言えないと思うけど、薬のせいもあるかなってところだね。その辺のことは詳しく説明するよ。ただし、他言無用にね。」

　

　そう前置きして、私はドーンズ先生がラッセル卿に渡した「ハーブティ」の話をした。用法用量についてはきちんと話してあったようだが、ラッセル卿はそれが薬ではなくお茶だと信じていたから、おそらくは大量に飲んだのだろうと言うこと、そしてその薬のせいで幻覚幻聴、妄想が酷くなり、ドーンズ先生がラッセル卿に吹き込んでいた『イノージェンがガーランド家を乗っ取るつもりでいる』という話を、信じ込んでしまったのだろうと言うことも。

　

「彼は自分で自分を追い込んだようなところもあるけど、やったことは許せない。でもね、この話にはもう少しガーランド家の内情も絡んでいるんだよ。」

　

「内情？今回の母さんのこと以外に？」

　

　ライラが尋ねた。

　

「そう。これはイノージェンには全く関係のない話なんだけど、つまりは実際に領地運営を担っているのはラッセル卿夫妻なのに、当主は未だに父親のガーランド男爵だ。お金の問題とかね、いろいろ複雑なことがあるらしくて、そういうこともあって、ラッセル卿は余計に思い詰めてしまったんだと思うよ。」

　

　さすがに父親がドーンズ先生に高額な報酬を支払うために、領地からの上がりを不正に使っていたとは言えない。そもそもその話はラッセル卿も知らないことだ。だが彼はそう遠くない日にそれを全て知ることになるだろう。

　

「でもそれが人を殺そうとしていいと言う話にはならないわよね。」

　

　イルサが口をとがらせた。

　

「もちろんだよ。賠償請求してもいいくらいなんだけど、イノージェンはもうあの家に関わるのはいやだよね。」

　

「遠慮したいわね。やっと縁が切れてすっきりしているのに。」

　

「すっきりしているところを申し訳ないんだけど、ちょっと頼まれごとをしてね、その話を聞いてくれるかな。」

　

「頼まれごと？」

　

　妻が怪訝そうに私を見た。

　

「そう。さっきラッセル卿を病室に運んだ時に、頼まれごとをしたんだよ。チルダ・ランサル子爵夫人にね。」

　

「チルダさんて・・・一番下の妹さんよね。私会ったのは今日初めてよ。でも一言も話すことはなかったけど。」

　

　イノージェンが首をかしげた。

　

「で、そのチルダさんが何をあなたに頼んだの？」

　

　妻も怪訝そうな表情のまま、私を見ている。

　

「実はね・・・。」

　

　

　話を聞いて、すっかり驚いたのはイノージェンだ。

　

「そう・・・。お姉さんとお兄さんの陰に隠れてしまって、自分の言いたいことも言えなかったのね・・・。」

　

「君とガーランド家の関係を考えれば、友好的に姉妹の名乗りを上げるようなことにはならないと、チルダさんもわかってはいたと思うよ。ただね、チルダさんとしては顔を合わせて話をしてみれば、穏やかに話し合いが出来るんじゃないかと思っていたらしいんだけど、リーザもラッセル卿も聞く耳を持たなかったみたいだね。」

　

「そしてやっと会えた私は、ガーランド家との縁を切ることを切望していて、最後の最後にきつい言葉を投げつけたというわけね。」

　

「そのことで君が悩むことはないからね。リーザの態度もラッセル卿の態度も正直なところ酷いものだったし、君はその２人としか会ってないんだから、いい感情なんて持ちようがないさ。それにリーザが言っていた男爵と君の母さんのことだって、チルダさんはあとから聞いたそうだけど、すごく怒っていたよ。自分が同席していたら、絶対止めたのにって。」

　

「まああの時は、そのくらいのことも言われるだろうなと思っていたから、不思議と腹は立たなかったけどね。」

　

　イノージェンは冷静だ。

　

「その話を聞いて、私とライラのほうが腹を立てたわよ。冗談じゃないわ。会ったこともないのにそんなことを言うなんて。」

　

　怒った声で言ったのはイルサだ。

　

「僕もさすがにそれは酷いと思ったよ。不義密通はどちらも罰せられる大罪なんだ。いくらお母さんを思いやっているからと言っても、だからって言っていいことと悪いことがあるよ。普段のリーザさんはとても優しくていい人なんだけど、そのことについてだけは今でも僕はすっきりしないものがあるんだよなあ。」

　

　ライラもイルサも、自分の祖母を貶めるようなことを言われたのでは腹も立つだろう。

　

「正直私も腹が立ったからね・・・。」

　

　リーザだってわかっていなかったわけじゃない。あの時、『あなたのお母さんが悪いわけじゃない』と言っていた。何となくだが、リーザはお母さんの恨み辛みに引きずられているような気はした。イノージェンに対して素直になれないと言うより、素直になってはいけないという、何かがリーザを頑なにさせている、そしておそらくそれは母親が亡くなるまで口にしていたらしい、父と昔の恋人への憎悪の言葉なんじゃないだろうか。

　

「チルダさんは今回の問題に、リーザとラッセル卿にもっと落ち着いて冷静に対処してほしかったんだろうけど、２人とも自分の話を全く聞いてくれなかったらしいよ。だからね、お姉さんとお兄さんに振り回されて、それにもうこの家の人間じゃないなんて言われて、言いたいことも言えずに今日を迎えてしまったチルダさんは気の毒だなと思ったんだよ。だから君にチルダさんの意向を伝えると言う役目は引き受けたわけ。もちろん、君がどんな答えを返したとしても、私はその答えをそのまま伝えるよ。」

