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第102章 ガーランド男爵家という災厄

 
 運ばれてきたガーランド男爵が、空いているベッドに寝かされた。オシニスさんはクロムとフィリスに、この部屋の扉の前で見張りをしてくれ、指示はあとで出すからと言い置き、中に入って扉を閉めた。
 
 ハインツ先生は男爵のシャツのボタンを緩め、口元の匂いをかいでいたが・・・。
 
「クロービス先生の仰るとおりですね。しかし良く無事でしたねぇ。こんな強い薬を口元の匂いでわかるほど大量に飲んで、しかもそれがたびたびだったのでしょう?命がある方が不思議なくらいですよ。無茶をなさいますねぇ。」
 
 ハインツ先生がため息をついた。
 
「ドーンズ先生がどのくらいの頻度で薬を飲ませていたか、そこが鍵になるかも知れませんね。」
 
 家族にも病気に見えるようにするつもりで薬を飲んでいたのだとしたら、そこそこ頻度は高かったのかもしれない。
 
「はい。その頻度によっては、薬が抜けていく過程で禁断症状が出る可能性もあるんですよ。」
 
「そのあたりは牢獄で審問官に聞いてみます。誰か行かせますから。」
 
 オシニスさんが言って、扉の前にいるフィリスとクロムに少し指示を出してくるよと言って部屋を出た。
 
「あの・・・父はしばらく入院させないとだめでしょうか。」
 
 遠慮がちに訪ねたのはラッセル卿だ。
 
「ご自宅に帰す場合は、信頼の置ける医師の元で確実な治療が行われるようにしていただかないとなりませんね。ドーンズ先生がいない今、当てはおありですか?」
 
 ハインツ先生がラッセル卿に尋ねた。
 
「いえ・・・。」
 
 つまりはここにいたら、男爵とイノージェンが会うことになるから、それを阻止したいと言うことだろうか。ラッセル卿と男爵夫妻の親子関係はお世辞にも良好とは言えなかったようだが、それにしても父親の命よりも財産の方を気にしている・・・?
 
(そんな人じゃなかったと思っていたけどなあ・・・。)
 
 少なくとも若い頃に会ったラッセル卿は、物静かで思慮深く、誠実な印象を受けたのだが・・・。
 
「ラッセル卿、この期に及んでイノージェンさんに会わせないで済ませる算段なんぞしないことだ。じいさんを怒らせたらどうなるか、男爵家を潰してもいいなら何も言わんがな。」
 
 部屋の中に戻ってきたオシニスさんが言った。
 
「・・・・・・・・。」
 
 レイナック殿が本気で怒ったら、男爵家などひとたまりもなく吹き飛ぶことだろう。リーザもラッセル卿も、結局は家督相続を先延ばしにしようとしている父親と同じ事をしている。ラッセル卿の心がかなり揺れているのはわかったのだが・・・。
 
−−≪いや、だめだ!信じてはいけない。私が阻止しなければ何もかも失ってしまう!≫−−
 
 これはラッセル卿の心の声と言うことか・・・。阻止する?何もかも失う?どういうことだ?リーザよりもラッセル卿がイノージェンに対して頑なすぎると思っていたが、もしかして誰かに何か言われているのだろうか。イノージェンを父親に会わせたりしたら、彼女に財産を奪われるというようなことを・・・。
 
「それとも君は、父上が死ぬまで家督を譲らないつもりなら、それまで待っているつもりか?」
 
「いや、そんな・・・ことは・・・。」
 
 歯切れの悪い返事・・・。本当にそんなことまで考えていたのだろうか・・・。
 
「なあラッセル卿、万一男爵が家督を譲らないまま亡くなった場合、イノージェンさんは強制的に相続人の1人として扱われることになるんだぞ?」
 
「・・・え?」
 
 ラッセル卿が呆けたような顔でオシニスさんを見た。
 
「い、いや、でも私達相続人が認めていなければ・・・。」
 
 つまりラッセル卿は、自分達がイノージェンを認めなければ、父親が家督を譲らないまま亡くなったとしても、彼女を相続人に加えずに済むと思っていたらしい。
 
 
 ガーランド男爵家の台所事情がどれほど逼迫しているのかはわからないが、それにしてもこのまま先延ばしにして父親の死を望んでいるなんて、男爵家の家名に泥を塗るような行為ではないのだろうか。だがそれも、ラッセル卿に何事かを吹き込んでいる人物の差し金だとしたら、その人物の目的は何だろう。
 
(強制的にイノージェンを相続人の1人として認めさせ、男爵家の財産を奪うことが目的なら、イノージェンに、或いはその子供達のライラとイルサに誰かしらが接触してきてもおかしくないんだが、そう言った気配は感じられない。)
 
「リーザと君と君の妹さんと、3人がたとえば全員で拒否したとしてもだ。イノージェンさんの存在はフロリア様もじいさんも、ガーランド男爵家の相続についての立会人である俺も知っている。そして彼女は男爵が昔の恋人に送っていた手紙や金を話し合いの場で出してきて、それをあの場にいた全員に見せた。それは俺もちゃんと確認している。そこまではっきりと男爵の子供だとわかっている人物がいる場合、まずは相続人の1人として数えられる。あとはそこで、イノージェンさんがそれを拒否したとしても、イノージェンさんに1ゴールドも渡さずに済ませることは出来ないんだよ。最低限の相続分は彼女に支払われる。たとえ本人が拒否したとしてもな。」
 