　

「返事はすぐにしなければならない？」

　

「特に期間は聞いてないから、そうだな・・・２〜３日中に返事を知らせればいいんじゃないかな。」

　

「そう・・・。男爵家の子供達はみんな私に敵意を持っていると思ってたから、ちょっと混乱してる。少し考えてみるわ。」

　

「そうだね。決まったら教えてよ。」

　

「そうね。決まったら返事をお願いするわ。」

　

　これでイノージェンにチルダさんの頼みを伝えるという役目の半分は終わった。イノージェンがちゃんと話を聞いてくれてほっとした。妻もライラとイルサも、チルダさんの置かれている複雑な立場を思いやってか、黙って聞いていてくれた。

　

「みんな食事は？もう申し立ては終わって裁定は下ったわけだし、大手を振って外にも出て行けるけど、どうする？」

　

「私達も食事はまだよ。あなたが来てからどうするか決めようって話になっていたところなの。」

　

「外に出られるならセーラズカフェに行きたいけど、混んでるかなあ。」

　

　ライラが言った。以前行ったのは確かクリフの手術の前の昼だったと思う。私は行かなかったのでわからないが、その時はかなり混んでいて座るのがやっとだったらしく、セーラさんともザハムさんともろくな話が出来なかったらしい。ライラにとってあの２人とのおしゃべりも楽しみなのだと思う。

　

「うーん・・・とりあえず行ってみようか。」

　

　祭りの夜は混む時と混まない時があるようなので、今日が当たりならゆっくり食事が出来るだろうがどうだろうか・・・。

　

　５人で東翼の宿泊所を出て、喫茶室の入り口の通路に出た時、何者かの視線を感じた。喫茶室と言っても実際にはオープンスペースなので、入り口の扉や壁などはなく、誰でも自由に出入り出来るようになっている。ロビーに出るには喫茶室の中を抜けるか通路沿いに歩いて行くかしなければならないのだが、その通路の隅に男性が立っている。この辺りは待ち合わせの場所に指定されることが多く、大抵何人かの人が人待ち顔で立っているのだが、その人物だけが、誰かを待っていると言うより、出来るだけ気配を消して、こちらを伺っているのがはっきりとわかる。

　

（先生・・・あの人変だよね・・・。）

　

　ライラが後ろから小さな声で言った。

　

（みんな先に行っていて。少し話をしてから行くよ。）

　

（気をつけてね・・・。）

　

　妻が隣で言った。その男性からは明らかな敵意を感じる。

　

　

　イノージェン達を先に行かせたところ、視線の主もイノージェン達のあとをついて移動しようとした。間違いない。この人物はイノージェン達を監視している。私は視線の主が移動する前に、一気に駆け寄った。視線の主は驚いて逃げようとしたが、一瞬早く私の手がその人物の腕を掴んだ。

　

「な、な、なんですか！？人を呼びますよ！」

　

「どうぞ呼んでください。剣士団長室までご一緒しましょうか？」

　

　相手の男性は私をキッと睨んだ。彼の敵意が一気に膨れあがる。

　

「何が目的です？」

　

「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。あなたはガーランド家の私兵の方ですね？」

　

　男性は、はっきりとわかるほどびくっと体を震わせた。ここで素知らぬ顔が出来ないということは、この男性はガーランド家の密偵ではなく、表を守る方の私兵だろう。

　

「ラッセル卿から、イノージェン達を見張れとでも命令されているのですか？」

　

「・・・・・・・。」

　

　男性は黙ったままだ。

　

「仕方ないですね。本当に剣士団長室に同行していただきましょうか？」

　

「わ、私は、何もしていない！」

　

「なるほど、確かに今の時点ではあなたはイノージェン達を見ていただけだ。では私の話を聞いていただきましょう。本日の異議申し立てで、さっき私と一緒にいたイノージェンは、ガーランド家と法的に縁を切りました。今後一切、彼女はガーランド家とは関わりがありません。そしてラッセル卿ですが、今は医師会の病棟に入院中です。」

　

「な、何をしたんですか！？まさか暴力を振るわれて・・・。」

　

　男性を包む『気』がゆらりと揺れ、さらに敵意が膨れあがった。

　

「大きな声を出さないでください。暴力を振るわれそうになったのはイノージェンの方ですよ。フロリア様の御前でね。それがどういうことか、あなたも私兵の方ならわかりますよね。」

　

　男性は真っ青になって黙り込んだ。

　

「イノージェンと子供達には今後一切関わらないでください。それから、一度屋敷にお戻りになったほうがいいですよ。今日のことは全てガーランド家に書面で通知されているはずです。」

　

「あなたの言葉を信じろと？」

　

　男性は胡散臭そうに私を見た。その目が『騙されないぞ』と言っている。

　

「信じないならそれでかまいません。私はこのまま剣士団長に、異議申し立てが終わったあともガーランド家の私兵がイノージェンのまわりを嗅ぎ回っていることを伝えるだけですから。それで立場が悪くなるのは、どちらでしょうね。」

　

　男性は私を睨みつけ、くるりと踵を返して立ち去ろうとした。今ロビーにはイノージェン達がまだいるかも知れない。彼が今ロビーに出てしまうと、また後を付けたりされる可能性がある。もう少し時間を稼ごう。

　

「あ、あなたのお名前を教えてください。」

　

「名乗る気はありません！」

　

「そうですか。ではあとでダカンさんに聞いてみます。」

　

　男性の足がぴたりと止まった。

　

「ダカンはどこです！？」

　

「ここにはいませんよ。」

　

「あなたまさかダカンを・・・。」

　

「ダカンさんの行方も、お屋敷に戻ればわかりますよ。」

　

　私はそう言って名を名乗った。

　

「あ・・・あなたがあの・・・。」

　

「私はリーザ・ガーランドの友人ですが、本日の異議申し立てでは、妻と２人でイノージェンの付添人を務めました。あなたが私を信じなくても別にかまいませんが、もう裁定は下ったのです。今後一切イノージェンにも子供達にも関わらないでください。お屋敷に戻っていただければ、私の言葉が嘘かどうかわかるはずです。」

　

　

　男性は駆け出し、すぐにロビーへと向かう通路に向かって行った。イノージェン達はもうロビーから外に出ただろう。セーラズカフェに向かうなら、南門への大通りからすぐに左に曲がらなければならない。今の私兵がお屋敷に戻るなら、右に曲がって行くだろう。鉢合わせの心配はなさそうだ。

　

「・・・ランドさんには一声かけておくか。」

　

　オシニスさんはおそらくまだ執務室だろう。私は急いで採用カウンターに向かった。ランドさんはまだそこにいたので、紙とペンを借りて今の出来事を書き、オシニスさんに渡してくれないかと頼んだ。

　

「さっきオシニスが戻ってきたんだが、異議申し立ては大分大変なことになったらしいな。そのあと執務室に戻って、未だに戻ってこないよ。おかげで俺もしばらくは帰れないんだ。このメモは間違いなくオシニスに渡しておくよ。まったく、お前には世話になりっぱなしだな。」

　

「そんなことはありませんよ。ではすみませんがお願いします。」

　

　私は急いで王宮を出た。思ったより時間がかかってしまった。また以前のように道に迷ったりしないよう、ちゃんとよく知っている道を辿り、無事にセーラズカフェに着いた。

　

「あらいらっしゃい。久しぶりね。奥さん達はもう来てるわよ。奥のテーブルに案内しておいたわ。」

　

　セーラさんがいつもの笑顔で迎えてくれた。中は思ったほど混んでいない。

　

「でもあなた達が来たのが今日でよかったわ。昨日はものすごい混みようだったのよ。今日は家族連れが少なかったから、この程度で済んでるの。ところで注文だけど、皆さん今日のお勧めをご注文よ。あなたもそれでいいかしら。」

　

「お願いします。」

　

　今日のお勧めとは、セーラさんの自信作だ。セーラさんに注文を伝えて、私は妻達のいる席に向かった。

　

「遅かったわね。大丈夫だったの？」

　

　妻が心配そうに言った。

　

「なんとかね。人目のある場所だったし、あちらも騒ぎは起こしたくなかったと思うよ。」

　

　私は先ほどの男性との会話を話した。

　

「まあそういうわけだから、名前は聞けなかったよ。でも多分すぐにわかるんじゃないかな。」

　

「もしかして、明日からは昨夜の件の調査が始まるのかしらね。」

　

「おそらくはね。」

　

　異議申し立ては終わり、ガーランド家とイノージェンの縁は切れた。もうラッセル卿がイノージェンを監視する必要はないはずだ。たとえガーランド家の誰かが納得していないとしても。そしてこれからは、昨夜の襲撃未遂、フロリア様の御前でのラッセル卿の暴挙についての調査が始まる。そしてそこに、先ほどの件も加わるだろう。あの私兵は申し立てについても何も聞かされていなかったようだ。ということは、昨日から感じていた視線や気配は彼のものだったということか。屋敷にも帰れずにイノージェンを見張れと言われたのだろう。

　

（目が覚めれば、ラッセル卿も正気に戻ってくれているといいんだけどな・・・。）

　

　落ち着いてみれば、自分の考えがいかに突飛でおかしなものだったかも気づいてくれると思う。でもさっきの彼といいダカンさんといい、あんな理不尽な命令にも従ってくれるほど忠義に篤い私兵がいるというのに、ラッセル卿もガーランド男爵も、いったい何を見ているのだろう。余計なお世話だろうと今回のことには腹が立つ。

　

（私兵は駒でも所有物でもない。あの人達はそれをちゃんとわかっているのだろうか・・・。）

　

「お待たせしましたぁ！」

　

　料理が運ばれてきた。思い悩むことがあろうとなかろうと、セーラズカフェの食事はうまい。最後にはいつものコーヒーが出てきた。だが一口飲んでみたところ、何となく味が違う。風味はいつも通りだが、少し苦みが少ない。

　

「あれ？」

　

「ふふん・・・コーヒーの味の違いに気づいたかな？」

　

　マスターがにやにやしているところを見ると、今日のコーヒーはひと味違うらしい。

　

「苦みが少ないですね。」

　

「ああ、そのコーヒーはな、最近手に入れたデカフェって言うコーヒーだ。」

　

「デカフェ？」

　

　私とライラがほぼ同時に聞き返した。

　

「お、ライラも気づいたか。」

　

「そりゃ気づくよ。香りも風味も変わらないのに、苦みだけが少ないんだもの。デカフェって何？」

　

「簡単に言うと、飲んでも眠気覚ましにならないコーヒーのことだな。」

　