「そ、そんな馬鹿な!話が違・・・!」
 
 ラッセル卿は慌てて口を閉じたが、男爵のベッドの隣にいたリーザが顔を上げた。
 
「ラッセル、話が違うってどういうこと!?」
 
「い、いえ、その・・・言い間違いました・・・。」
 
「言い間違い?どう言い間違ったのよ。イノージェンさんのことでは私もなかなか思いきれていないけど、あなたはずっと、父上と彼女を会わせてはいけない、必ず手のひらを返して相続人になりたいと言い出すに決まっているって言ってたわね。そんなにはっきりと言い切れるほど、あなたも私もイノージェンさんの事をよく知っているわけではないのに、どうしてそんなに頑ななのか私は不思議だったのよ。あなたもしかして、誰かに何か言われてるの?」
 
 何かを吹き込まれているのは間違いなさそうだ。普通に考えればそれはドーンズ先生だろう。だがそれで彼が得することがあるとは思えない。そんなことを吹き込んで得したいのなら、まずはイノージェンにすり寄ることを考えそうな気がするが・・・。
 
(いや、もしも・・・。)
 
 こんな時こそ冷静にならなければならない。そもそもこの騒動は、ガーランド男爵がイノージェンを男爵家の相続人の1人として正式に手続きするために起こしたものだ。当然子供達は反発するだろう。そのためにドーンズ先生に協力を仰ぎ、強い薬を投与してもらって自分が病気であることを家族にも世間的にも認知させようとした。そして、『病気で余命幾ばくもないから最後にひと目娘に会わせてくれ』と子供達に頼み込んだと以前リーザに聞いた。
 
 だがイノージェンは相続人の1人となることを拒否している。説得したいと思っても、子供達はイノージェンを自分と会わせようとしてくれない。それでも男爵がイノージェンを相続人の1人とするためにはどうすればいいのか。男爵はどうしようとしているのか・・・。
 
(まさか・・・そこまでが男爵の作戦なのか・・・?)
 
 私の考えが正しいとすれば、イノージェンがこの状況で相続人の1人にならずに済むのは今のうちだ。レイナック殿はガーランド男爵が仮病であることを知った。今頃はもうフロリア様にも報告が行っているだろう。ドーンズ先生は投獄され、既に取り調べは始まっているはずだ。ガーランド男爵の行為も、もしかしたら罪に問われるかもしれない。たとえばそこまで行かなくても、今回の件は御前会議に報告される。そこで男爵家の当主として不適格であると言うことになれば、彼は強制的に隠居させられ、ラッセル卿が家督を継ぐことになるだろう。その相続手続きの過程でイノージェンは否応なく相続人として名を連ねることになる。本人の意思など関係なく・・・。
 
「オシニスさん、ちょっといいですか?」
 
「なんだ?」
 
「少し相談に乗ってください。ハインツ先生、会議室は今空いてますか?」
 
「ああ、午前中は空いてますよ。今回の打ち合わせにかかる時間が読めませんでしたからね。午後からはどこかの部署で使うようですが、今は大丈夫です。必要ならどうぞ、お使いください。」
 
「ありがとうございます。オシニスさん、少しだけ付き合ってください。」
 
「わかった。リーザ、お前はここで男爵についていろ。ラッセル卿、頼むから妙なことを考えないでくれよ。今君がおかしな行動に出れば、ガーランド家は取りつぶしになる可能性もある。」
 
「・・・・・・・・。」
 
 取りつぶしという言葉に、ラッセル卿がびくっと体を震わせた。リーザは青ざめたまま、小さな声で『わかりました』と言った。
 
 
 部屋の外で、私はやっとフィリスとクロムに挨拶出来た。なかなか会えなかったのは、2人が変則的に夜勤や昼勤のシフトに入っていたかららしい。オシニスさんは2人に、中の様子を窺いつつ扉をしっかり守れと言い置いて、私と一緒に会議室に来た。中はがらんとしている。私は盗み聞きの危険を防ぐために会議室の真ん中あたりまでオシニスさんを連れてきた。
 
「何か気がついたと言うことか?」
 
「はい。少し話を聞いてください。」
 
 私はさっき考えたことをオシニスさんに話した。ドーンズ先生と子供達まで利用して、イノージェンを正式な相続人の1人とするために、男爵がここまでのことを考えたのではないかと言うことを・・・。
 
「やっぱりお前もそう思うか・・・。」
 
「と言うことは、オシニスさんもそう思われたんですね?」
 
「ああ・・・。ただいささか突飛な発想だったし・・・まあその、あの男爵にそこまで入り組んだ作戦を考えられるだけの才覚があるかどうか、なんてことを考えていたから、さすがに俺の考えすぎかとも思っていたんだが・・・お前も同じ事を考えたとすれば、もしかしたらリーザも気づいたかもしれないな・・・。それに、そうだとしたら辻褄が合うのは確かだ。そしてじいさんが動くとなると、イノージェンさんがガーランド家と手を切るチャンスは今日中だと言うことか。」
 
「そうです。それに私も明日は動けません。でもこの事態を先送りにしたままでは手術の時に気が散りそうですから、出来るところまで今日のうちに動きたいです。」
 
「しかし、子供達を騙し、主治医まで操ってここまでのことを仕組むとはな・・・。その手腕を領地運営に生かせば、ガーランド家の領地だってもっと潤ったかもしれないのに・・・。」
 
 オシニスさんは独り言のようにそう言うと、ため息をついた。
 
「その男爵の術中にイノージェンを嵌らせたくはありません。どうすればいいですか?」
 
「よし、俺はまずフロリア様とじいさんのところで事情を話してくる。イノージェンさんだってなりたくもない相続人になって要りもしない金を貰わされたあげく恨まれるとか、冗談じゃないだろうしな。」
 