「てことは、カフェインが入ってないの？」

　

　ライラは首をかしげている。カフェインが入ってないコーヒーなんて聞いたことがない。

　

「完全にないわけじゃないがごく微量らしい。このコーヒー豆は南大陸にある農園から仕入れたんだが、カフェインを取り除くことに成功したのはごく最近らしいぜ。そこで、試しに仕入れてお客さんの反応を見ようと思ったのさ。夜は眠れなくなるからコーヒーはいらないって客はけっこう多いんだが、うちの料理は締めのコーヒーで完成するからな。そのコーヒーを飲んでもらえないのは悔しいじゃないか。」

　

　今までは仕方なく、元々カフェインの入ってないお茶などを出していたらしいが、デカフェの話を聞いたマスターがどうしても試したいとセーラさんに頼み込んだと言うことだ。

　

「出始めたばかりだから、単価が高いのよね。でもだからってセットの料金を上げるってわけに行かないじゃない？たくさん仕入れればそれだけ安くはなるけど、まずはたくさん仕入れても捌けるかどうか、お試しで入れてみたってわけ。」

　

　セーラさんとしてはいささか不本意な取引だったらしい。

　

「俺は農園の旦那に泣かれたぞ。ここまで安く買い叩かれるとは思わなかったとさ。」

　

「あったり前よ。売れるかどうかわからない物を買ってあげたんだから、感謝してほしいくらいだわ。」

　

　マスターはコーヒーに対して、セーラさんは商売の駆け引きに対して、それぞれ譲れないものがあるらしい。

　

　夜コーヒーを飲んでも眠れなくなる心配がないのはありがたい。ライラはかなり関心を持ったらしく、眠る前に一杯のコーヒーを飲めるのは嬉しいな、などと言っている。少なくともライラはデカフェのファンになりそうだが、夜食事にやってくる客達にどこまで受け入れられるか、それが一番の鍵だろう。

　

「苦みが少ないから、それが飲みやすいと思われるか、物足りないと思われるか、その辺が評価の分かれるところだね。僕なら、眠る前の一杯としては苦みが少ない方がいいかな。」

　

「その辺が難しいところなんだよな。客の好みは無視出来ないが、あまりにも迎合しすぎると俺の味がなくなっちまうし・・・。」

　

　マスターとしては、苦みのあるいつものコーヒーの味を気に入っているので、出来れば苦みの部分も残したデカフェを開発してほしいらしいのだが、それはなかなか難しいらしい。となると、落とし処をどの辺りにするのかを考えなければならない。

　

「苦みが調整出来るようになるのは、おそらくまだ先だろうしなあ。」

　

　うーんとマスターが考え込んだ。すると隣のテーブルやそのまた隣のテーブルから『飲んでも眠くならないコーヒーがあるの？それじゃ飲ませてよ。』そんな声が上がった。私達とのやりとりもお客さん達の興味を引いたらしい。

　

「よし、今淹れますからお待ちください！」

　

　マスターは嬉しそうにコーヒー豆を挽き始めた。

　

「デカフェって言うのはみんな苦みが少ないの？」

　

　ライラの問いにマスターがカウンターの中から『いや、そうとは限らないぞ』と答えた。

　

　どの豆を使ってカフェインを取り除くか、それによっても変わるのだが、先ほどマスターズ唸っていたように、調整は出来ない。まだまだこれからの技術らしく、安定した品質のデカフェ用豆を常に供給出来るようになるのは、まだ先だろうと、マスターが言った。

　

「そんな先の話より、今回仕入れた豆をどう捌くかを考えなきゃならないわ。豆の状態でおいしく飲める期間は限られているんだから。」

　

　なるほどいくら少量とは言っても、個人が楽しむ程度の量であるはずがない。仕入れた豆の量はそれなりに大量なのだろう。まだまだ知られていないものをどうやったらおいしいうちに捌けるか、それが目下セーラさんが頭を痛めている原因らしい。コーヒー豆は時間経過と共に風味も味も落ちていく。そうなるといくらマスターの腕がよくても、いつもと同じおいしさのコーヒーを提供するというのは難しくなるのだろう。

　

「それなら期間限定でコーヒーを選べますって言う広告を出してみたら？」

　

　言ったのは妻だった。

　

「期間限定？」

　

「そうよ。ねえ、結構前だけど、ラスティの店で仕入れたワインを売りさばくのに手伝ったことがあったの覚えてない？」

　

「・・・えーと・・・あー、そう言えば・・・。」

　

　あの時は、ラスティの妻と娘、キルシェとアローラが、ワインに嵌っていた時のことだった。今時流行りだというメーカーのワインを、ラスティに内緒でけっこうな数仕入れてしまったらしい。ラスティは怒ったが、仕入れてしまったものは仕方ない。何とか売りさばくのに何か考えを貸してくれと頼まれた時、期間限定と銘打って店先に広告を出した。それが島の人達のみならず何故か観光客にも受けて、かなりの数売れたことを今でも覚えている。その後残ったワインを何本かもらったが、おいしいワインだった。食べ物、飲み物は、時間経過と共にいずれは味が落ちていく。何十年物のワインなどと言うのもたまに聞くが、そこまで保存がうまく行くものばかりとは限らない。

　

「そうよ。期間限定として、コーヒーがつく食事に、デカフェといつものコーヒーを両方載せるとか、他にカフェラテやウィンナコーヒーも用意してお客さんが選べるようにするのよ。ねえマスター、期間限定なら、そう言う変わったコーヒーもいいんじゃない？」