「そうですね。今は医師会の食堂にいます。出来るならすぐにでも男爵と会わせて話をはっきりさせたいところなんですが、男爵があの状態では会わせても話は出来ないと思います。オシニスさん、ガーランド男爵に会わなくても、何とかイノージェンが相続人にならずに済む方法はないんですか?」
 
「それなら直談判だな。」
 
「直談判?」
 
「正式には異議申し立てだ。じいさんとフロリア様の前で直接申し立てをして、相続人から外して貰うのさ。もちろんそんなに簡単に出来ることじゃないし、煩雑な手続きもある。だが今回の場合、前回の話し合いの時、イノージェンさんはお母さんが貰った手紙も金も全部持って来て、俺達はそれを間違いなく男爵本人の手によるものだと確認している。そしてその手紙も金も全てラッセル卿に返して、自分には相続の意思がないことを明言した。それは俺だけじゃなく、あの場にいた全員がはっきりと聞いている。異議申し立てというのは、あの時イノージェンさんが言ったことを、本人がフロリア様とじいさんの前で申し立てをするってことだ。前回の話し合いの内容は全てフロリア様に報告してあるが、あれはあくまでも話し合いの中での経過報告だ。申し立ては必ず本人が意思表示をしなくちゃならないんだ。でないと、相続の意思があるのに第三者がないと嘘を言って話を進めちまうと言う逆のことも起きうるからな。」
 
「なるほど・・・。わかりました。そんなことはないと思いますが、もしも本人が渋るようなら私が説得します。とにかく今日のうちに動けるだけ動いて、何とかイノージェンがガーランド男爵にこれ以上悩まされずに済むための道筋をつけたいです。オシニスさん、協力していただけませんか?」
 
「わかったよ。まずはじいさんとフロリア様に、御前会議でこの件を問題にするのを少しだけ待ってもらおう。そしてイノージェンさん本人が申し立てをしたいから、時間を作ってくれと頼んでみる。実際の申し立てはあとになるだろうが、その間話が進まないようにすることは出来る。」
 
「お願いします。ここまで全て男爵の思う壺では、イノージェンだけでなく、リーザ達も気の毒です。ただこの件については、きちんと話が決まるまでは彼らに黙っていた方が良さそうですね。」
 
「そうだな。どのみちイノージェンさんが申し立てをする時は、リーザはともかくラッセル卿には同席して貰わなければならない。それと立会人の俺もだな。」
 
「私達は同席出来ませんか?イノージェンの事だからフロリア様にお会いすると言われても物怖じすることはないと思うんですが、やはり1人で行かせたくはないですよ。」
 
「ライザーの奴もいないしなあ・・・。そのあたりは少しじいさんにも相談してみるよ。あ、そうだ。あともしかしたら、大臣達の中から何人か見届け人として立ち会わせろと言われるかもしれないな。」
 
「そう言う決まりがあるんですか?」
 
「いや、見届け人についてはきちんと明記されてるわけじゃないが、ガーランド家に関しては当主の仮病疑惑が既に噂になっているからな。大臣達としても気にはなるだろう。立ち会わせろと言われる可能性はありそうだ。」
 
「だとすると、ますますイノージェンを1人で行かせたくはないですね。」
 
「そうだなあ。このことが公になれば社交界の噂話としては格好のネタになるから、そこにイノージェンさんが巻き込まれるってのは気の毒だしな。そして噂なんて言うものは、流れを止めることなんぞ出来やしない。ドーンズが捕まったという話は明日にでも流れる可能性があるから、とにかく出来るだけ早く事を進めないとな。牢獄に誰か行かせてドーンズの取り調べについても資料を持ってこさせるよ。」
 
「今日は午後からデンゼル先生とマッサージについて教えていただく予定なのですが、そちらが終わり次第団長室に顔を出しますよ。」
 
「ああ、そうしてくれ。今日のうちに日程だけ決めておこう。お前はまず明日の手術に集中してくれ。終わってから改めて今後のことを話し合おう。」
 
「はい、わかりました。」
 
 私達は会議室を出て、ガーランド男爵の病室に戻った。リーザもラッセル卿もまだそこにいて、黙ったまま男爵の顔を見つめている。男爵が目覚めた気配はないが、さっきは目が半開きで白目をむいていたのに、今はちゃんと目を閉じている。
 
「おやクロービス先生、今し方護衛殿に気功を使っていただきましてね、男爵様の表情が大分穏やかになりましたよ。」
 
「そうですか。少し楽になったように見えますね。」
 
「そうですね。こういう時は薬を飲んでいただきたくてもその手段がありませんからなあ。呪文や気功とは、かくも便利なものなのですね。」
 
「失礼します。」
 
 扉がノックされて白衣の男性が入ってきた。この顔は見覚えがある。
 
「待っていたよ。薬は持って来てくれたか?」
 
「はい、今日と明日の分だけですが。」
 
「ああ、十分だ。明後日以降はまた考えればいいが、明日は私も動けないからな。」
 
 ハインツ先生は白衣の男性が持って来た箱を開け、中に入っている薬草や薬品の内容を1つずつ確認した。
 
「よし、問題ないな。クロービス先生、以前一度くらいは会われたことがあるかもしれませんが、改めて紹介しますよ。彼は私の助手ですがもう一人前の医師でもあります。タネスです。」
 
 私は名を名乗り、握手を交わした。
 
「麻酔薬の開発者にお目にかかれるとは光栄です。ハインツ先生について薬草学を学んでいますがまだまだひよっこですので、いろいろとご教授いただけますようお願いします。」
 
 感じのいい先生だ。変な『気』も纏わせてないし、腹の中で全然違うことを考えていたりもしない。
 
(いや、普通みんなそうなんだよな・・・。)
 
「クロービス、俺は今回の件で少しフロリア様とじいさんに話があるから戻るよ。何かあればランドに声をかけておいてくれ。」
 
「わかりました。」
 
 よろしくお願いしますとは言えない。ガーランド男爵家の相続について、私がオシニスさんによろしくお願いするようなことはないはずだからだ。
 
「ラッセル、あなた家に帰らなくていいの?」
 
 リーザがラッセル卿に尋ねた。
 
「父上を連れて帰ることは出来ないんですよね。」
 
「それは出来ませんよ。」
 
 リーザが何か言うより早く、ハインツ先生が言った。
 
「この状態でちゃんと治療が出来る医師がいないご自宅には、お返しすることは出来ません。」
 
 ラッセル卿はなんとかして父親を家に連れ帰りたいようだ。
 
「家を取りつぶされたくなければ、そんなことは考えずに1人で帰りなさい。私はもう少しここにいるわ。」
 
「でもまさかそんなことにはならないでしょう。」
 
 ラッセル卿は、レイナック殿が怒ったらどうなるか、軽く見ているらしい。まあ、あの風貌で、いつもにこにこしていて、どう考えてもそんな非情な手段を取りそうには見えないと言うことなのだろうが・・・。
 
「今回の事はレイナック様とフロリア様だけで判断するわけじゃないのよ。父様はイノージェンさんを相続人にするために、劇薬を飲んで病気に見せかけていた。父様に協力したドーンズ先生はその見返りについて何も話さない。今回のことは、おそらく全て父様の書いた筋書きよ。私達を出し抜いて、それでもイノージェンさんを相続人にしたかったようね。明日にでも御前会議で今回の件は報告されるでしょう。ガーランド現男爵は当主として不適格、その子息は意識を失った父親をちゃんとした医師もいない自宅に強引に連れ帰った。さて、御前会議の大臣達はどう思うでしょうね。現当主は不適格だが、子息にも問題あり。では誰があとを継ぐ?私は継がないわ。私の居場所は剣士団だから。そしてチルダは既に結婚して家を出ている。ではガーランド家は取りつぶし・・・と言うことになる可能性が高いって事よ。」
 
「そんな話を・・・良く冷静に言えますね。」
 
 ラッセル卿がリーザを睨んだ。
 
「そうなりたくなければ、早く帰りなさい。」
 
「姉上はいったい誰の味方なんですか!?」
 
「ラッセル卿!」
 
 大声で怒鳴ったラッセル卿を制した。
 
「病室で大きな声を出すものじゃないよ。患者には安静にしていて貰わなければね。」
 
「あなただってイノージェンさんの味方なんですよね。」
 
「そんな問題じゃないよ。今はガーランド男爵家が存続出来るかどうかの瀬戸際だ。とにかく今日は帰ってくれないか。これ以上事態を悪化させたくないのならね。」
 
 ラッセル卿は悔しげに顔をゆがめ・・・
 
≪くそっ!こうなったらあの手紙と金を全部処分しないと!≫
 
 あの手紙と金・・・まさかイノージェンが返した手紙とお金のことか!?あれを処分してしまったら取り返しのつかないことになる。
 
「ラッセル卿、言っておくけど、イノージェンが君に返した男爵の手紙とお金は大事な証拠品だよ。その手紙とお金が男爵の手によるものだと言うことは、以前の話し合いであの場にいた誰もが確認している。どうやら相続人についての君の思惑は外れたようだが、だからといってあれを処分したりしたら、君も罪に問われると言うことは理解しておいてくれるかい?」
 
 ラッセル卿はぎょっとして私を見た。どちらかというと恐怖に近い目で彼は私をしばらく見ていたのだが・・・。
 
 ふいと視線を外し、ラッセル卿は病室を出て行った。
 
(考えていたことを見透かされたと思ったんだろうな・・・。)
 
「大分頭に血が上ってたようだけど、しばらくは静かにしていてほしいな。本当に男爵家存亡の危機になってしまうよ。」
 
「普段は冷静なんだけど、たまにかっとなると感情を爆発させてしまうのよね。暴力を振るったりはしないけど・・・。今更言っても仕方ないけど、せめて母様がもう少し愛情をそそいでくれていたらと思うわ・・・。。」
 
「リーザはさっきオシニスさんが言ったことは知っていたんだよね?」
 
「相続人のこと?」
 
「そう。もしも男爵が家督を譲らないまま亡くなった場合のね。」
 
「知っていたわ。フロリア様の護衛に志願してから、実際に自分が携わるわけではなくてもいろんな案件について聞くことが多くなって、いろいろと勉強したのよ。特に貴族の家督相続については、異議申し立てまで行かなくても、フロリア様とレイナック様にいろいろと不満をぶつけてくる貴族もけっこういたの。そんな時にいくら後ろで立っているだけとは言っても、話の内容がさっぱりわからないのでは情けないものね。だから前回の話し合いのあと、私も一度イノージェンさんと父様を会わせた方が話が早く進むんじゃないかって思ったのよ。妹もそういうことならって私に賛成してくれたんだけど、ラッセルだけがどうしても首を縦に振らなくて、おかしいと思っていたのよね。それが・・・拒否し続けていればやり過ごせるなんて考えていたとはね・・・。」
 
 リーザが小さくため息をついた。
 
「おそらく父様はラッセルの性格を見抜いて、ドーンズ先生に頼んだのだと思うわ。イノージェンさんと父様を会わせたらすぐにでもイノージェンさんは相続人として名乗りを上げるだろうって吹き込んでくれるように。」
 