　

「う・・・ま、まあ・・・それは・・・。」

　

　マスターは自分が入れるコーヒーの味に絶対的な自信を持っている。だからカフェラテなど女性が好みそうなコーヒーには難色を示していた。砂糖とミルクも本当なら入れてほしくないくらいだというのは、ここに通い始めた頃に聞いた話だ。

　

「なるほどね、うちのコーヒーは女の子にも人気があるのよ。ねえザハム、期間限定ならいいわよね。」

　

　セーラさんが『我が意を得たり』とばかりににんまりと笑いながら、マスターに振り向いた。マスターは苦虫をかみつぶしたような顔で、『まあ・・・それなら・・・。』とつぶやくように返事をした。

　

「へぇ、そっちのお客さん達は商売人には見えないけど面白いアイディアを出すなあ。マスター、セーラママ、そう言う企画をやるんだったら俺達も宣伝するよ。」

　

　隣で先ほどデカフェのコーヒーを頼んで飲んでいた客の１人が言った。

　

「あら、どうやら協力者が現れたわね。そうね、時期が決まったら広告を出すわ。そうしたらうんと宣伝お願いね。」

　

「任せてよ！」

　

　そのテーブルに座っていた何人かも、ここの常連らしい。

　

「ありがとうございました！」

　

　厄介者だったらしいデカフェのコーヒー豆を売りさばく目処がつくかも知れない。セーラさんは上機嫌で私達を送り出してくれた。

　

　おいしい食事と眠れなくならないコーヒー、そして初めて聞いた『デカフェ』と言う言葉、久しぶりにこの店に来た甲斐があった。東翼の宿泊所に戻り、今夜はちゃんとそれぞれが泊まっている部屋に入った。ライラが『ほんとだ、さっきコーヒーを飲んだのにすごく眠い。』といっているのが聞こえた。

　

　私達も部屋に戻り、今日は風呂に行こうかと思ったのだが、妻が何か考え込んでいる。

　

「どうしたの？」

　

「ちょっとね・・・さっきの話を聞いて、チルダさんが気の毒になっちゃったわ・・・。私もイノージェンと同じく、彼女もリーザ達と同じ考えだと思っていたから。」

　

「私達も思い込んでしまっていたよね。チルダさんとは今日顔を合わせるまでずっと会ったこともなかったのに。」

　

「あなたは知っていたのよね。」

　

「随分昔だよ。ラッセル卿とチルダさんがまだ１０代で、王国剣士になったリーザに興味津々でついて回っていた頃のね。私達もその頃は町の中を歩くことが多かったから、警備中に何度も遭遇してたんだよ。どうやら、リーザと同期の私達にも興味があったみたいだよ。」

　

「でもあなた達は仕事中だったんでしょ？怒られなかったの？」

　

「ちょいちょい先輩に見つかってたよ。でも『何やってんだお前ら！』なんて言われるとね、ラッセル卿とチルダさんがいきなり謝るんだよ。『姉の仕事ぶりが気になってきてしまいました』って。まだ子供みたいなあの２人にそう言って頭を下げられると、怒るに怒れないってぼやいてた先輩はいたよ。」

　

　チルダさんがあの頃１４〜５歳くらいだったはずだから、ラッセル卿は１７歳くらいか・・・。２人ともガーランド家では母親と折り合いが悪かったようだから、その分外に出てリーザと話をするのは楽しかったのだろう。

　

「あっはっは！それは確かにそうよね。子供相手に大声出してたら、その人のほうが悪く見えてしまうものねぇ。」

　

「そういうこと。あの頃は楽しかったよ。私達は少しでも力をつけて早くいろんな場所に警備に行きたいねっていつも話してたし、ラッセル卿は学生で勉強に励んでいたし、チルダさんは結婚して外に自由に出られるようになったことで、毎日が楽しかったみたいだ。」

　

「いつまでも楽しい頃のままではいられないものね。」

　

「そうなんだよね。でも今回みたいな時に、本当なら兄弟が力を合わせて家を守らなくちゃならないのに、結婚したと言うだけでこの家の人間じゃないなんて、リーザもラッセル卿も酷いことを言うよ。２人とも冷静じゃなかったってのはわかるけど、それに気づいてすらいなかったんだと思うと、チルダさんのことは何とかしてあげたいなとは思うわけ。もっともイノージェンがどういう答えを出すのかはわからないし、私が口を出せることじゃないからね。私に出来るのはその答えを間違いなくチルダさんに届けることだけだよ。」

　

「口添えはしないの？」

　

「しないよ。さっきも言ったろう？イノージェンの母さんに不義の疑いをかけられた時は、私だって腹が立ったんだよ。チルダさんには申し訳ないけど、今回のことでイノージェンをなだめるようなことをする気はないよ。」

　

　イノージェンをなだめるようなことを言えば、それがイノージェンの母さんへの侮辱を認めることになる。私にも本当の母親のように接してくれたイノージェンの母さんの名誉は何としても守りたいし、その娘であるイノージェンを裏切るようなことは出来ない。

　

「ただね、今回のことはオシニスさんには伝えておこうかなと思ってるよ。異議申し立ての決着がついたのに、私が陰で動き回っているように思われたのでは困るからね。」

　

「そうよね。それに、明日からは多分ガーランド家に対する調査が始まるわよね。」

　