「そこまで気づいていたんだね・・・。」
 
「今回父様が王宮に訪ねてこなければそこまで考えなかったかもしれない。でもそう考えたら、全てのことがパズルのピースみたいにはまった感じがしたのよ。」
 
 リーザの目からは涙が溢れていた。
 
「父様が・・・いくら愛してない子供達だとしても・・・そこまで私達を蔑ろにするなんて・・・。」
 
 私の勝手な推測だが、男爵は男爵なりに子供達を愛しているのだろうとは思う。イノージェンのことは、それこそ同情の域を出ていない事に男爵だけが気づいていないんじゃないだろうか。寒い場所で苦労したとか、不幸にしたとか、全ては男爵の思い込みだ。イノージェンのかあさんは、私やグレイ、ラスティにとってもかあさん代わりだった。とても優しくて明るい人だった。亡くなる時にはとてもいい人生だったと言って亡くなった。その言葉に偽りはないと思う。その娘のイノージェンだって、島で幸せに暮らしている。だいたいライザーさんという立派な旦那様がいて、仕事を持って毎日楽しく賑やかに過ごしているのだ。男爵の薬の影響がなくなって正気に戻ったら、きちんと話を聞いてもらえるようにしなければならない。もっともその前に全ては終わっているだろう。この状態から回復するには早くても一週間、下手をすれ10日以上かかる。男爵の望みは潰え、あとに残るのはガーランド男爵家の悪評だ。そのあと苦労するのはラッセル卿だというのに・・・。
 
(せめて今回の醜聞が広まらなければいいんだけど、それは無理だろうな・・・。)
 
 悪い噂ほど早く広がる。誰もが面白がって尾ひれをつけて言いふらす。
 
「クロービス、さっきの手紙とお金のこと、釘を刺してくれてありがとう。あれを処分してそんなものはなかったなんて言い張られたら、本当にラッセルまで罪に問われてしまうわ・・・。」
 
「私も思い出して良かったよ。怒りにまかせてあれを処分しようなんて考えられたら大変なことになると思ったからね。」
 
 リーザは私の力についてある程度は知っているのだが、ハインツ先生とタネス先生の手前もある。そこは知らぬ振りでいてくれるらしい。
 
 
「先生方、済みません、嫌な話を聞かせてしまって。」
 
 リーザがハインツ先生とタネス先生に頭を下げた。
 
「いえいえ、お気になさらず。医者は病気や怪我だけを治すものではありませんからね。誰かに話すだけでも楽になることがあるものです。我々は何を聞いても右から左に抜けていきますから、大丈夫ですよ。」
 
 ハインツ先生が言った。
 
「長く生きていればいろいろあるものですからね。」
 
 タネス先生も笑っている。
 
(この人はいい人みたいだな・・・。)
 
 だがハインツ先生の目を盗んで薬草庫から薬草を持ち出した犯人はまだ特定出来ていない。タネス先生が二心あるような人物ではないとしても、まだ安心は出来ない。
 
「失礼します。」
 
 扉がノックされて、オシニスさんが顔を出した。
 
「クロービス、ちょっといいか?」
 
「はい。ハインツ先生、タネス先生、少し出てきます。」
 
「あ、クロービス先生、午前中は私がここにいましょう。タネスと2人で経過観察をしておきます。タネス、悪いが午後からは君1人でここにいてくれ。夕方また顔を出すから。」
 
「わかりました。」
 
「すみません、急な話で。」
 
「大丈夫ですよ。ところで剣士団長殿、護衛殿はこのままこちらにいらっしゃっていいのですか?」
 
「あ、そうだ。リーザ、お前は夕方までここにいてくれ。どうやらラッセル卿は帰ったらしいな。お前なら気功も使えるし、ここで男爵についていてくれれば、治療にも役に立つだろうからな。フロリア様とじいさんには許可を貰ってるよ。」
 
「ありがとうございます。それじゃハインツ先生、タネス先生、何かあれば仰ってください。お手伝い出来ることは何でもやります。」
 
 リーザが頭を下げ、ハインツ先生とタネス先生は『心強いですね』と笑顔で言っていた。
 
 
「クロービス、急で済まないんだが、イノージェンさんと話がしたいんだ。今どこにいる?」
 
 病室を出て扉を閉めたあと、オシニスさんが小声で言った。
 
「食堂ですよ。一緒に行きましょう。」
 
 私達は食堂に向かった。中からいい匂いがしてくる。扉を開けると、もう昼食の準備が本格化している。イノージェン達は部屋の隅の小さな調理台で料理を皿に取り分けているところだった。
 
「あらクロービス、ちょうど良かったわ。味見してよ。」
 
 イノージェンが皿に取り分けた料理を差し出した。
 
「はい、団長さんもどうぞ。」
 
 イノージェンはオシニスさんがここに来たことに驚いていない。自分に用事があるのだろうと思っているのかもしれない。
 
「あ、うまい。」
 
 オシニスさんは一口で食べてしまった。
 
「あ、うまいな。あれ、これって君が良く作る料理だよね。でも何となく味付けが違うような・・・。」
 
「あら気がついた?それはイノージェンと私の合作よ。」
 
 妻が言った。
 
「ああそうか。君が作る料理の味も入っていたから、いつもと違う味に感じたんだね。」
 
「今ちょうど調理をしていたところなんですよ。これからこれを分析して、計算したとおりの栄養素が入っているかどうか調べるところです。」
 
 マレック先生が言った。
 
「ふん、栄養素だの何だのと細かいことを言わんでも、うまい食事が食べられればそれが一番ではないのか?お前はどうも理屈っぽくていかん。」
 
 デンゼル先生が不満げにマレック先生を見ている。
 
「今は理屈も必要なんだよ。いくらうまくて食べ慣れた料理が出てきたとしても、栄養素が偏っていれば患者が元気になれないんだ。そして調理前の食材としてはきちんと栄養素が入っていても、調理の過程で失われるものもあるからね。そう言う話はわかってくれたのかと思っていたけど、やっぱり父さんは父さんだな。」
 