「そうなんだよね。実はね・・・。」

　

　私は昨夜の襲撃のことをリーザに伝えた時、リーザが泣きながら、心の中で叫んでいたことを話した。

　

「その危険性はあるわねぇ・・・。ラッセル卿の行動は、いくら薬のせいとドーンズ先生の讒言が元だとは言っても、それをもっと辿っていけば、男爵様がイノージェンにばかりかまけていて、家のこともご自分の家族のことも顧みていなかったことが原因なわけでしょ？」

　

「それに男爵の病気が仮病だってことがはっきりしてしまったし、しかも薬を大量に飲んでそう言う状況を作り出していたってことだしね。その調査については、私達はわかる限りの事を伝えた方がいいんじゃないかとは思うんだけど、果たしてそれがガーランド家の取りつぶしを阻止出来るほどなのかどうか・・・。」

　

「昨夜の襲撃といい、夕方の私兵のことといい、何だか言えば言うほどガーランド家の立場を危うくしそうよね。」

　

「そう。いい要素が一つもない。でも事情は聞かれるだろうし、黙秘ってわけにも行かないし、さりとて嘘をつくわけにも行かないし・・・。」

　

　２人揃ってため息をついたところで、お互い『まあ今日はもう考えるのをやめよう』ということになった。２人で風呂に行き、さっぱりしてから寝ることにした。起きた事実は変えようがないし、ガーランド家をかばい立てするために嘘をついたり知っていることを黙っていたりするのは、あの家のためによくないと思う。いや、何よりオシニスさんやレイナック殿相手に、嘘をつき通せる気がしない。

　

　

　翌朝

　

　私達はまずイノージェン達の部屋に向かい、チルダさんの頼みについて、オシニスさんにも相談してはどうかと言ってみた。

　

「でももう、申し立ては終わったし、そこまでご迷惑をかけるわけにも行かないかと思ったんだけど・・・。」

　

　イノージェンもそれは考えたらしいが、果たしてそこまで相談すべきかどうか迷っていたらしい。

　

「僕達は話を通しておいた方がいいんじゃないかって言ったんだけどね。昨日の今日でもしもランサル子爵家に連絡をいれたとして、それがガーランド家の人達の耳に入れば、何か言われる可能性はあるじゃないか。」

　

　ライラとイルサはまずオシニスさんに相談した方がいいと言ったらしい。

　

「でも申し立ては終わったのよ？」

　

「昨日の話を聞く限り、終わってすっきりしてるのは母さんだけじゃない？だいたい何もご存じない男爵様のこともあるし、きちんと団長さんに話を通して、助言していただいたほうがいいと思うわ。」

　

　イルサが言った。

　

「オシニスさんはガーランド男爵家の家督相続について正式な立会人の立場なんだ。君はガーランド家と縁が切れたけど、相続が終わるまではオシニスさんの立ち位置は変わらないはずだし、相談くらいはいいと思うよ。ただオシニスさんの予定はわからないから、朝食のあと予定を聞いてこようか？」

　

　イノージェンは少し考えていたが・・・。

　

「そうね・・・。正直どうすべきか迷っているのよ。お話を聞いていただけるだけでも違うかも知れないから、行ってみようかな。」

　

　

　今日も東翼の喫茶室で朝食を食べた。ライラとイルサはチルダさんのことが気になるらしく、外に出ずイノージェンと一緒にオシニスさんのところに行くつもりらしい。

　

「イルサは休みをもらっているとしても、そろそろ終わりだろう？ライラだって向こうの準備はどうなってるんだい？」

　

　祭りの方は毎年少しずつ終わる時期が延びているという話は聞いたが、彼らの休みまで延びているとは思えない。心配になって尋ねてみた。

　

「私の方はね、お休みを少し延ばしてもらったの。帰る時は定期馬車で帰るんだけど、予約が一杯なのよ。一週間くらい前に聞いたら、しばらくは空きが出ないんですって。だからこの間定時報告に来ていた灯台守の人に、手紙を頼んだのよ。帰れる当てがないからもう少し延ばしてくださいって。お祭りに来たのは初めてだから、まさかこんなに混むなんて思わなかったわ。もしもだめだって言われても帰れないことには仕事に戻れないし、まあ帰ったらちゃんと謝らなくちゃならないけど、仕方ないわ。」

　

　祭りの間はクロンファンラの人口が減るくらい城下町に人が集まるらしいので、多分そう簡単に帰ってこられないわよ、などと同僚の司書達に言われたそうだが、それは冗談だとイルサは思っていたらしい。

　

「まさか本当にこんなことになるとはね。読みが甘かったわぁ。」

　

「僕の方はハース鉱山に直接向かう船に乗るから混む心配はしなくていいんだけど、少し前にシドさんから手紙が来たんだ。お祭りで鉱夫の人達がかなりの数休んじゃっているらしくて、試験採掘の準備が予定通りに進んでないみたいなんだよね。だから早めに帰ろうかと思ったら、手紙の最後に『お前は絶対帰ってくるな。いやって言うほど骨休めしてこい』と書かれていて、帰るに帰れないんだよ。それに、あの手紙のことも結局何もわかってないようなものだしね。」

　

　あの手紙とは、フロリア様やオシニスさん、ハース鉱山のロイなどに届いた脅迫状のことだろう。あれからいろんなことが起きすぎてその話をする時間もなかったが、さて脅迫状を送りつけた張本人たる『あのお方』は、自分がそんな手紙をばらまいたことを覚えているのだろうか。