 マレック先生が呆れたように言った。
 
「マレック先生、少しイノージェンさんとウィローを借りたいんですがかまいませんか?」
 
 オシニスさんが尋ねた。
 
「あ、大丈夫ですよ。あとは栄養分析ですからね。お二人ともご協力ありがとうございました。」
 
 挨拶をして食堂を出た。
 
「クロービス、もしかして今朝のこと?」
 
 イノージェンが言った。
 
「そう。オシニスさん、剣士団長室で話した方がいいでしょうね。」
 
「そうだな。イノージェンさん、済みませんが団長室まで来てくれませんか?」
 
「わかりました。」
 
 イノージェンは少し緊張した面持ちで、私達と一緒に剣士団長室までやってきた。
 
「さてと、まずは座ってくれ。俺はお茶を淹れる。」
 
 全員が椅子を持って来て座り、しばらくしてお茶が出された。
 
「ではイノージェンさん、いきなりですみませんが本題に入らせて貰います。」
 
「ええ、お願いします。」
 
 イノージェンの覚悟は決まっている。とにかく早く男爵家との縁を切りたいのだ。オシニスさんは先ほどの男爵の企み云々は伏せて、相続人になることを拒否するというイノージェンの意思が固いならば、フロリア様とレイナック殿の前ではっきりと「相続人となることを拒否する」という申し立てを行ってはどうかと勧めた。
 
「そう言う方法がとれると言うことですか?」
 
 イノージェンがオシニスさんに尋ねた。
 
「申し立てをしたいと願い出て認められれば出来ますが、いつでも出来るわけじゃないし、それなりに面倒な手続きもあります。」
 
「・・・では今回は出来ると言うことなんですね。その理由を伺ってもいいですか?」
 
 ついこの間まで、男爵は自分に会いたいと言っていたし、子供達は会わないでくれと言っていた。だからイノージェンとしては男爵から貰った手紙もお金も全て返して、縁を切りたかったのに今朝は男爵本人と偶然とは言えロビーで鉢合わせてしまい、ぞっとするような体験をしたばかりだ。そう言う方法がとれるのならもっと早く知りたかったのだと思う。だがこの申し立てがいかに面倒で、なかなか許可の下りないものなのかを、昔私も聞いたことがある。
 
「今回の場合だと、あなたが確実にガーランド男爵の子供であることがはっきりしていること、そしてあなたは話し合いの最初から相続をする気はないという意思表示をしていることです。この申し立てというのは、まずその人物が確実にその家の当主の子供であると証明出来ないとだめなんです。そして、イノージェンさんの場合は財産相続を拒否されてますが、逆にどうしても相続したいという人もいます。その意思がはっきりしている場合は、申し立てをしたいと願い出れば、許可されます。この決定はフロリア様と筆頭大臣のじいさん、それに行政局の長が審査して決まるんですが、イノージェンさんの場合はまず審査が通らないと言うことはないだろうと、その筆頭大臣から言われてます。」
 
「そうでしたか・・・。」
 
 イノージェンは考え込んでいる。頭の中で今回の事を整理しようとしているようだ。
 
「ただ、話し合いで解決するなら、それに越したことはないんです。だからガーランド男爵はあなたにどうしても相続人の1人として名を連ねてほしいために、あなたの許可を得たいと考えて、あなたに会いたいと言っているのです。しかしガーランド男爵家の子供達はあなたを認めたがらないので、男爵とあなたが会わないでほしいと思ってます。あなたと男爵が会って、あなたが承諾しない限り、男爵が勝手にあなたを相続人にすることは出来ないんですよ。逆に言えば、男爵とあなたが会って、相続を拒否すると言えばそれで終わりなんです。」
 
「私もそうしたいと思っています。だから男爵様にお会いしたいんですけど、どうしても会わせてもらえません。」
 
「ええ、今のままでは話し合いが進まず、ガーランド男爵家の相続問題は決着しません。しかし、抜け道が1つだけあるんです。それは、現当主である男爵自身が隠居してラッセル卿が家督相続をせざるを得ない状況を作り出すことなんですよ。そうなった場合、確実に男爵の子供だと確認出来ているあなたは、否応なしに相続人の1人として、財産分与の話し合いに加わらなければならないんです。そうなると、あなたが相続を放棄したとしても、法律で定められている相続分は拒否することが出来ないので、貰わざるを得ないということになってしまうんです。」
 
「強制的にですか!?そんな、酷いです!」
 
「ええ、酷い話です。実を言いますと、この件で先ほどクロービスから相談を受けました。あなたがこの先ガーランド家と縁を切ることが出来る方法はないのかと。」
 
「クロービス、あなたが・・・?」
 
 イノージェンが私に振り向いた。
 
「そうだよ。だっておかしな話じゃないか。君はガーランド家と繋がりを持ちたいなんて考えたこともないよね。それなのに無理矢理相続人にされてしまうなんて。それでもガーランド家の子供達が君の存在を納得して受け入れるとでも言うならともかく、リーザだって相当無理しているし、ラッセル卿にいたってはあの調子だろう?私は君の友人として、こんな騒ぎに君が巻き込まれていくのを黙って見ている気はないよ。」
 
「クロービス、ありがとう。」
 
 イノージェンが笑った。
 
「そんなわけで、申し立てが出来るかどうか、さっき筆頭大臣に聞いてきたところなんです。どうでしょう?あなたにとってはあまり気が進まないことでしょうけど、フロリア様と筆頭大臣の前で相続を拒否すると言う申し立てを行って認められれば、あなたはもう自由の身ですよ。」
 
 イノージェンは少し考えていたが・・・。
 
「男爵様は・・・どうして最初からその方法をとらなかったんでしょう。」
 
 イノージェンにとってはおかしな事だろう。最初からその方法をとっていれば、イノージェンがはっきりと拒否したとしても、相続人として名を連ねるしかなくなる。
 
「これはまあ推測ですが、男爵としても、最初はあなたに会って、きちんと話をしたかったんでしょう。男爵はあなたもあなたのお母さんのことも、寒い土地で苦労してきたと思い込んでいるようですから、今まで苦労をかけたとか、優しい言葉をかけて財産分与をすればもう暮らしの心配はなくなるとでも言えば、あなたに感謝されると思っていたんだと思います。ところが子供達がなかなかあなたに会わせてくれないものだから、何とかあなたを相続人に加えるために、強硬手段に出たと言うことなんじゃないかと思いますよ。」
 
 そして男爵は、相続人になればイノージェンが喜ぶと思っている。だから今回のことも、ちょっとくらい強引に事を運んでも、結果としてイノージェンがお金を手にすることが出来れば万事うまく行くとでも思っているのかもしれない。
 
「そういうことですか・・・。それでは申し立てというのは、具体的に何をすればいいんですか?」
 
 イノージェンは何となく呆れたような顔をしている。
 
「あなたがガーランド男爵家の相続人として名を連ねることを、はっきりと拒否すると言えばいいんです。ガーランド家とあなたとの関わりについては、前回の話し合いまでの経緯をまとめた書面を既にフロリア様に提出してあります。申し立てが出来ることになれば、それはあなたとガーランド男爵の親子関係を証明する証拠の1つとして認められますし、相続の意思がないことの証拠にもなります。実際の申し立てで、フロリア様の前で言いたいことは、イノージェンさんが原稿を作ってください。あとは当日それを読み上げればいいんです。」
 
「その場にいらっしゃるのはどなたですか?」
 
「まずはフロリア様、筆頭大臣のレイナックというじいさん、申し立ての認可について決定権を持つ1人である行政局の長、ガーランド男爵家の家督相続について立会人として任命されている俺と、イノージェンさん、そしてガーランド男爵家の家督相続者である、ラッセル・ガーランド卿です。本来ならば、ここにはラッセル卿ではなく、現当主のガーランド男爵が立ち合うべきなんですが、実は男爵は先ほど緊急入院しました。今のところ意識がありませんので、子息のラッセル卿が出ることになると思います。あとは御前会議の大臣達が何人か、見届け人として出席する可能性があります。イノージェンさんには付き添いが認められていますから、もしもクロービスとウィローに付き添ってほしいと言うことであればそう出来るよう取りはからってもらえるはずです。ただ、前回のような話し合いという場ではなくなってしまうので、ライラとイルサの同席は難しいと思います。ラッセル・ガーランド卿も付添人を申請出来ますから、もしかしたら誰か連れてくるかもしれませんね。」
 
「そうですか・・・。それは、いつまでに決めればいいんですか?」
 
「出来ればこの場で。」
 
「この場で・・・でもどうして急に?」
 
「先ほど俺が言った、ガーランド男爵が使おうとしている抜け道です。それがうまくいってしまうと、明日にでもガーランド男爵の隠居と、ラッセル・ガーランド卿の家督相続が発表されてしまうんです。」
 
「それはつまり・・・そうなったらもう私は、強引に相続人として加えられてしまうと、そういうことなんですね・・・?」
 
(あ、怒ってるな・・・。)
 
 イノージェンの心が怒りに満ちてくるのがわかる。
 
「そういうことです。ただし今回、男爵がその抜け道を使おうとしていると気づいた時点で、フロリア様と筆頭大臣には手続きの開始を待ってくれるよう頼んであります。でもいつまでも待てません。あなたを今説得出来るなら、先にあなたの申し立てを行うよう取り計らってくれるよう約束してくれています。いきなりこんな話を聞いて今すぐ決めろというのが酷い話だとわかってはいます。しかしあなたにとってガーランド家と縁を切れる最後のチャンスなんです。どうしますか?」
 
 イノージェンは考え込んでしまった。イノージェンの心が乱れているのがわかる。だがやがて顔を上げた。
 
「クロービス、ウィロー、一緒に来てくれる?」
 
「もちろんだよ。」
 
「当たり前じゃない。一緒に行くわよ。」
 
「ふふ、ありがとう。団長さん、その申し立てをしたいと思います。もうここで終わりにしなければ、私達はいつまでもガーランド家と縁が切れません。あちらの思惑がどうあれ、私にとっては災厄としか思えないんです。ここで断ち切りたいと思いますので、手続きについて教えてください。」
 
 イノージェンはきっぱりと言った。
 
「わかりました。」
 
 イノージェンの意思は固い。まずは日程調整、そして必要な書類を作ること。申し立ての原稿はあとで作るとしても、申立書そのものは手続きの1つとして出来るだけ早く作らなければならない。イノージェンは書類がどのくらいあるのか、手続きにかかる時間などをオシニスさんに教わっていた。
 