　

「あの手紙のことは、調査はしているはずだよ。でもまあ、その鉱夫頭の人だったよね、シドさんて。その人がそこまでしつこく骨休めをしろって言ってくるってことは、君はなかなか休もうとしないってことだよね。」

　

　ライラが『あ』という顔をして肩をすくめた。

　

「ま、向こうで早く帰ってこいと言ってこないなら、君達の母さんのことをきちんと見届けるまでいてもいいと思うよ。」

　

　

　私が気になるのはクリフのことだ。今日からクリフには食事が提供される。今のところはパンがゆの上澄み程度なのでチェリル特製の味と言うことになるはずだ。まずはクリフの病室に顔を出して、ハインツ先生と話をしなければならないとは思うが、クリフの経過が順調な今、あまり頻繁に顔を出していいものかどうか判断に迷う。執刀医としての責任があるとは言え、あくまで主治医はハインツ先生だ。

　

「私としてはチェリルの作る食事も気になるわねぇ。マレック先生のところに顔を出してみようかしら。」

　

「あ、私も行きたいわ。レシピだけでも話を聞きたい。」

　

　妻の言葉にイノージェンが言った。

　

「それじゃ手分けしよう。私は先にオシニスさんのところに行って予定を聞いてくるよ。君達はマレック先生のところに行ってみたら？」

　

「ねえ、私は先生と一緒に剣士団長さんのところに行っていい？」

　

「かまわないけど、いないかも知れないよ？ランドさんに聞けば予定は教えてくれると思うけど。」

　

「いいわよ。１人で部屋にいても仕方ないし。図書室に行ってもいいんだけど、今はお休みの人が多くて人手が足りないから、手伝いに入ってしまうとなかなか抜けられないのよね。それより、団長さんにはいろいろと教えていただいたお礼を改めて言いたいわ。」

　

「それじゃ僕も先生と一緒に団長さんのところに行こうかな。今回のことではお世話になったのに、僕もまだお礼も言えてないしね。」

　

　

　こうして、妻とイノージェンはマレック先生のところへ、私はライラとイルサを連れて、剣士団の採用カウンターへと向かった。ランドさんにオシニスさんの今日の予定を聞くと、今はいないらしい。

　

「今日からは昨日までのガーランド家のごたごたの調査だ。お前が顔を出したら、話を聞きたいからいつがいいか予定を聞いておいてくれって言ってたんだよ。ちょうどよかった。」

　

「私もオシニスさんの予定を聞きに来たんですよ。いつなら空いているかなと思いまして。」

　

「なんだそうか。何の用事か聞いてもいいか？」

　

　私は後ろにいるライラとイルサに振り向いて尋ねた。

　

「ランドさんには話してもいいよね？」

　

「もちろんです。」

　

「ええ、ぜひ聞いていただきたいです。」

　

　きょとんとしているランドさんに向き直り、私はチルダさんの頼み事を簡単に話した。

　

「へえ・・・そんなことがあったのか。しかし気の毒な話だな。わかった、オシニスが戻ったら聞いておくよ。それじゃお前の方はいつでも大丈夫なんだな？」

　

「大丈夫ですよ。今のところ気になることと言えば、ガーランド男爵とラッセル卿の状態だけですしね。」

　

「クリフは順調なのか？」

　

「今日から食事が出されます。パンがゆの上澄み程度ですけどね。そのことで、ウィローとイノージェンはマレック先生のところに顔を出してますよ。」

　

　

　ランドさんがオシニスさんに確認して、誰か使いをよこすと言ったので、私達は一度医師会に戻った。子供達は東翼の宿泊所に戻り、それぞれ職場の状態を把握すべく手紙を書くことにしたそうだ。ライラとしても『帰ってくるな』とは言われても状況については気になるのでもう少し詳しく知りたいだろうし、イルサは『休みを延ばしてくれ』という内容の手紙を出しただけなので、それに対する回答もほしいらしい。

　

「母さんが行く時に声をかけてくれればすぐに出掛けるよ。」

　

「ライラ、私と母さんが泊まっている部屋で一緒に手紙を書かない？呼びに来てもらうのに、一緒にいた方がいいわよ。」

　

「それもそうか。それじゃそっちの部屋に便せんとペンを持っていくよ。」

　

　

　イノージェンが剣士団長室に行く時には必ず声をかけると約束して、私は東翼の宿泊所を出て医師会へと向かった。まずはガーランド男爵の部屋を覗いてみた。入り口にはまだ王国剣士が立っている。ノックして声をかけると、タネス先生が出迎えてくれた。

　

「あ、おはようございます。」

　

「おはようございます。男爵の様子はどうですか？」

　

「相変わらずです。昨日から本格的に治療が出来るようになりましたが、薬を飲ませる以外に出来ることがないのは変わりありませんからね。ただ、今使っている薬を何日か飲めば、目覚めるとは思います。問題なのはそのあとなんですけどね・・・。」

　

　強い薬の影響がどのくらい残るのか、それは目が覚めてみないことにはなんとも言えない。

　

「いっそ禁断症状で暴れてくれるくらい元気があった方がいいんですが、ぼんやりしたまま何の反応も示さないような、そんな状態になる可能性もありますしね・・・。」

　

　もっとも元気があったとしても、イノージェンのことを聞けば放心状態に陥る危険性はある。

　