「それじゃ明日、ここで書き方を説明します。クロービス、イノージェンさんは明日の手術には参加しないんだよな。」
 
「しませんよ。イノージェン、オシニスさんに聞いて、書類の提出だけは明日のうちに終わらせておいて。申し立ての原稿は、明日の手術が終わったら一緒に考えよう。」
 
「ええ、お願いするわ。この話、子供達には言わない方がいいのかしら。」
 
「口止め出来るなら言っても大丈夫ですよ。あの2人なら問題ないと思いますけど。」
 
 オシニスさんが言った。
 
「口止めって事は、噂が広まるのはまずいってことですか?」
 
「そこは男爵家のために、出来るだけ噂にならないように協力していただけませんか?」
 
「わかりました。それじゃ、明日書類の書き方を教えていただく時、子供達も連れてきては・・・だめですか?」
 
「かまいませんよ。申し立ての場には彼らは同席出来ませんから、そこでだいたいの話をしてやれると思います。あの2人だって当事者ですからね。口外しないでくれれば問題ありません。」
 
 これで話は決まった。オシニスさんはフロリア様の執務室で、イノージェンが申し立てをしたいと言っていたことを報告し、必要な申請書や書類を調べて日程を調整するということだった。
 
「クロービス、男爵が目を覚ますまで何日くらいある?」
 
「普通なら一週間から10日は目を覚まさないと思いますが、治療にあたっているのがハインツ先生とその助手の先生ですからね。数日で目を覚ます可能性もありますよ。」
 
 ハインツ先生はいつだって、患者にとって一番よく効く薬の組み合わせを見つけ出すのが得意だ。
 
「なるほどな。それじゃ手術が終わった次の日辺りで調整出来ないか聞いてみるよ。大臣達は、まあその時暇そうなのを見繕ってもらうか。」
 
「オシニスさん、手土産選びじゃないんですから。」
 
 妻が言って、みんな笑い出してしまった。
 
「ところで団長さん、男爵様の意識がないというお話でしたけど、どういうことなのか聞かせていただくことは出来るんですか。」
 
 イノージェンが尋ねた。
 
「うーん、イノージェンさんにとっては、もしかしたら不快な話かもしれませんが、かまいませんか?」
 
 オシニスさんとしては、いや私だってあんな話は聞かせたくはないが・・・。
 
「ということは、ご病気と言うことではないんですね。」
 
 男爵が病気なら、自分が不快に思うことはあり得ない、イノージェンはそう思ったのだと思う。
 
「違います。」
 
「そうですか・・・。やっぱり教えてください。申し立てをするにも、事情をよく知らないままではいたくないですから。」
 
「わかりました。実はですね・・・。」
 
 オシニスさんは、男爵が強い薬を大量に飲んで自らその状況を作り出し、それを病気と偽ってイノージェンに会おうとしていたこと、だがそれがうまく行かなかったことで、自分が当主として不適格であると思われるよう仕組み、強制的にイノージェンを相続人に加えようとしたこと、そして団長室で倒れ、医師会に運ばれたことを話した。
 
「・・・なんて馬鹿なことを・・・。」
 
 イノージェンが呆れたように言った。全く馬鹿なことだ。
 
「そんなことで私まで・・・いいえ、私だけじゃない、男爵様の子供達まで巻き込むなんて許せません。何が何でも申し立てをして、すぐにでもガーランド家との縁を切りたいと思います。よろしくお願いします。」
 
「もちろんです。ただし俺は立会人でもあるので、あなたに肩入れするような助言はあんまり出来ないんですよね。でも書類の書き方などを教えるのは問題ありません。クロービス、ウィロー、申し立ての原稿とかについての助言はお前達に任せるよ。そこまで俺は口を出せないからな。」
 
「もちろんですよ。私達が動けるのは今日の午後と明後日以降ですから、明日は先ほどの予定通りでお願いします。」
 
 
 その後、オシニスさんは今の話し合いの結果をフロリア様とレイナック殿に報告し、必要な書類も準備して貰うことになった。遺産相続に絡む申し立ての申請はそこそこあるらしいのだが、申し立てをする当人が確実にその家の当主の子供であるという証拠がある事例は少なく、実際に申し立てが行われることはもう大分長いことなかったらしい。
 
 
「お昼はどうするの?」
 
 剣士団長室を出てロビーに出た時、イノージェンに尋ねた。
 
「今日は子供達とセーラズカフェに行こうって言ってたのよ。マレック先生のお手伝いは今日はもうないし、午後からはお祭りを見に行こうかなと思ってたけど、そんな気になれなくなってしまったわ。」
 
「セーラズカフェも行ってないわねぇ。」
 
 妻が残念そうにため息をついた。
 
「イノージェン達と行ってきたら?」
 
「いいのかしら。」
 
「午後のマッサージに間に合えばいいよ。食事のあといきなり始めるわけではないだろうから、時間はあると思うよ。」
 
「クロービスは行かないの?」
 
「私はクリフの様子を見ておくよ。本当は今日一日は病室にいたかったんだけど、さっきの騒ぎで午前中がつぶれちゃったからね。それとイノージェン、楽しめる時は楽しまなくちゃね。午後はお祭りを見に行って、ぱーっと気晴らししてくるといいよ。」
 
「うーん・・・それもそうね。今回のことで私が暗くなる事はないのよね。」
 
「そういうこと。君は何も悪くないんだからね。」
 
「クロービス、それじゃ私はイノージェン達と一緒にセーラズカフェに行ってくるけど、あなたのお昼はどうするの?」
 
 妻が尋ねた。
 
「東翼の喫茶室で食べるよ。あそこなら移動に時間もかからないしね。」
 
「わかった。じゃあ午後にね。」
 

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