「そうなんですよ。ここに運び込まれた時点でこの薬を使うことが出来ればよかったんですが、はっきりしたことがわからない状況ではそこまで思い切った手は使えませんでしたし・・・。」

　

「そう言えばリーザは来てるんですか？」

　

「ええ、先ほどもいらっしゃいましたよ。いつも気功で起こしてくださるので薬を飲ませるのには助かってます。お父様のことがご心配なのでしょうね。」

　

　昨日は朝からここに来ていなかったので知らなかったが、リーザは毎日薬を飲ませるためにここに来ていたらしい。

　

（今日からはガーランド家の調査が始まる。リーザも大変だろうな・・・。）

　

　男爵のことはタネス先生に任せるしかない。使っている薬を見せてもらったが、なるほどハインツ先生ならこれを使おうと考えるだろう。私が心配する必要はなさそうだ。ガーランド男爵の部屋を出て、私はラッセル卿の部屋に向かった。

　

（そう言えば医師の手配はしてくれたはずだけど・・・。）

　

　ここの病室にも王国剣士が配置されている。

　

　ノックして中に入ると、ラッセル卿は目が覚めていた。だがベッドに寝たまま、黙っている。私の方を見ようともしない。

　

「おはようございます。」

　

「おはようございます。ハインツ先生からラッセル・ガーランド卿の治療を任されております、ベルウッドと申します。」

　

　私はベルウッド先生にラッセル卿の状態について少し尋ねた。ベッドに寝ているラッセル卿は、自分のことを話しているというのに、ずっと黙ったまま天井を見つめている。彼から感じ取れるのは、諦め・・・もう何もかもどうでもいいという投げやりな感情だ。あれだけのことをしでかしたのだから、そう思いたくなる気持ちがわからないではないが、父親のガーランド男爵が未だに目覚めないと言うことは、ガーランド家の領地運営などは全てラッセル卿の肩に掛かっている。投げやりになっている暇などないはずなのだが・・・。

　

（私に言われたくはないかもしれないな・・・。）

　

　そして私が言うべきことでもない。ここは黙っておこう。

　

「気分はどうだい？」

　

　私が顔を覗き込むと、ラッセル卿はプイと背中を向けた。

　

「昨日の異議申し立てについては、ちゃんと最後まで話を聞いたね？」

　

　ラッセル卿の肩がぴくりと震えた。

　

「聞いたね？」

　

　私はもう一度尋ねた。

　

「・・・聞きました・・・。」

　

　小さな声で返事があった。何だか身構えるようなピリピリした『気』を感じたのだが、もしかしたら私に『ほら言ったとおりだろう』とでも言われることを覚悟したのかも知れない。だがそれは言う必要のないことだ。しかもこんな時に。

　

「異議申し立てが終わったあと、君は意識を失ったんだ。それでここに運び込まれたんだよ。すぐに胃の中のものを吐かせたんだけど、君の胃の中には大量の薬が入っていたよ。吐き出した液体が茶色だったからね。」

　

「私は薬など飲んでいませんよ。まだいい加減なことを仰るんですか。」

　

　異議申し立ての場での自分の醜態を、ラッセル卿は覚えているのだろう。何となく、引っ込みがつかなくて私に突っかかっていると言う気がする。

　

「君が飲んでいた「ハーブティ」、あれはドーンズ先生からもらったものらしいが、あれが鎮静剤だったんだよ。君の父上が病気を装うために飲んでいた鎮静剤と、同じ植物から取れる薬だ。少量なら心を落ち着かせてくれるが、常用していい薬じゃない。君はどうやらその「ハーブティ」を異議申し立ての前に大量に飲んだようだね。何度吐かせても君の胃袋からは、茶色い液体しか出てこなかったよ。君はここしばらくの間、ずっといらいらし通しだっただろう。誰に何を言われても怒鳴り返したりすることが多くなっていたんじゃないか？この薬を大量に服用すると、幻覚や幻聴、妄想が酷くなるなどの症状が出る。君はずっとそう言う状態だったんだ。」

　

　ラッセル卿の背中が震えている。

　

「そんな・・・。それじゃ私は・・・ドーンズ先生に騙されていたんですか・・・。」

　

「そういうことになるね。」

　

　ラッセル卿が家督を継いだあと、ドーンズ先生は彼を自分の支配下に置いてガーランド家を食いものにしようと企んでいたというのは牢獄からの報告書にあったことだが、ここにはベルウッド先生もいる。そこまで言う必要はない。ここで話していいのは、医師として話せることだけだ。

　

「思ったより元気そうでよかったよ。まだしばらくの間薬は飲んでもらわなければならないだろうけど、酷くなってなくて本当によかった。」

　

　私はベルウッド先生に後を頼み、部屋を出ようとした。

　

「クロービスさん！」

　

　ラッセル卿の声に振り向いた。

　

「あの・・・すみませんでした・・・。今まで・・・。」

　

　ベッドの上に起き上がり、私を見つめて、ラッセル卿はそこまで言うと泣き出した。私は戻ってベッドのわきに腰掛け、彼の肩を叩いた。

　

「私のことは気にしなくていい。今は療養して、ゆっくりと休んだほうがいいよ。」

　

　ラッセル卿は何度も頷き、顔をごしごしと擦った。やっと、以前のラッセル卿に戻ったような気がする。つらい出来事に苦しんでいたのはラッセル卿だって同じなのだ。今はただ、体と心をゆっくりと休めてもらおう。